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【共依存】共依存症者にとって12ステップを学び続ける理由とは

いろいろとステージが変わってきたんだな、と思う。

今までは、他人に嫌われたり離れられたりするのがとにかく怖くて嫌だから、予防的に自分を制限して振る舞ってきた。それゆえに、ストレスを抱えていたと思う。

できるだけ争いが起きないように立ち回り、もし争いが起こってもなかったように振る舞い、偽りの仲良しを装ってきたのが、私の「人付き合い」という作業だった。

しかし、12ステップやアサーティブを通して「自分は自分でいい」「感じたことは良いも悪いもなく大事なもの」「他人のそれもまた大事で且つ変えられないもの」・・・そういうことを学んできた。

 

振り返ると、わたしの実父母は、「家族」という共同体において、その対極にある在り方を採用していた。

私の実家、つまり共依存的な機能不全家庭では「和を乱すこと」は常に良くないことだった。

私が結婚することになって、久しぶりに実家を訪ねたとき、今後は妻がくっついてくるから、家族4人で水入らずなのは最後だ、と思い詰めて出迎えられた。無理に楽しく明るく過ごそうとする緊張感に満ちた母や妹が、とても奇妙だったことを覚えている。

些細なことで言い争いになり、ふたりともが泣き出して「最後の日くらい楽しく過ごしたかったのに!台無しだ!!」と互いを罵り合い、泣き崩れる姿を見て、心底ドン引きした。

この家族は、気持ち悪い。

そう思った。

 

人間関係のベースが共依存的だと、他人が離れていくこと、他人に見限られたと感じることは、とてつもなく怖い。

なぜなら、共依存症者は「他者との繋がり」をアイデンティティに癒着させてしまっているから。人から離れられることに対して、今ある人格を無理やり千切られるような印象を持つ。そのようなイメージを持っている人からすれば、他人との繋がりは脅威であり、恐怖を伴って当然だろう。

だから、必死にコントロールしようとする。

だが、相手があることなので、そもそもコントロールできないし、コントロールしている状態だとしたら、その状態は不自然なのだ。

そして、コントロールできないものに目を奪われて今を、自分を見失い、こちらがコントロールするつもりが、いつの間にかコントロールされている。

 

結論としては、合う人とは合うし、合わない人とは合わない。そんなもんだと思う。

考え方や価値観は人それぞれで、どちらが良いも悪いもない。正しいわけでも間違っているわけでもない。自分とは違うもの、よくわからないものを、それはそれとして心を乱すことなく視界に置いておくことができる。それが最も安定した状態だ。

つまり、できる限りのことをしたら、それ以上の状況は見込めない。諦めではなく、執着を手放す。それが精神的自立の理想像だと思う。

そうした在り方が自然にできる人が、稀にいる。

自分の気持ちを大切にできて、同じように他人のあり方を尊重し、恐れや怒りに目を眩まさせれることなく、ただ在るようにある。それが一番自分も相手も安心できる。ありのままでいられる。最も不安定なようで最も安定している。私はそうでありたい。

 

嫌われても好かれても、私は私。

誰と一緒にいるのか、誰と離れたのか、誰に認められたか、誰に認められてないか。

これらは、私そのものには一切関係がない。それぞれ在りたいようにあればいい。

皆がそうなら、私たちはみな幸せなのだが、誰しも未来や過去を思う。想像すると不安だから、よくわからないものをわからないままにするのが恐ろしくて、レッテルを貼る。あるいは比べて下に位置づけたりする。

そうして分かったような気になる。安心したがる。

しかし、そうすることによりそのものをそのまま見ることができないでいるために、かえって現実とのギャップを感じて理解に苦しむことになる。

 

 

引用:『バガボンド』第7巻より

 

 

「我が剣は天地とひとつ」というのは、「『剣』とは一つの共通言語」だという意味なのだろう。

己の力や存在価値を証明するために、他人に振りまわすような小さいものではなく、この世の理を知り、他の宇宙(他人)と繋がるためのひとつのツールだという意味だと思う。だから、最終的には刀すら要らなくなるのか。

アサーティブや12ステップも似たようなもので、共通言語としてのツールであり、それを世界と繋がるための媒体として、己のなかに内包・同化することが、真に回復した姿なんだと思う。

すなわち、真の回復状態とは、息をするように、心臓が鼓動を打つように、自然に自分の中にある12ステップやアサーティブという「生き方のツール」に立ち返り、常に世界と向き合うことができる状態。私は以前に比べれば、その状態に近づきつつあるのだと思う。だから、基本的にそこまで他人に対して心を執着させることがなくなってきたんだと思う。

 

「小次郎 俺たちは 抱き締めるかわりに斬るんだな」

引用:『バガボンド』第20巻より

 

人間との関わりや摩擦はそれで、真剣に立ち合えば立ち合うほど、お互いを切るような痛みや血は避けられない。武士の立ち合いとなるといわゆる順縁ではなく逆縁のパターンだが、しかし共通言語を持った者同士の真剣で素直な関わりであり、その瞬間に最も繋がることができる。

プラスでもマイナスでも、真っすぐでなくては真に人と繋がることはできないのだと思う。そしてその繋がりに固執するのではなく、コントロールせずに流れのままに揺蕩うことができるかどうか、それが強さなのだ。

私たちはお互いに、本性は抜身の刀である。不用意に扱えば人を傷つける者同士だ。

『刀は刀であることをやめることはできない。』けれど、傷つけあうことを望むわけでは無い。

 

「道を極めたなら、刀は抜くまでもないもの。そう師に教わったよ。いかに鞘から抜かずにおくか。そのために我々は死にもの狂いで剣を振っとるのだ。(柳生石舟斎)」

引用:『バガボンド』第27巻より

 

 

我々が12ステップやアサーティブをやり続け、学び続けるのも、これが理由だと思う。

極めたなら、刀を抜かなくてもよくなる。それでいて、自然に在ることができる。

いかにありのままでありながら、自分を、他人を、無為に傷つけずに繋がることができるか。

そういう挑戦を諦めないために、わたしはこれからも学び続けていきたいと思う。

【依存症】他人との関わりについて

最近、人との関わりに興味が持てなくなっている。

酒は止まっているけど、人と人との関わりについてはまだまだわからないことだらけだ。

私は、元からそんなに他人に興味がなかったのに、必死に興味を持とう、関わろうとしてきたように思う。

酒が止まり、本来の状態に近づいているからなのかもしれない。

 

伝えたいことを伝わる形で届けようとすることは、いつでもだれに対しても、とても重要だ。

その努力は惜しみたくないし、最大限力を注ぎたいと思っているし、そうしてきたつもりだ。

しかし、どう力を尽くしたとしても、相手がいることだから、うまくいくとは限らない。

相手が受け取る準備ができていなければ、私がどう苦心して形を整えたとしても、伝わらないことは多々ある。

結局、人間は誰もが自分を含む世界全体を見たいように見ている。他人はその人にとって都合がいいように映る。私も含めて皆がそうなのは、どうやら経験上確かだなと思っている。

 

何を必死になって、世の中にとって意義のあることをしたい、などと息巻いていたのだろう。

専門領域について詳しくなり、様々な人に正確な知識を伝えたい、なとど躍起になっていたのだろう。

 

お節介もいいところだ。

全部、受け取る相手がいるのだ。

どんな情報も言葉も、受け取る相手次第であり、それらはハイヤーパワーにより導かれているのだから、私が使命感を持ってどうこう影響しようとする話ではない。

そういう傲りは、私が他人に必要とされたい、という欲望だ。必要とされていなければ生きていてはいけないという恐怖の副産物だ。

私たちは皆、役に立つとか立たないとか関係なく生きていていいし、自己実現や承認欲求はプラスアルファであり、その人がそれぞれ満たしたい分だけでいいものだ。つまりサブミッションだ。

 

私は、私が今まで知ってきたことや感じてきたことを通じてしか世界をとらえられていない。その時点で、どれだけ多くのノウハウを詰め込んだとしても、私の見方は限りなく一元的だ。

他人が見ている世界とは、結局のところ同じではない。誰とも、同じものを見ているわけでは無いのだから。

だから、私が言えるのは「私としては、こうだと思う。」ということだけ。正しいとか間違っているなんて、そもそも存在しない。

私はこれからも「私は世の中がこうなったらいいな」と思うことを朴訥に、淡々と、実行しては検証するだけだ。

賛同する人間は賛同し、反対する人間は反対して、各々の好きなようにしたらいい。

私は私のペースで、そのとき在りたいようにあるしか無い。

本当に、それでしかない。

 

他人の世界観を知ることは、自分の世界を広げる可能性を秘めている。

だから、自分の話をして、他人の話を聞く価値は、いつでも誰とでも、あると思う。

他人と接することで、他人という鏡に映る自分の姿や状態を認識することができ、違う宇宙を覗くことで、神経が拡がっていくように自分の宇宙が拡がる。

 

ただ、この作業は、私はすごく疲れる。

もう正直うんざりしてきている。

この作業にワクワクして力をもらう人には、これ以上ない活力なんだと思うけど。

私はそういう造りはしていない感じがする。

むしろデメリットや矛盾が不快な感覚を味わせてくるので、余裕があるときに少しでいい。

年寄りで胃もたれするから脂物はちょっとでいいみたいな感じ。おじいちゃんかよ。

 

人に囲まれて、慕われて好かれて、みたいなことに憧れがあったけど、今はもうなくなった。

あれは私とはまた違う報酬系だったんだな、と今は思う。人は自分と違う他人に憧れるのだから。

 

勝手に下にみたり、崇拝したり。

くっつきすぎたり、離れてみたり。

あと何回、誰かとの似たようなケースの処理に付き合うのだ。いい加減飽き飽きしてくる。

そんな感じだ。

期待しては失望して、それは結局自分の勝手な独り相撲で、お互いに傷ついて終わるパターンを、一生のうちにあと何回やるのだろうか。

これを楽しいと感じられるのはかなりすごいことだと思う。

もう疲れたな、というただの愚痴。

 

【仕事】製薬会社のMRがオワコンと蔑まれるようになった本当の理由

MRとは「Medical Representative」の略で、日本語では「医療情報担当者」つまり製薬会社の現場担当者である。

日本のMRは、海外に比べてその存在を尊重されていない。

海外旅行で出会ったチェコ人やアメリカ人に「何の仕事をしているのか?」と聞かれて「私は日本でMRをしている」というと、握手を求めてくれたりする。

日本以外では握手を求められるほど素晴らしい職業だと認識されているということだ。

日本と海外では、なぜこれほどまでにMRという職業に対する認識に違いがあるのだろうか?

 

売れればなんでもいいという医療従事者としての意識の低さ

海外のMRは接待が違法だ。法律で禁止されている。

だから絶対に個人的な癒着などで処方をお願いしようなどとはしない。

あくまでも、MRとしての技術や能力で医師に貢献するため、深い知識を身に着けて対等にはっきりと医師に対して提案し主張するべきを主張する。

そういう誇り高い働き方をしている。

 

一方、日本のMRはといえば、勝てば官軍負ければ賊軍、と言わんばかりで、とにかく自社の製品が売れさえすればいいと思っている人間が大半を占めている。

ルール内でありとあらゆる手を尽くす。ときにはルールを逸脱してでも倫理観や医療従事者としての規範を放り捨てて売り上げのほうをとる。

そういう下品さが、日本におけるMRの特徴だ。

 

なぜそんなに下品になってしまったかと言えば、どれだけ医療に貢献していようといまいと、結局は売上で評価されるからだ。

そりゃあ、現場感覚も歪むだろう。

副作用情報を一回も聴取したことがないMRがマネージャーに昇進したりするのだから、(真剣に症例に向き合い、医師と薬剤の話をしていたら確率的にはあり得ない)部下はとにかく売上さえあげておけばいいと思って当然だ。

副作用(AE)情報の収集などは、売上に関係のない『余分な仕事』だと本気で思っているMRが今もまだいることに、私は驚きを隠せない。MRにとってAE情報収集は最も重要な仕事のひとつであり、むしろそれさえちゃんとしていれば本邦においてもまだ存在意義があるんじゃないかと思うが、AEの収集や薬剤の適切な処方方法についてフラットな話ができないようでは、本当に居る意味がない。本当に要らない。

患者さんを大事にしようがしまいが、とにかく薬が売れればいい、それが今まで現場を跋扈していた「デキるMR」という痛い生き物である。

 

MRに対する医師の不信

だから医師は、MRが話すことなど信じなくなってしまった。

「結局こいつらは売れさえすればいいのだ。いいことしか言わない。」

「売り上げに影響しそうなマズい情報は、本当に大事な情報だったとしても隠すやつらだ。信用ならない。」

そうやって諦められてしまった。

だから、訪問を断られる。

なぜなら、話す価値がないからだ。

そりゃそうだ。自社に都合のいいことばかり言って、本当に伝えてほしいリスクの部分をちゃんと伝えないような人間に会う時間は、唯々もったいない。私だって断るだろう。

医師はMRに会うよりも、ネットで情報を集めるようになり、何か困ったら製薬会社の問い合わせ窓口に電話するようになった。そのほうが正確だし早いから。

本来MRが充足するはずだったソフト面のサービスを、他で代替せざるを得ない状況をつくってしまったのは、製薬会社自身である。

売上で評価して、数字として表れないMRとしての働きを評価しなかった。そういう人事面での評価を簡略化した怠慢が、信頼の喪失という最悪の形で表出しているに過ぎない。

MRの技量不足ではない。会社のそもそもの体質と経営方針が、問題なのだ。

 

迷走する哀れなMRたち

信じてもらえないから、より屈折したアプローチに傾倒していくMRたちを何人も見てきた。

会社が信じてもらえないから、自分という人間を信じてもらえるように頑張る。それはすなわち個人的な癒着に他ならない。

そんなMRを取り巻く環境は、コロナ流行以前に比べて、以降は特に厳しい。

「会わなくてもあまり医療に関係ないんだ」ということが、医師にも会社にもわかられてしまったと言ってもいいだろう。

それは製薬会社そのものが、本来あったMRの役割や良さをどんどんこそげ落としてきたからだ。しかし現場のMRたちは、少しずつ会社に洗脳され、じわじわと翼を毟られていたとは、今まで自覚してこなかったので、自力では飛べなくなっていることに今更気づいて青ざめている。

そういう意味では、そもそも医療者として思慮が浅すぎることこそMRの罪だったのだが、いまさら言っても詮無き事。

会社が言うとおりに訪問して、製品をコールしてコールして、売上が上がれば褒めてくれる会社のためにシャカリキになって頑張った。そんな共依存的で忠実な奴隷社員が、今マネージャーとして現場を統括しているのだから、もう目も当てられない。

もう会社に褒めてもらうというくだらない承認欲求のために、一度しかない貴重な人生を犠牲にするべきではない。

早期退職制度が各製薬会社で推奨されはじめて久しいが、ついに先日武田薬品でも開始されたとニュースになっている。「フューチャー・キャリア・プログラム」などと呼称し、「キャリア支援の一環」と称してはいるが、とどのつまりはリストラである。

今までのような会社の奴隷ではなく、地頭で考えて社内評価などという些末な価値観に左右されない医療従事者としての矜持と信念を持った者でなければ、もう務まらない職業になってきた。

そして、それはあるべき姿に戻ろうとしている過渡期の姿でもある。

 

これからあるべきMRの姿

正直、訪問や情報伝達は、2〜3ヵ月に1回でいい。

①取り扱っている製品知識と②製品の対象疾患知識、③対象疾患に関連する併存疾患知識。これを医師とディスカッションできるレベルにすることが前提条件である。

今までのMRは勉強しなさすぎ。せめて上記の3つは会社の教育制度に頼らず、毎日勉強してしかるべきだと思う。

勉強と称して日々受けさせられていた製品の社内教育は、聞き流しておこう。

売るためだけの指導プログラムはもう要らない。そういう社内教育は全部無視していい。会社都合の洗脳プログラムであり、聞くだけ無駄。

また、これは本社マターになるが、マネージャー登用はマネジメントの能力を評価する独自のジョブポスティング制度を設けて、実績にかかわらずマネジメントの能力でポジショニングするのが良い。

そうでないと、またしょうもないマネージャーが量産されてしまう。現場で実績を残せる人と、素晴らしいマネジメントができる人は、イコールではない。そもそも特性が違うし、役割が違う。

マネージャーを昇進と位置付けるからおかしなことになる。「かつて売る技術に長けていた者が売りつけるノウハウを部下に教える役割」と勘違いしているマネージャーが多いようだが、そんな役割はもう要らないし、そもそも売ることが目的ではない仕事でこれ自体おかしい。

マネージャーは、MRに適切な情報活動ができるようサポートするJOBのひとつ。

そうなりたいひとが現場を経験しながらマネジメントを学び、ジョブポスティング制度でテストしてから配置して、現場で適性が確認された者のみを採用しつづければよい。

今後、そうした在り方が正しかったということを、自分の身をもって証明していけたらいいな、と思う。

【AC】Step8「傷つけた人」その⑧『自助グループの仲間』

私は、間接的に目に入るブログという媒体を通じて、直接実直に話すことが難しい怒りや悲しみを、相手に作為的に伝えようとしたことを、謝罪したいです。

 

共依存的なコントロールであり、ACとして自分の感情を過小評価して卑下し、主張する自信がないから、ねじ曲げて表現しました。

いわゆる、嫌味な言い方です。

自らが極力責められないように形を整えて、卑怯なやり方でした。

そのことで、寂しさや悲しさを相手に味わわせたことを、本当に申し訳なかったと感じています。

 

私は当時ブログに思いの丈を書きました。

「私は素直に感じたことを書くためにブログを始めたんだから、これを読んでどう思うかは相手の問題だ。私は悪くない。」と、理論武装の盾に隠れて、安全な場所を確保して、私は暗に他人を非難するような内容を書きました。

 

実際「私のことを責めてたよね?」と当事者から言われた時、私は知らんふりをして「私の記事があなたにそう映るんなら、あなたの中に問題があるんじゃない?」とズルく卑劣な言い方をしました。

たしかに私が何を書くかは自由だけど、ほんとうに私が実直なら、当事者から確認されたときに思っていることをその人に正面から伝えるほうがより良かったし、そうしなかったのは「相手はまだわかってないから、見方を誤っているんだ、だから、正しいことを教えてあげよう」などという思い上がった気持ちが私にあったからでした。

 

そもそも、相手の対応に傷ついたり対等に話すべく話し合いを望んでもちゃんと話してくれなかったので、関係が悪化していったことが始まりではあります。

私はその人に対して、これ以上正直に話すことが怖かったのでした。実直に話しても受け取ってもらえない痛みに耐えかねて、でも胸の内にある悲しみや怒りを抑えることができずに、歪んだ表現方法を取りました。

それは、仕方なかったとはいえ、いいことではありませんでした。

 

私のやり方が相手と対等ではなく、実直さや率直さを欠いていたことは紛れもない事実であり、私はそれを認めて、心から謝りたい。

そして、二度と、ブログをそんなふうに他人を間接的に攻撃するための手段に使ったりせず、一瞬一瞬を、自分に実直に、相手に率直に、対等な心で接するよう、自分の行動を変えていきたいです。

それが、私にとって、私が私を嫌いにならず、自分を最も大切にすることだと思います。

 

お相手にDMで謝罪したいなと思いましたが、私からは送れなくなっていたので、ここに置いておかせてください。

本当にごめんなさい。

私は少しずつでいいので、変わりたい。