次のような傾向に思いあたったら、あなたの中に共依存の課題があるかもしれません。
犠牲になっていませんか?
誰かとの関係で、自分ばかりが責任やリスクを負ったり、気持ちを押し殺したりしていないでしょうか。
乗り出しすぎていませんか?
相手が決めたり考えるべきことまで、やってあげたり、指示したりしていないでしょうか。
その結果、相手の甘えを招いていないでしょうか。自分を追い立てていませんか?
困っている人を助けないと悪いという罪悪感、みんなに好かれなければダメだという考え方、完ぺきな自分にならなければという思いこみなどで、自分を過剰に追い立てていないでしょうか。
私は、仕事において共依存的である。
私は、この3つの傾向にすべて当てはまる。
皆さんにも心当たりがないだろうか?
私は今の仕事に対して情熱を失っている。それは、仕事に対する関わり方が共依存そのものだと気づいてしまったからではないだろうか。
そのことについて深く考えてみたいと思う。
そもそも「共依存」とは?
共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のことです。
たとえば――。
自分の価値を、周囲の基準だけを頼りに判断する。
自分がどうしたいかではなく、周囲の期待に応えることだけに必死。
他の人の問題を解決することに、いつも一生けんめい。
誰かの役に立とうとするのは、もちろんいいことです。周囲の人に認めてほしいとか、好かれたいと思うのも、自然なこと。
けれどその結果として、自分自身がどんどん苦しくなったり、一生けんめいやればやるほど状況が悪化することがあります。
そんなとき、背景に共依存の問題があるかもしれません。
私はいつも周囲の期待に応えることにばかり一生懸命だったように思う。
いつも満たされない気持ちだったし、どれだけ頑張ってもどれだけ表面的に褒められても渇きが癒えない感覚が常にあった。「自分自身がどんどん苦しくなる」「一生懸命やればやるほど状況が悪化する」書いてある通りの状態だ。
自分自身に焦点が当たっていない。
それはまさにその通りだと思う。
他の人の欲求や意向や願いなどは手に取るようにわかるのに、自分の願いや欲求が全然わからなくてまごつくことが多かった。まるで神経が死んでしまった皮膚のように、つねっても叩いても何も感じない。それなのに、他人の痛みは自分のそれのように受け取り、なんとかしなくては、と躍起になった。
他人を満たすことで、自分が求められることで、初めて息をしている気がした。
生きていていい、と言われている気がしてつかの間の安心を得ることができた。
私にはメリットがあったのだ。
例えば仕事に没頭したのは、そのような共依存性を発揮したいい例だと思う。
「営業職」はACにとって天職?
私はずっと営業職をやってきた。
人と会うとぐったりと疲れるのに、なぜ営業職を選んだか?
それは「私にとって人と関わることは避けられないこと」だと悟り、対人関係構築力を鍛えなければ生きていけないという危機感があったからだ。
私はずっと人とうまく接することができなかった。だから、うまく接するためには対人関係のプロである営業職に身を置いて鍛えれば必然的に身に着くだろうと思ったのだ。
最初は大変だった。というか今も大変だ。
発達障害の「ASD(自閉症スペクトラム)」を持っている私から見ると、定型発達者は複雑怪奇だった。謎のテレパシーを送り合ってコミュニケーションをとっているとしか思えなかった。「空気を読む」「察する」そういう非言語的コミュニケーションが全く理解できなかった。だから仲間外れにされてきたのだが。
つまるところ、この非言語的コミュニケーションだ。これをマスターすれば私は「人間」の仲間入りができると踏んでいた。
私から見て、営業スキルは、この非言語的コミュニケーションを法則化している夢のような黄金律に見えた。これだ。これさえマスターすれば二度と哀しい思いや惨めな思いをしなくて済む。意気揚々と飛び込んだ。
飛び込んで、死にかけた。
私はとんでもなく察しが悪かった。
「普通考えればわかるだろ」
「おまえ空気読めよ使えねぇな」
何千回何万回聞いたことだろう。私は絶望的な気持ちになった。とても手に負えないスキルだったのではないか、身の程をわきまえて静かに一人で暮らしていればよかったのではないかと思った。
そんななか、光明になったのが、AC(アダルトチルドレン)としての特性だった。
ACとして、人の痛みには敏感に気づくことができた。
自分が嫌われないために常に相手のニーズを満たそうと目を光らせ、観察と検証を繰り返してきたACとしての姿勢は、営業職においてベースになる機能だった。
相手のニーズを正確に理解して、それに合う自社のサービスで顧客の問題を解決する。
最初は全く読めなかった「空気」も、罵倒されながら状況と原因と結果をひとつひとつケーススタディとして積み上げていけば、ある一定の法則が見えてくる。
自分を滅してでも、日夜顧客に尽くすこと。
それが目に見える数字に結実し、周囲からも賞賛され、自分を支える社会的価値になる。
嬉しかった。
やっと生きていると思えた。
絶対的に正しいと思えた。
私は世の中のみんなから生きていていいと言われている気がした。
私はそれが蟻地獄だと知らずに足を踏み入れて、深みにはまっていく。
最も大切にするべき自分を置き去りにして
私は社会人2年目あたりから狂ったように仕事のことばかり考えていたと思う。
私生活も何もかも、すべては仕事のスキルを上げるための時間だと思っていた。
休日もPCにかじりつき、朝から晩まで仕事だった。
本当は仕事のことなんて考えたくなかった。ゆっくりしたかった。おそらくうつを患っていた。が、そんなことを気にすることもなく、動かないなら何かで動かせばいいという具合でエチルアルコール(酒)をキメる毎日を過ごした。
そしてアルコール依存症になった。
酒をやめてからも、やはり存在意義は仕事だった。
稼いでいなくては、生きていけない。結婚もできない。だれも見向きもしてくれない。
だから、私は「ちゃんと仕事をしていなければならない」。
顧客のニーズに応えて「ありがとう」と言われよう。
「ありがとう」を積み重ねてお金で返してもらおう。
それで会社は喜ぶ。
そう、私は会社に認めてもらいたかったのだ。
他の誰よりも役に立っていると会社から思われていれば、そこから追い出される心配はないからだ。
アルコール依存症になって、起こした問題が原因で信頼を失い懲戒解雇になりかけて、「お前は要らないから早く辞めてくれ」と言われてから、その執着はさらに強くなったように思う。
会社と社員は共依存関係に陥りやすい
会社にとって、社員は駒にすぎない。
新古典派経済学の牙城であるシカゴ学派を代表するアメリカの経済学者、ベッカーは「人的資本理論」を提唱している。
新古典派経済学では、伝統的に『人の能力(限界生産力)は所与のもので企業はそれに見合った賃金で雇用する』と考えられてきたが、人的資本理論は、『人間を機械や工場などと同じ資本ととらえ、教育・訓練(投資)を受けるほど労働生産性は向上し賃金も増大する』と分析する。
私はこの人的資本理論は好きだが、会社はこれを投資すべき人材と口では言いながら、うまく使おうと自社が所有する「資本」としての扱いにのみ傾注しているように思う。
つまり、うまい具合に使うためにある道具。すなわち駒である。
会社は別に社員を家族とも思っていないし、愛しているわけがない。
しかし、社員は会社の理念や在り方を愛して、いわゆる愛社精神をもつ。
そして、その愛を会社への貢献という形で示そうとする。
ここに共依存性が加わると最悪である。
認めてもらおう、褒めてもらおう、という承認欲求に飢えている共依存性を持つ社員は、会社にとって実に美味しい。
それらしいご褒美を小出しにしてさえいれば、多少ひどい扱いをしても離れない。
いくらでも言うことをきく。
限界まで安くこき使える、コスパのいい奴隷。
社員同士を競わせ、情報を操作して洗脳し、会社への忠誠心の厚い奴隷に仕立て上げる。
家庭も省みず、子供の運動会も欠席して、ひたすら会社に尽くす。
妻や子供との関係が崩壊していても「家族のためにやっている」という言い訳で本心を見て見ない振りをする。本当はこんな風に生きたいわけじゃなかった、という本心に触れたら、もう立っていられないからだ。
1980~90年代の働き方はまさにこれだ。「24時間戦えますか」の時代。
そんな否認のプロ、優秀な奴隷であるモーレツサラリーマンは昇進することができた。さらなる奴隷を再生産するために。
その体験を「成功体験」と呼び、あるべき男の姿として語り継いできたところをみると、仕事人間の男性はほぼ会社と共依存していると言っても過言ではないだろう。
会社と社員の構造は、大企業であればあるほど、実態はこんなものだとわかってしまった。
共依存でボロボロになり、潰れた社員は捨てられる。使い捨ての資本だから。
ストレスや過労により前線を離れるひとをたくさん見てきた。そうなったとき、会社がどれだけ冷たいかも、身を持って体験してきた。
今、なぜその歪な関係に気づけたのだろうか。
それは、私がACのための12ステップ・プログラムに取り組み、ACとしての自覚に目覚めたからだと思う。
誰かの役に立とうとするのは、もちろんいいことです。
周囲の人に認めてほしいとか、好かれたいと思うのも、自然なこと。
前述のとおり。そうだ。
誰かの役に立つことは、いいことだ。
認めてほしい、好かれたいと思うことは、自然なことだ。
自分を蔑ろにしない限りにおいては。
私はこれに気づいたのだと思う。
目をつぶりやすい。
自分を蔑ろにしていることに。
なぜか?自分には価値がないと思い込んできたからだ。
なぜか?親との関係でそう思い、周囲の人々との関係でそう思い、自分のなかに間違った信念が根付いているからだ。「結果を出さなければ価値がない」と思い込んでいる。
誰もがそうだ。その歪みを見て見ぬふりをして、「私は良いことをしているんだ」「私の願いは自然なことだ」と思いたい。なまじ、誰かのために何かをするのは、いいことだし自然なことだから厄介なのだ。
実は、自分の在り方や気持ちを最も優先してもいい。
これは新鮮な驚きだった。
本当は、会社で認められるために私生活を犠牲にしなくていい。
本当は、仕事だからといって、何もかも我慢しなくてもいい。
本当は、働きたくないなら働かなくてもいい。
本当は、社会に必要とされようと不安にならなくてもいい。
仕事は、実はMUSTではなかったのだ。
国民の三大義務だというかもしれないが、働けない理由に「働きたくない」は当てはまる。
労働は本当は自分がしたいからするものであり、仕事は、MUSTではなくWANTに当てはまるのだと思う。
つまり、人生においてはオプションなのだ。メインではない。
前提には、『何もしていない自分』にも、存在に対する安心があってもいいのだから。
メインは自分自身。会社や仕事はオプション。
自分がしたいことの一つ。
自分が選んで自己実現する手段の一つ。
逃げてもいい、やめてもいい、自分で選んだのなら。その責任を負う覚悟で踏む出すのなら。
本当の自分の声はどこにあるのか、よく耳を澄ませてみよう。
まとめ:私が仕事に対する情熱を失った理由
私は、意味があると自分で思えることがしたい。
徹頭徹尾、それでできている。私はそれでできている。
意味があることなんて、見方によってはこの世にはないのかもしれない。意味は見つけ出すものだから。
お金を他人よりも稼ぐこと、社会的に認められること、会社から表彰され褒められること。
私はこのようなことを「意味がある」と思ってきた。
しかし実際は、意味があまりなかったのだと悟った。
お金は生活に必要な分だけあればいい。
社会的に認められていなくても、私そのものの価値は変わらない。
会社が褒めるのは奴隷を創りたいからで、条件付きのポーズでしかない。
私が本当に求めている存在の肯定は、他ならぬ自分自身にしかできないことだった。
安心をアウトソーシングしようとして、共依存に没頭した。それは一見有効なようで、私にとっては意味がなかったのだと思う。最も大切にするべき自分を粗末に扱って、他人に利用されるだけだったり、感情に振り回されるだけだった。「仕事」に傾注することは、薬になるというよりも毒である、と理解した。
ぽっかりと穴が空いたようにさびしい。これが正直な気持ちだ。
今まで慣れ親しんだ共依存相手の「仕事」を手放し、私はすっかり茫然としている。
人の役に立ちたい、という気持ちは本心だったし、それは私が気持ちがいいからやることで、私が病んでまで他人に尽くすことはなかったのだと思うと、まずは私の回復が最も重要なのだということに気づいた。
だから、私はこれから自分に尽くしてみようと思う。
読みたい本を読み、自分のなかの真実に耳を澄ませる。
「私の心からの願い」を生活の根本に据えて、私が本当に役立ちたい人たちの役に立てるよう、自分の足腰をしっかり支えるのだ。
そういうふうに生きていくことが、私が生きたい人生だったのだ、と思う。