子供に対する親の「過干渉」「過保護」がしばしば家庭内・教育の分野で問題になる。
しかし、これは親子関係のみに限ったことではない。成人した人間同士であっても、社会の様々な場所で再現されている。
他ならぬ自分自身の為にも、他人に過干渉することをライフワークにするべきではない。
自分も相手も望ましい状態から遠ざかるだけだ。
エンパワメント
あくまでもクライエントが自己実現を可能にするために自ら自発的に達成したい目標に対して、我々ソーシャルワーカーはエンパワメントの考え方で寄り添うのであり、クライエントが寄りかかって生きていくような状況を創ってはならない。
また、クライエントに対してのリスペクトを忘れ、専門家としての自負に目を眩まされ手段を強硬的に推し進めてしまうような事もあってはならない。
あくまで本人が人生をより良く生きるためのサポートであると肝に銘じるべきである。
主役は、本人。私たちは手を添えることくらいしかできない。
他人である援助者が課題を勝手に決めちゃいけない。
本人が課題設定から決めなくてはならない。
それが「エンパワメント」であり、ソーシャルワークの根幹をなす在り方の基礎。
しかし、それはエンパワメントのプロであるはずのソーシャルワーカーですら、しばしば忘れてしまう。
頼られることは、気分がいい。
自分の存在が全肯定されたような気持ちになるからだ。
「あなたがいてくれてよかった」と言われることがどれだけ快感かを知ってしまうと、その誘惑から逃れ難い気持ちは分かる。
そういう正のフィードバックが報酬系に刻まれているから、私たちは他人に優しくするのかもしれない。
他人に優しくしたことで、感謝されたり喜ばれたり。その経験がモチベーションとなり人を助ける行動に繋がる。
それ自体は決して悪いことではない。実質的にそうやって行動することが人の助けになっているし。
問題は、必ずしも正のフィードバックが毎回得られるわけではない現実に気づいたとき、だ。
尻ぬぐい
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
けり返されるかもしれません。
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) November 28, 2020
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けたら、あなたならどう感じるだろうか?
「せっかく助けてやったのに」と思うだろうか。
私はそう思ってきた。
感謝されないのに最良のものを与えることなんてない。
感謝の代わりにそれなりに良質なもの(行動)を与えているのだから。
そうして私は感謝の形として、金銭だったり承認欲求だったりを受け取ることを欲した。
しかし、それは「助ける」ではなくて、ギブアンドテイクであり取引なのだと気づいた。
「助ける」とか「誰かのために」というのは、本来感謝されることを前提にしていない。
「助ける」の材料は「純粋なあげっぱなしの愛情」だと気づいて、私は今まで誰も助けてなどいなかったのだということを理解した。
まず、本人が自分で立てると信じていなかった。
そいつができないからできる俺が代わりにやってやる、という傲慢さがあった。
相手に潜在的な能力があると信じていなかったということだ。
その人の生きる力を信じなくては、本来エンパワメントはできない。
では私は何をしたかったのかというと、その人をエンパワメントしたいのではなくて、私は『他人を上手に使って』私に力があることを自分に示して安心したかっただけだったのだ。
私は他人を救うくらいの力がある、と思えれば、ダメな自分ではなくなる気がして、他人を助けるふりをした。
だから、助ける相手がいないと困るのは私のほうだった。
私ばかりいつも辛い目に遭う?
とんでもない誤解だ。
自分が、能動的に困っている人に近寄って行ったんじゃないか。
わざわざ他人が解決できる面倒ごとに首を突っ込んで、口では「つらいつらい」と言いながら、内心嬉々として他人の尻ぬぐいを手伝ってきたのだ。
「他人のため」というのは「他人の『役に立ちたい自分の』ため」
思うに、社会啓発に傾注する人って、まだ回復できてない人なんだよなぁ。
成果に縛られているし、知名度に縛られているし、コントロールに縛られてる。
そんな中途半端な状態で社会に対して声高に叫ぶから余計にアディクトが忌避される気がしてならない。— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) June 12, 2021
全部、勘違いだった。
AC(アダルトチルドレン)としての『認知の歪み』を引きずっているだけだった。
全ては自分のためだ。そこは誰にも偽ることはできない。
私が勝手にやりたくてしかたないからやっているだけで、その結果勝手に相手が助かり、たまに勝手に感謝されるのだ。
それが「助ける」という事象の顛末。
だから相手に感謝されないからと腹を立てるのはとても変なことだし、問題が何とかならなかったとしても、悔いたり言い訳したりする必要もない。
なぜなら、もともと他人の人生であり、他人の課題なのだから。
解決できなかったのなら、その人に責任があるのだ。人生の責任はその人以外誰も代わることができない。
その人が笑顔でいてくれたら私がうれしいから、「こうなったらいいな」「こうなったらみんな笑顔になれるんじゃないかな」と思うことを勝手にやるだけだ。
迷惑でやってほしくないようなことをしてしまっているなら、他人がそういうメッセージを言葉にしろ態度にしろ、発するのだろう。
そうしたら、私は目的を達成できる行動ではないと理解して「やってほしくない」という相手の意思を尊重して、手を止めるだろう。相手を苦しませることは、私がやりたいことではないからだ。
やめてほしいのにやめてくれと言えない、というのは、相手の課題であり、私にはどうすることもできない。
私はエスパーではないから、本人が伝える努力をしてくれないと分からない。コミュニケーションは双方向であり、対等な対話の責任は常に、50/50だ。
「察する」「配慮する」ということを過度に他人に期待するひとは、伝える責任を放棄している。それは、相手をリスペクトしていないことと同じだ。
コミュニケーションの責任を相手に負わせて結果をコントロールしようとしても無駄だ。
いつの時代も人のコントロールは思うようにはいかない。なぜなら相手が成長したら、いつか必ずあなたがその人をリスペクトしていなかったことに気づくからだ。
そして次第にあなたから離れていく。どちらかが搾取する関係は不自然だから永続的ではありえない。いつか必ず、終わりを告げる。
誰かを自分の支配下において相手から「感謝」を取り立てて共依存の鎖で縛りつけておくことが、本当に人生を賭けてまで、したいことなのだろうか?
そんなふうに奴隷を増やすことをいくら続けても、自身の人生は一歩も前に進まないよ。
そして相手は本当の意味で感謝してくれることはないし、本当の意味で救われることもないだろう。
登場人物全員が苦しんで、虚ろな人生を過ごして終わり。
そんなのが望んだことではないはずだ。
私たちは、自分がしたいことをするために、この世で時間をもらっていると思う。
耳障りの良い言葉で本心を誤魔化しているうちに、もらった時間は矢のように過ぎ去ってしまって、死の淵で「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔する。
そういうことの繰り返しは、割と珍しくないんだなぁ、と最近はよく思う。
誰よりも自分のために、Just for today.
「他人のため」というのは「他人の『役に立ちたい自分の』ため」の略。
— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) June 14, 2021