月別アーカイブ: 2021年3月

【共依存】他人の存在の煩わしさ・私が唯一ほしい他人との繋がり

私は、孤独感からアダルトチルドレンになり、アルコホーリクになった。

ASD・ADHDとしての私を受け容れてもらえなかったことは寂しかった。

他人に対して愛着を感じないことに、私は罪悪感と怒りを持っている。

そのことについて今日は考えてみたい。

 

ゆだねる、そして手放す

先日、手放すことができたことと、できていないことについて、改めて考える機会を得た。

昔に比べると、「個人」に対する憎しみや恨みや恐れや不安は手放すことができてきた。それは、ACA・AAでそれぞれの12ステップ・プログラムに粛々と謙虚に取り組んできた結果である。

あんなに大きかった親や社会的成功者への恐れと不安が、自分の心に占める割合はごく僅かとなり、彼らが生きていても死んでいてもさほど気にならないくらいになってきた。

しかし、今でも無条件に反応してしまうものがある。

それは「コントロール」だ。

仕事の人間関係が嫌いで、基本的に人間が嫌いなんだと思って生きてきた。

人間そのものが嫌いなのではないんじゃないかしら?

私はアニメや漫画や映画が大好きで、人の物語に涙する感受性を有している。こんなに芸術で描かれる人間の喜怒哀楽に心の動きを感じるのに、私は本当に人が嫌いなのだろうか?

「本当は人間を好きでいてほしい」と願いにも似た思いを持ってきた。

 

・上下関係をつけるマウント合戦

・資本主義的なギブアンドテイク

こういうパワーゲームを土台にした「損得マシーン」との関わりが嫌いなだけで、人間そのものは好きなのではないか、と仮定してみよう。

 

フラットに損得抜きで語り合い交流する人間関係を、私はむしろ好きなんじゃないか。

じゃあなぜパワーゲームに反応するのか?過剰な反応の裏には恐れと不安がつきもの。

私の恐れと不安があるからだ。では私の恐れと不安はなにか?

私は「そのままを見て受け入れてほしい」という願いが満たされてこなかったことから、『これ以上傷つくこと』を恐れている。

これは真実だろう。

・他人に品定めされたくない

・わかったような口ぶりでたかを括られるたくない

・損得で関わりを持とうとされたくない

・能力を比較したくない

だから私は、他人との対戦ゲームをいっさい楽しめないし、性格診断的なアルゴリズムには無条件にアレルギーを感じる。

仕事の人間関係は、今も昔も唾棄すべき穢れた関わりのようにしか見えない。

損得をベースにしてしまうと、どんなに他人にとって魅力的な目標であっても、達成すること・共同で活動することに、価値を感じることができない。

 

そのままを見て、ただ受け入れる。

私の願い。

「私のそのままを受け容れてほしい」

という願い。

そのためには私がそのままで無くてはならず、そのままを貫き続ける勇気が今、必要なんだと思っている。

そうしてそのままでいたときに残る関係が、本当に大切な関係であると言える。

その関係の間ならば、対戦型のゲームだろうと経済活動だろうと、楽しめるはずだと期待している。なぜなら土台に心理的安全性が担保されているはずだから。

結果が出ても出なくても楽しめる、本当の遊び。本当の友人。

そういうものを夢見ている。

 

さて、そのままということで改めて考えてみよう。

私は人間が好きなのではないか?という願いは、実は自分を全量に見せるために己を欺く虚偽の感情ではないか?

私は心から好きなものは、キャンプだ。

なぜなら、キャンプは人間とではなく自然と対話する趣味だから。

キャンプは比較しない。

競ったり争ったりはもう部活やら学歴やら就活やら散々やってきて、心底ウンザリしている。

他人に勝つことに意味も無い。

自分に勝つことに意味がある。

だからキャンプが好きなんだと思う。

キャンプは、完璧さとか他人との比較などは全く関係ない。

楽しめればいい。

不足や不完全さはむしろ歓迎される世界。

キャンプサイトは、他人と程よい距離感が保てる。

それぞれの在り方が尊重される独立した空間。

だからキャンプが好きなんだと思う。

 

ということは、私は他人と適度な距離を保ちたいと思っている。

できるだけパーソナルエリアを侵害されることなく、快適に生きていたい。

恐れや不安があるからなんだというのだ。私は、嫌なものは嫌だ。

先輩だからと会って間もないのに呼び捨てタメ口をするやつなんかは、大嫌いだ。

その時点でATフィールド展開し、近寄らせることも近寄ることもない。

だいたい、少し長く生きているだけだ。その結果こんなクソみたいな社会を作っている連中の、何が誇れる?

そんなかたちで、私には結局、共同体の一員としての感覚をもつことができない。そしてそれは悪いことではない。私のそのままの姿だ。

ずっと他人とは脅威で、警戒すべき「同胞」で彼らは一番の敵だった。敵は身内だった。

たしかに、守られてきただろう。一人では生きてこられなかったろう。

だから感謝しろ、心を開けというのは、レイプと同じだ。

金を払ったんだから股を開けというようなもの。望んだわけでも無く産まれ落ち、散々苦しめられてきたことも事実なのだ。股を開くか開かないかは、私が決めることだ。

金を払ったから、恩があるから、救ってきたから、といって私の苦しみはプラマイゼロにはできない。

 

つまり、まだまだ理解してもらってない。

それは、私がありのままの自分を許していないから。

まだ「できるだけ良いもの」として自分を見せようとしている、飾っているから。

飾らない私を表す。それが理解してもらう唯一の方法。

理解できない、受け容れられない、という結果だったとしても、私が飾らないことが重要なのだ。本質の表出の結果であることが最も重要だ。

 

私は何が好きなのか

スポーツジムでは、他人との距離が近いだけで、イライラする。チラチラと蠅のように視界に入って邪魔だからだ。

私が決めた予定・私の空間を邪魔するやつは、基本的に死んでほしいと思う。

誰がどんな話をしていたか、なんてあんまり記憶に残ってない。他人がどうなるか・どう感じるか・どう思うかは、自分ほど興味をもって観察することができない。

 

私はやっぱり、私にしか興味が無いんだと思う。

 

自分とどれだけ正直に向き合ってきたか。

他人との比較、わかりやすい成功。これらはあまりその人の味わい深さとは相関しない。

仕事・出世・売上・賞罰・勝負。

それらの勲章をひけらかし振り翳すほど、空っぽの証。

自分の深淵を覗き込む自信がない、と言っているように聞こえる。

 

己の弱さを認めじっと目を逸らさずに生きてきた人をこそ、尊敬する傾向にある。

それが一番等しく難しいことだからだ。

勝つよりも成功するよりもはるかに難しい。

 

 

「……ひとつだけ言っておこう。君はぼくを乗り越えると言ったが……。君よりも9年も長く生きてるから教えてやろう……。他人を負かすってのはそんなむずかしい事じゃあないんだ……。もっとも『むずかしい事』は!いいかい!もっとも『むずかしい事』は!『自分を乗り越える事』さ!ぼくは自分の『運』をこれから乗り越える!!」

 

出典:集英社「ジョジョの奇妙な冒険」 作者:荒木飛呂彦 から引用

 

それぞれの人生は、交わらない異なる時空のようなものだ。

人間は結局、皆誰もがひとりだ。

生まれてから死ぬまで。

それは、偽ることができない。

同じと勝手に思っているだけで、実は同じではない。

違うと勝手に思っているだけで、知覚している違いは本質的な違いではない。

他人を見ている限り、全部自己満足だし、全部思い込みだ。

自分のなかの真実が、客観的にも真実かどうかはどうでもいい。

自分のなかでゆるぎない真実ならば、それこそが真実だ。

 

自分と向き合うこと。その末にたどり着いた今の「真実」をそれぞれに見せ合うこと。

その違いを楽しむこと。その謙虚さと努力に敬意を表すること。

尊敬で繋がること。

私が唯一ほしい他人との繋がりは、それだ。

本物であればよい。それは少しでいい。

【共依存】誰かが誰かを一般化するのは、恐ろしくて不安だから

何者かを一般化すればするほど、真実そのものから遠ざかる。

しかし、人は法則を見つけたがる。グループに共通点を見出して、他者を自分の理解の範疇に押しとどめたいと願う。だから、他人を観察し分析することに熱中する。

それは「恐れ」と「不安」から突き動かされている衝動。

しかし、その指摘は当事者から否認される。

なぜなら、それをやめてしまうと自分を見つめなくてはならなくなるから。

「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」ということについて考えてみる。

 

「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」

すでにこのテーマ自体が、一般化しているから反感買うよな、と思う。(笑)

共依存症になるのは、人それぞれで、抱えている寂しさのエピソードはそれこそオーダーメイドだ。環境は一つとして同じではない。当事者たちに限りなく共通点があるとしても。

まずはその土台に立たなくてはならない。

同じようで違う。違うようで似ている。

そして、それぞれが独立した貴重なストーリーだということ。

それを共通認識できて初めて対話ができる。

「アルコール依存症者はこうだから」

「ギャンブル依存症者はこうだから」

「医療機関はこうだから」

「福祉はこうだから」

 

こういうレッテルを貼るのは、当事者が見えていないからだ。

私がまさにいい例で、そういう偏見にまみれていたと思う。

信頼して打ち明けた心療内科で自分がアルコール依存症であるという事実を「隠したほうがいい」と言われた悲しみと怒り。それが医療者に対する疑心を生んた。結果として私はしばらくの間「『医療機関の多く』はまだ依存症に対して無知である。」という偏見を持った。

特にデータを取ったわけでもないのに、数十名の医師と面会しただけで、そう決めつけるのは明らかに早計だった。それに、一生懸命依存症に関わっているメンタルの先生方にしたら、私の不遜な態度や決めつけはとてつもなく心外だったことだろう。この場を借りて当時の自分の思い込みで傷つけなくてもいいひとを傷つける発言や態度をとってきた未熟さをお詫びしたい。

そもそも私たちは、このようなレッテル貼りに深く傷ついてきたではないか。

依存症という病への無理解や偏見、つまりスティグマを植え付ける社会を憎んできたはずではないか。

それなのに、レッテルを貼る側になってどうするんだよ、という話である。

大きな主語で語ると、その主語の大きさに比例して他人を傷つけるリスクを高くする。

気を付けなくてはならない。

 

ではなぜ大きな主語で語る(一般化する)のか?

では、なんでそんなリスクの高いことをしてしまうのだろうか。

自分が傷ついてきたはずの行動を無意識にしているのだろうか。

その答えは簡単で、「恐れ」ていて「不安」だからだ。

何が? 「わからないこと」が。

私にとって、分からないものと対峙することが、居ても立っても居られないほど脅威だから。

 

私が人間をカテゴライズする「性格診断」「タイプ診断」などを毛嫌いするのは、人間の心の弱さをまざまざと見せつけ、心にこすりつけられるようで、どうも苦手だからだ。

分からないものを分からないまま脇に置いておくことができない「弱さ」を誤魔化すためだったり、何かの基準にすがりたい弱さに付け込んでコントロールしようとするパワーゲーム的な戦略性(つまり別の種類の「弱さ」)を垣間見るからだ。

 

何故、他人が「わからない」ことがこれほどまでに怖いのか?

コントロールしたり予測したりできないことに、ここまで不安を覚えるのか?

それは、私たちが今までコントロールされたり誘導されたりしてきたからだ。

他人に意図を知らないままに操られてきたからだ。

他人に心理的安全性を脅かされてきたからだ。

つまり他人を警戒し心を閉ざしているのが私たちだ。なぜか?そうせざるを得ない経験をしてきているから。

自分の弱さを認識しようとしないで、他人を分かった気になることで覆い隠そうとする。

そうなった瞬間、弱さは気高さを失い、醜悪さになる。強くありたいという本来の願いから遠ざかっていく。

以上が「一般化する側」の弱さ・醜さ。

 

「一般化された側」も、弱さが共鳴する。反応する。それが炎上である。

一般化された言葉を読む。

それはおおむね当事者の真実と異なっている。なぜか?弱さゆえに分かった気になろうとした人が無理やりこじつけた虚像だからだ。安心するための張りぼてに過ぎない。

その張りぼてをさも自分であるかのように、他人が勝手に喧伝していたら、当事者はどう思うか。

「ちゃんと理解してもらえていない」

「誤解されている。本当の自分を受け容れてもらえていない」

当事者の聞き手は、不安と恐れが生まれる。

そして、その不安と恐れに突き動かされて、発言者を非難する。

どうやって非難するか?これまた一般化するのである。

「これだから○○は理解していない」

「こんなことを言うのは○○なやつだ」

それが連鎖反応して、どんどん人を傷つけていく。

ネットで炎上している状態というのは、だいたいこんなもんだと思う。

 

要は、「一般化する側」も「一般化される側」もそれぞれの弱さが反応して、無差別に傷つけあい燃え上っているだけ。

人が群がる空間に迸る「人間の醜悪さ」というのは、「弱さの否認の共鳴現象」の産物だと思う。

 

強くあるにはどうすればいいのか?

弱さそのものは悪くない。むしろ必要だ。

しかし、それを認めず目を背けるとき、人は醜くなる。

否認すればするほど、みすぼらしい存在になっていく。

弱さを認めること。脇においておけること。それが、強くあるということ。

強かで美しい人間であるために必要な勇気だ。

 

まず、傷ついたときには素直に「私はあなたが○○だと決めつけて話すことに傷ついている。可能なら、次回から決めつけないでほしい。○○という風に理解してもらえたらうれしい」と言葉にして相手に伝えよう。

攻撃する必要はない。自分がどう感じたのかをありのまま、私を主語にして伝えよう。

それを受け取りどうするかは、相手次第。気持ちを渡した瞬間、それをどう処理するのかは相手の仕事だ。相手のなかでどう加工されようと、あなたに責任はない。伝わるように伝えるところまでが自発的に果たしたい役割。

とても勇気がいる。自分の気持ちをそのまま伝えて受け取ってもらえなかったら辛い。誤解されたら口を出して理解させたくなる。でもそこは境界線を越えてはいけない。私に「気持ちを伝えて渡す権利」があるように、相手には「受け取り方を決める権利」があるのだから。

 

そして、他人の言葉を聞いたり、自分が発言するときに、「主語が大きくなっている」と感じたとき。

それは誰かが誰かに「恐れ」や「不安」を抱いているときだと覚えておこう。

覆い隠したい「自分のなかにある恐れや不安」が別の形で表出していることを知覚しよう。

 

わかったようなふりをして安心したいのはなぜか?

そこにはどんな「不安」がある?

「この相手を理解した」と周囲に示すことで気持ちよくなりたいのはなぜか?

そこにはどんな「恐れ」がある?

 

そういうとき世界は「自分を見つめ直そう」というメッセージをくれている。

【依存症】12ステップ・プログラム STEP11の「黙想と祈り」を仏教から考える

祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。

出典:ACAジャパン「ACのための12ステップ」

 

めちゃくちゃ宗教っぽい。

私は不可知論者(神様はもしかしたらいるかもしれないけどいるかどうかわからないと思ってる人)なので、神がどうとか言われると胡散臭いなと思う素直な性格をしている。

神の意思?は?って感じだし、いるんだったらもっとマシだろ世の中、と思う。

だけど、STEP11が言わんとしていることには納得しているし、他の宗教も同じような考え方に行きついているので、おそらく私にとっての真理に近いと思っている。

今日はその辺のことを書こうと思う。

 

大乗仏教の「唯識学派」

大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。

各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。

最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

過去記事:「【依存症】祈りとは信じることだという話」より

 

唯識学派の八識説は、図に表すとこう。

 

つまり仏教においても無意識の領域があって、その領域の最深部に「阿頼耶識」という「自我を超えた大きな力の源」があり、それが根本となり世界を形づくっていると考える。

自分が意識していることをはるかに超えた「大きなもの」が横たわっている。

全ては「潜在意識」によって生み出されている。

 

潜在意識を顕在化してコントロールしようとするのは愚の骨頂

「潜在意識」といえば、引き寄せの法則がどうとか詐欺チックなページがよくWEBでヒットする。

真実に近い匂いを醸し出させつつ騙すのは詐欺の常套手段というか、信じ込ませやすいからそっちに寄っていくというか、人って何でも金に換えたがるなー、と呆れる。

これらの詐欺と本当のステップ・プログラムの見分け方は簡単。

「夢・願望を達成する」と謳っているものは偽物だ。

「この考え方をすればみんなが欲しいものが手に入りますよ~」っていうのは、「これを飲むだけで3ヶ月で10kg痩せられます!」というのと同じ。

皆苦しいときは救われたくて、効果が劇的で早いと宣伝する方法に魅力を感じがち。

ダイエットがうまくいかない人が運動しなくても痩せると謳うダイエット詐欺商法に騙されるのと全く同じ。そんな問題ではないのだ。ダイエットは一朝一夕に成るものではない。

筋肉量を増やすために地道にトレーニングを重ね、低脂肪食で摂取カロリーを考えて生活した結果、その「生活に合った体」が自然にもたらされる。「痩せたいから痩せよう」とするのではなく、無意識に痩せるような生活をしている、在り方が自然と変わると、いつの間にか自然に受け容れられる自分を認識している、という感覚。

「痩せたい」を叶えるためにやるから、失敗する。

ステップ・プログラムは、潜在意識に身をゆだねる。

結局どうあがこうが、潜在意識に導かれるように私は導かれるんだよな、ということを理解して信頼する。

だからその限りにおいて、自由に楽しみ、心の充実に専念することができる。それが幸せという物の正体。

つまりコントロールしようとすればするほど、どんどん遠ざかっていくものなのだ。

 

12ステップ・プログラムにおける「ハイヤーパワー」=「潜在意識」=「阿頼耶識」

ACやAAの12ステップ・プログラムにおいて、依存症は「顕在意識」ではなく「潜在意識」からきている、と説いている。

なぜなら「渇望」は理性ではコントロールできないから。すでに無意識なので自身の手を離れている問題なのだ。

「いつの間にか」酒に口をつけている。「いつの間にか」共依存性に反応している。

だから、もうこの問題を取り除ける力はないので、他の力を頼るしかない、と無力を認める。(STEP3)

んで神とやらに祈るわけなんだけど、それは偶像崇拝でしかない。

崇拝の対象とする、助けを求めるものをとりあえず「神」という呼び方にしているので、みんなアレルギーを引き起こすのであって、「神」と呼ばなくてもいい。

ある人にとっては「良心」だろうし、ある人にとっては「自分のなかの天使」かもしれない。

つまり、呼び方はどうでもよい。

唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」が「『潜在的に在る』という認識を共有しようよ」ということをどの考え方も言いたいのだ。表現が違うだけ。

潜在意識は、自分の存在がまずあってそこを起点に発出する意識というよりは、この世の命がみんなでシェアしている大きなインフラストラクチャーみたいなもの。めっちゃでかくてエネルギーを持っている自分と繋がっている何か、と捉えられる。

だから「内なる神」と表現するけど「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」として分離しているのだ。内包しているようで、内包していない。シェアしているようで、自分とは完全に切れた何かではない。

だから唯識論では自分という実体を「有るようでなく、無いようである」と知覚するんだと思う。「全は一、一は全」すべては繋がっているので、個体として存在しているというよりは、全部が繋がりながら大きな流れのなかで揺蕩い、集っているのが世界だと考える。

 

近代社会では個人主義が徹底され、比較や競争を良しとする市場原理で精神的にも肉体的にもどんどん分断されているので、より実感しにくくなっている。

誰もが何かの共同体に属していて、成し遂げたことは決して一人の成果ではないし、ひとりきりで生きているわけでもない。それなのに、孤独で傲慢で乏しいモノとして生きようとするから病むのである。生命は生まれながらに独りではないと言える。孤独というのは自分が創り出しているのだ。

 

「黙想と祈り」はリコネクト

なぜ、STEP4~9までの取り組みを10で繰り返す約束をしたうえで、黙想と祈りをするSTEP11があるかといえば、これがなくては「STEPを踏んだ努力(自分自身の力)により私は回復したんだ」と勘違いしやすいからだと思う。

自分の力ではない。確かに私は頑張った。

しかし、たまたまステップに出会って、たまたまそこまでステップを進めることができただけだ。

タイミング、出会い、心の準備。何か少しでもずれが生じたら、今の私はなかったことだろう。

そんな数々の奇跡的な偶然を用意したのは何か?

唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」だと思う。

すでに決まっていた、というとまた胡散臭くなるんだけれども、私にはコントロールできない数々のモノにより支えられているのは確かだ。そしてそれは予定調和的に様々なものを伏線として用意されていたように絶妙のタイミングで与えられる。

たとえば私がベンチャー企業に行かずに今の会社にストレートで入っていたとしたら、仕事上の苦しみはこんなにもなかったかもしれない。しかし、赴任地が東北にならなかったら、妻とは出会えなかったかもしれない。そしたら、私は依存症を認めずに自死していた自信がある。今ココにはいない。

私には必要だったのだ。ブラック企業でボロ雑巾のように働く時間が。その経験が。

同じようにアルコール依存症になることも、ACであることも、全部全部必要だった。今の私になるには。

それは私が選んだものじゃない。私はそんなにドМな人生設計をするタイプではない。できれば楽してあまり苦しまずに生きていたいタイプだ。

そういうものに巡り合うことをすでに決めている大きな何か。

言っちゃえば全部それ次第であり、私たちができるのは精一杯今を生き切ることだけ。

だから、私たちはその大きな何かにお願いするくらいしかできないのだ。そのお願いを積み重ねると「ああ、これってこういう授かりものだったんだな」という感謝ができるようになる。

それが「黙想と祈り」によるリコネクトだ。

横たわる大きな何か、支えてくれている大きな何か。それに感謝できる、存在を感じる。

そのために「黙想と祈り」はある。