インナーチャイルドワークというものがある。
方法は以下の通り。
1、落ち着ける静かな環境で椅子に座り、数回深呼吸しリラックスします。
2、自分の目の前に、こちらを向いて立っている5、6歳の小さな子供(自分の子供の頃の姿)をイメージします。
子供の頃の自分をリアルに思い出せなくても、なんとなくイメージすれば大丈夫です。
できれば何か嫌なことがあったのか、寂しそうにしているところをイメージします。
3、その子の気持ちを察してあげます。
あなたの目の前に立っているその子は、何か話をしていますか?
その子が何か話してきたら、しっかりと聞いてあげます。
何も言わなかったとしても、その子の気持ちを優しく受け入れてあげてください。
4、その子が癒されるように、その子がかけてほしいと思っているであろう言葉をかけてあげます。
例えば
〇〇ちゃん、あなたはそのままで価値があるよ
〇〇くん、あなたは~ても~てもそのままで価値があるよ
〇〇ちゃん、お母さんは、あなたのことが大好きよ
〇〇くん、あなたはお母さんにとって大切な存在だよ
こうした言葉をかけながら、小さな子供の自分を膝の上に乗せて抱きしめ、優しく背中や頭を撫でてあげます。実際に撫でる仕草をします。
5、もう一度、4と同じように言葉をかけます。
そして、あなたの言葉を聞いて、その子が嬉しそうな顔をしているところ(癒されているところ)をイメージします。
6、その子が喜んだり安心したりしているのを感じます。
喜んでいるその子供をゆっくりと自分の胸の中にいれ(その子と自分が一体となる感じ)、あたたかさや安心感、喜びの感覚が自分の体に広がっていくのを感じます。
ゆっくりと目を開けて終了です。
このワークは、1回5分から10分位でおこないます。
ワークのコツは、その子に何が起きたのか、何が原因だったのかを頭で分析しないようにすることです。
ただ自然にイメージがあらわれるに任せます。
自分の心の中で自然と起こる出来事を静かに観察するような気持ちで、リラックスした状態で行いましょう。
初期のインナーチャイルドの様子
ほんとこっちがいくら話しかけてもガン無視だった。
全然こっちを信用してくれずに土いじりして下向いてるイメージしか浮かばない。マジ心閉ざしとるなと思ったよ。
近寄ると離れるし、手を差し伸べるとペシってやられるし。
もう手の施しようがない‥だめだこりゃって思って愕然とした。
対話できてるっていう教えてくれた人、本当にすごいなと思った。私のインナーチャイルド、もう全身から負のオーラ出して全力でこっち拒否ってたもん。
幼稚園の制服を着ているから、幼稚園に行かなきゃ行けないけど、行きたくないんだろう、と思った。
「行きたくなかったら行かなくていいんだよ?あんなとこくだらねーんだから」
「別にさ、いい子にしなくていいんだよ」
というと、やっと顔を若干上げるんだけど、まだこちらの真意を探っている感じ。
当時の私は、本当は何がやりたかったのだろう?
「みんな嫌いだから行きたくない」
「全然楽しくない」
「そうかそうか、何ならしたい?」
「お話ししたい」
「もっとちゃんと聞いてよ。僕の話は、誰もいつも聞いてくれない」
「そっかそっか、それはつれーな」
「話したいこといつも途中で否定しないで」
「なんで最後まで聞いてくれないの?」
「僕が考えてることはダメなことなの?」
「いやいや、ダメじゃないよ。少なくとも俺はちゃんと聞くよ」
やっと立ち上がってこちらを睨みつけながら泣いている握り拳を握っている。枝を握っている。
「そう言って、いつも聞いてくれなかった。どいつもこいつも騙しやがって。信用できるもんか。そうやって聞くフリをしていつも答えは決まってる。それは聞いてないのと同じなんだよ!」
「わかるわ、それつらかったよね。それは話す気もなくなるよね」
「なくなるよ。もう諦めてたのに今更何しにきたんだよ。
「君の話を今度こそちゃんと聞きにきたんだよ」
「信じられるわけねーだろ、しね。ふざけんなよ」
「まぁ信じてもらえるまでいつまででも待つさ。話してくれてありがとうね」
キョトンとしている。
「めんどくさいって怒らないの?離れていかないね。不思議。あんたは俺に『なんでいい子にできないの』って怒らないのはなんで?」
「別に、いい子でなくてもいいからだよ。俺は模範解答じゃなくて、君の話を聞きたいと思ってここにいるからだよ」
「ふーーん、ま、今までのやつとはちょっと違うみたいだね。あんたは。」
「そう思ってもらえたら嬉しいけど、まぁ無理に話さなくてもいいさ、気が向いたら。いつでもそばにいるからさ。一心同体なんだし」
「そうなんだ、変なの」
ちょっと笑ってくれた。
最近のインナーチャイルドの様子
「本当は自分のなかでぐるぐる考えるのが好きなんだ。景色とか匂いとかいろんなことを感じて、頭のなかで空想するの楽しいんだ。
でも他の人といると、他の人が邪魔してくるんだ。
集中したいのにできなくてイライラしちゃうんだ。
だからひとりでぼーっとしてるのを怒られるのはすごく悲しかった。」
「めっちゃわかるわー。あるよねーそれ。」
「いやいやwおじさんはちゃんと大人なんだからそんなこと言ってちゃダメなんじゃないの?」
「んなことないよ、大人だって、1人になりたい時くらいあるんだよ。君のママや周りの大人はダメって言ったかもしれないけど、ダメじゃない、当たり前のことなんだよ」
「そうなの?お母さんは嘘つきだね」
「うん、あいつの言うことはマジで信じなくていいよ」
「ウケる!じゃあ感じたいものを感じて自分の過ごしたいように過ごしていいんだ?」
「うん、そうそう」
「それだったら、生きていくのも嫌じゃないかもしれないなー。おじさんありがとう」
「よかったよかった」
幼少期の私は本当に偉いと思う
私は本当によくここまで生き延びてきたと思う。
マジで暗黒でしかなかったのに、よく自殺しないで今まで我慢してきたよ。偉いよマジ。
だって、ほんときつかったもん。
例えば、近所のガキがサッカーしようて毎日くるのが死ぬほど嫌で、なんでお前らと玉蹴り遊びしなきゃならんのだ、俺はファミコンがしたいんだ、と常々思っていた。正直にそのことを言ったら誘われなくなった。(当たり前)
俺はそれで全く構わなかったし、面倒な誘いをしてくるうるせー奴らが消えてせいせいしていた。
しかし親が許してくれなかった。「友達になんてことを言うんだ、今から一緒に遊んできなさい」と外に叩き出された。
家にこっそり帰ろうとしたけど見張られていたので、渋々遊びに加えてもらおうとした。断られた。(そりゃそうだよなw)
そこで私は近所のガキにブチギレた。「こっちだってやりたくねーんだよ、でも家に帰れねーんだよ!付き合えクソ野郎!!」と泣きながら胸ぐらを掴んで入れてもらった記憶がある。相手も迷惑だったことだろう。
幼稚園もそう。一人で色水を作ったり、ナイフで極限まで木を削ったり、そういうことができればよく、わざわざ幼稚園というウジャウジャと人間がいる場所に通う意味がわからなかった。遊んでいるのにスペースが狭くなるし、他の遊びをしている連中に邪魔されるし、何だかちょっかいかけてくるような奴がいるし、地獄でしかなかった。早く帰りたかったし、一ミリも楽しくなかった。何でこんなことをしないといけないのか、最後まで謎のまま卒園した。
友達って何?って感じだった。
親が友達と遊んでいるところなんてほとんど見なかったし、本当に友達なのかなという距離感だった。
お互いにマウントを取り合ったりして、結局一人が寂しいから補完的に目的もなく群れているだけなんじゃね?っていうイメージだった。繋がりなどないもない。信頼関係も何もない。そんなのは私は欲しくなかった。
友達という概念そのものが歪んでいたと思う。
何だか、もうとにかく生きるのが面倒だった。
他の人間と絡まなくてはならないし、思ったことをいうと嫌われて不利益を被るし、こいつらより上じゃないと親が曇った表情をするし。
いっそのことこいつらが全員いなければいいのに‥と何度思ったことか。
それなのに、殺したりもせずなんとか上手く頑張ってきたと思わんか?マジでこんな無理して依存症になったり鬱になったり強迫性障害になったりしながら、人間をなんとか続けてきたことに心から敬意を表したいと思う、自分に。
もう我慢しないで自分を生きる
もうね、嫌われるときは嫌われるんよ。好かれる時は好かれるし。嫌われないために生きてるわけじゃないからね、こちとら。知らんし。
あーもう知らん。笑 って感じよ。
他人なんてものすごく色々な考え方で生きているしびっくりするくらい違うんよ。そして特に考え無しに生きている人間が結構多い。ふわふわとした「空気」とやらで平気で人間を攻撃したり信じたりする。
そんなボウフラみたいなのに嫌われたって、どーってことないと思わん?
もうね、いちいち気にしとってもしゃーないんよ。
私もつい最近まではねー、結構信じとった。
世の中にはすんげーイエスキリストやマザーテレサみたいな人徳者がゴロゴロおって、俺は矮小で浅学菲才な凡人なんだと。
でもそうそうおらんよ、そんなんは。結構みんな地味にすごい。そして地味にしょぼい。だいたい同じくらい。どんぐりの背比べ。
尊敬してるから見解を知りたくて色々質問したら迷惑そうに「なんでも答えがあるって思わないようにしましょうね」とかあしらわれてさ、「ああ、そんな風にしか異業種の新人の話を聞けないレベルの器の小ささなんだな‥」とガッカリしたり。
我こそは依存症者を導くぜ!みたいにオラついてる人も実際は共依存真っ只中だったり、依存症からの回復というフィールドでパワーゲーム繰り広げていたり。
効率的に世の中を良くするために手と手を取り合おう、っていうこと自体そんなにフラットにできる人いない。
みんな自分の功績にしたいという名誉欲があったり、自分がしてきた苦労をしないで楽してシステム化するようなのを妨害しようとしたり。その辺の有象無象と同じ穴の狢。
自分たちが持っている視点が正しいと思っている。
それってほんと私の親と同じ。そりゃ今までの自分に自負があるだろうし、自分の方がわかってる、やったことあるって思い込みやすいんだけど、その先入観を超えられないから、人の話のありがたみがわからないんだよね。
そして、そういうふうに見くびるから見くびられる。
因果応報。残念でした。
だからさー、特別に私の親がクソだったわけでもなく、だいたい人間てそんなもんだったんだなーということなんだよね。
特別親だけを恨む必要も要因もなかった。
最近は結構親のことは、憎くもないし気にもならなくなってきたのは、結構おどろき。
巨人に見えた両親は、よくいる小さい一個の人間だった。
小さい頃の私は欠陥品ではなく、尊重され大事にされるべき一個の人間だった。
ただそれだけのことに気づくのに、35年かかったのは、早いのか遅いのか。笑
でも、私の人生に最も良いタイミングだったのだろう。
インナーチャイルドワークを通じて実感したのは、親を特別視して恨まなくてもいいんだな、他人を必要以上に怖がらなくてもいいんだな、ということ。
そして、そのままの自分って割と悪くなかったんだな、というかめっちゃ偉いしすげーやつじゃん!という根本的な事実。
みんなも、一人一人がそうだと思う。
そして何より自分のために生きてほしいと思う。