【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

・負けた悔しさを切り離せず悩みから抜けられない人

・勝負になると、すぐ勝ち負けに拘ってしまう人

いませんか?

私は、そういうタイプです。

 

12ステッププログラムを学び、平安の祈りを読むたびにいつも思います。

「変えられるものと変えられないものを理解している人」

それは、12ステップを極めし者であり、最も楽しい生き方なのではないか、と。

しかしこれがなかなか難しい。

他人との関わりに心を乱さない落ち着きと賢さは、どのように身につければよいのでしょうか?

私にとって永い間テーマで在り続けたこの問いに、ひとつの解を見出しました。

 

「妻の場合は、どうなんだろう?」と思って聞いてみた。

妻は勝負事が好きです。そして負けず嫌いです。

私にはこの感覚がわかりませんでした。

なんで勝たなきゃ楽しくないのに、負けることが嫌いなのに、勝負が好きなのだろう?

私は勝てる勝負しかしません。なぜなら負けるのが嫌いだから。

勝つから楽しいんであって、負けるなんて屈辱の極み、苦痛でしかない、と思ってきました。

 

妻は、負けるのは悔しいが、『負けるが勝ち(価値)』なんだという考え方だと言いました。

なぜなら、負けるということは、より優れている要素を取り込むチャンスだからだ、というのです。

今の自分が精一杯やったのに負けてしまうような実力のある相手なら、何か自分よりすぐれたポイントがあり、得るものがあるはず。

そのような存在がいることは、自分より優れた秘訣を学べるチャンス。

確かにそこにある改善点が顕在化する瞬間であり、負けることはありがたいことなのだ、と思えるそうです。

流川楓かよ( ^ω^)・・・

出典:『スラムダンク』第29巻より

 

前の自分より少しでも良くなれるというのは、希望そのものです。

「結局、自分だから」と口癖のように妻は言います。

自分より上がいる、それを見ることができる。

その時点で、吸収すればするほど、自分が「今より良くなる」ことは確実です。

他人は変えられないけど、自分なら変えられる。だから、勝負の本質は、実は勝ち負けじゃない。

自分が良くなれるなら、負けは「負け」じゃないということです。

『試合に負けて、勝負に勝つ』

死力を尽くしたうえで「負ける」ということは、さらに上を目指せるという証明でもある。

だから負けを認められるし、強くなれる。

相手との勝ち負けの刹那的な結果に目を曇らせないことが肝要です。それが重要なんじゃない。

自分を改良することに貪欲な在り方「諦めない」ということこそが、真の意味で負けないためには重要です。

勝者であり強者である、とは、こういうことなのではないでしょうか。

 

妻がこの考えに至った背景とは?

妻は末っ子です。上に兄・姉がいます。

基本的に、常に負けまくってきたと言います。

「どうぜ勝てないなら、負けを楽しむしかない。」

そう思った彼女が幼いころから編み出した考え方が、上記のような「負ける」ことへの可能性とワクワクを見出す思考方法に繋がっています。

他者との比較よりも、自己成長に主眼を置いた価値観を体得したのです。

負けたくなくても負ける。それも、何度も負ける。

自分の価値が損なわれる恐れのない、ある意味「負けてもアイデンティティを失わない」競争関係を早くから与えられ、たくさん経験して慣れている。

それが末っ子の強さの秘訣のひとつであると、私は感じました。

 

尊敬する人は?と問われれば、私はマザーテレサや宮本武蔵を挙げます。

皆さんは誰を挙げますか?

 

妻は、「自分より少しでも一つでも優れたものを持つ人は、みな師であり、尊敬の対象だ」と言いました。

正直、その発想はありませんでした。

基本的にほとんどすべての人に「すげーな」と思うそうです。

相手を尊敬している。

だから接する相手も心を開く。

だからいつも気の置けない仲間に囲まれる。

そういうことか、と思いました。

 

私は、すぐに至らない点を見つけて、相手を下に見る、器の小さいところがあります。

それはなぜか?

「たいしたことがない相手だ」と思わなければ、自信のない私は不安に押し潰されそうになるからです。

だから、いつも独りなんです。

それを突き付けられた気がしました。全部、自分の在り方が招いたことだったのだと。

 

自分にないものを持っている人は、脅威ではなく宝なのだと思います。

よりよく生きるための、より高い場所にいくための。

だから皆が味方で、皆のおかげだと感謝できて、今があるのは皆のおかげと、本気で謙遜する心を持ち、あらゆる全てに感謝できる。だから、世界が素晴らしいと思える。

そうなればもはや、世の中は敵だらけの嫌な場所ではなくなる。

私はと言えば、この世は阿鼻叫喚の世界だと思って今まで生きてきましたから、この発想は目からうろこどころではありませんでした。

 

まとめ:「感謝」というのは、義務でも自己欺瞞でもアピールでもなく、自然に湧き上がるものだった

私は、「全ての人に感謝」とか、全く意味がわからん、と思ってきました。

私は、親が感謝してほしそうにしていろいろな要らないものを押し付けてくる環境で「感謝しなきゃいけない」という圧力に不満が言えない時期を長く過ごしてきました。

感謝してしまったら、不満や自分の意見を持つことを許してもらえない、わかってもらえない、受け取ってもらえない、という恐れをもって生きてきました。

つまり、私にとって今まで「感謝」というのは自分以外の誰かのオーダーに対する無条件降伏に似ていて、今までのつらい経験からくる反射からすると「忌避すべき感情」として認識されていました。

 

感謝している人は、本気で感謝しているんだな、と思うと、不思議な感覚です。

「ありがとうありがとうばっか言って頭わいてんのか?」と白い目でみてきた私でしたが、彼らは本気で思っていたのか。「感謝してる私は上等な人間」っていうアピールじゃなかったんだな、と思うと、自分の認知の歪みはとんでもないな、と思います。

特に勝負において「人生を楽しむ」「幸せに過ごす」その方法とは、

①自分の改良を主眼に置いて、相手に負けることを逆に楽しむこと。

②一つでも優れた点があれば相手を尊敬し認め、学べる機会と相手の存在に感謝すること。

その2つでできているのだと、私は発見しました。

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