月別アーカイブ: 2020年6月

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」①仕事

次のような傾向に思いあたったら、あなたの中に共依存の課題があるかもしれません。

犠牲になっていませんか?

誰かとの関係で、自分ばかりが責任やリスクを負ったり、気持ちを押し殺したりしていないでしょうか。

乗り出しすぎていませんか?

相手が決めたり考えるべきことまで、やってあげたり、指示したりしていないでしょうか。
その結果、相手の甘えを招いていないでしょうか。

自分を追い立てていませんか?

困っている人を助けないと悪いという罪悪感、みんなに好かれなければダメだという考え方、完ぺきな自分にならなければという思いこみなどで、自分を過剰に追い立てていないでしょうか。

 

引用:株式会社アスク・ヒューマン・ケアHP>共依存とは>あなたにこんなこと、起きていませんか?

 

私は、仕事において共依存的である。

私は、この3つの傾向にすべて当てはまる。

皆さんにも心当たりがないだろうか?

私は今の仕事に対して情熱を失っている。それは、仕事に対する関わり方が共依存そのものだと気づいてしまったからではないだろうか。

そのことについて深く考えてみたいと思う。

 

そもそも「共依存」とは?

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のことです。

たとえば――。

自分の価値を、周囲の基準だけを頼りに判断する。

自分がどうしたいかではなく、周囲の期待に応えることだけに必死。

他の人の問題を解決することに、いつも一生けんめい。

誰かの役に立とうとするのは、もちろんいいことです。周囲の人に認めてほしいとか、好かれたいと思うのも、自然なこと。

けれどその結果として、自分自身がどんどん苦しくなったり、一生けんめいやればやるほど状況が悪化することがあります。

そんなとき、背景に共依存の問題があるかもしれません。

 

引用:株式会社アスク・ヒューマン・ケアHP>共依存とは

 

私はいつも周囲の期待に応えることにばかり一生懸命だったように思う。

いつも満たされない気持ちだったし、どれだけ頑張ってもどれだけ表面的に褒められても渇きが癒えない感覚が常にあった。「自分自身がどんどん苦しくなる」「一生懸命やればやるほど状況が悪化する」書いてある通りの状態だ。

自分自身に焦点が当たっていない。

それはまさにその通りだと思う。

他の人の欲求や意向や願いなどは手に取るようにわかるのに、自分の願いや欲求が全然わからなくてまごつくことが多かった。まるで神経が死んでしまった皮膚のように、つねっても叩いても何も感じない。それなのに、他人の痛みは自分のそれのように受け取り、なんとかしなくては、と躍起になった。

他人を満たすことで、自分が求められることで、初めて息をしている気がした。

生きていていい、と言われている気がしてつかの間の安心を得ることができた。

私にはメリットがあったのだ。

例えば仕事に没頭したのは、そのような共依存性を発揮したいい例だと思う。

 

「営業職」はACにとって天職?

私はずっと営業職をやってきた。

人と会うとぐったりと疲れるのに、なぜ営業職を選んだか?

それは「私にとって人と関わることは避けられないこと」だと悟り、対人関係構築力を鍛えなければ生きていけないという危機感があったからだ。

私はずっと人とうまく接することができなかった。だから、うまく接するためには対人関係のプロである営業職に身を置いて鍛えれば必然的に身に着くだろうと思ったのだ。

最初は大変だった。というか今も大変だ。

発達障害の「ASD(自閉症スペクトラム)」を持っている私から見ると、定型発達者は複雑怪奇だった。謎のテレパシーを送り合ってコミュニケーションをとっているとしか思えなかった。「空気を読む」「察する」そういう非言語的コミュニケーションが全く理解できなかった。だから仲間外れにされてきたのだが。

つまるところ、この非言語的コミュニケーションだ。これをマスターすれば私は「人間」の仲間入りができると踏んでいた。

私から見て、営業スキルは、この非言語的コミュニケーションを法則化している夢のような黄金律に見えた。これだ。これさえマスターすれば二度と哀しい思いや惨めな思いをしなくて済む。意気揚々と飛び込んだ。

飛び込んで、死にかけた。

私はとんでもなく察しが悪かった。

「普通考えればわかるだろ」

「おまえ空気読めよ使えねぇな」

何千回何万回聞いたことだろう。私は絶望的な気持ちになった。とても手に負えないスキルだったのではないか、身の程をわきまえて静かに一人で暮らしていればよかったのではないかと思った。

 

そんななか、光明になったのが、AC(アダルトチルドレン)としての特性だった。

ACとして、人の痛みには敏感に気づくことができた。

自分が嫌われないために常に相手のニーズを満たそうと目を光らせ、観察と検証を繰り返してきたACとしての姿勢は、営業職においてベースになる機能だった。

相手のニーズを正確に理解して、それに合う自社のサービスで顧客の問題を解決する。

最初は全く読めなかった「空気」も、罵倒されながら状況と原因と結果をひとつひとつケーススタディとして積み上げていけば、ある一定の法則が見えてくる。

自分を滅してでも、日夜顧客に尽くすこと。

それが目に見える数字に結実し、周囲からも賞賛され、自分を支える社会的価値になる。

嬉しかった。

やっと生きていると思えた。

絶対的に正しいと思えた。

私は世の中のみんなから生きていていいと言われている気がした。

私はそれが蟻地獄だと知らずに足を踏み入れて、深みにはまっていく。

 

最も大切にするべき自分を置き去りにして

私は社会人2年目あたりから狂ったように仕事のことばかり考えていたと思う。

私生活も何もかも、すべては仕事のスキルを上げるための時間だと思っていた。

休日もPCにかじりつき、朝から晩まで仕事だった。

本当は仕事のことなんて考えたくなかった。ゆっくりしたかった。おそらくうつを患っていた。が、そんなことを気にすることもなく、動かないなら何かで動かせばいいという具合でエチルアルコール(酒)をキメる毎日を過ごした。

そしてアルコール依存症になった。

酒をやめてからも、やはり存在意義は仕事だった。

稼いでいなくては、生きていけない。結婚もできない。だれも見向きもしてくれない。

だから、私は「ちゃんと仕事をしていなければならない」。

顧客のニーズに応えて「ありがとう」と言われよう。

「ありがとう」を積み重ねてお金で返してもらおう。

それで会社は喜ぶ。

そう、私は会社に認めてもらいたかったのだ。

他の誰よりも役に立っていると会社から思われていれば、そこから追い出される心配はないからだ。

アルコール依存症になって、起こした問題が原因で信頼を失い懲戒解雇になりかけて、「お前は要らないから早く辞めてくれ」と言われてから、その執着はさらに強くなったように思う。

 

会社と社員は共依存関係に陥りやすい

会社にとって、社員は駒にすぎない。

新古典派経済学の牙城であるシカゴ学派を代表するアメリカの経済学者、ベッカーは「人的資本理論」を提唱している。

新古典派経済学では、伝統的に『人の能力(限界生産力)は所与のもので企業はそれに見合った賃金で雇用する』と考えられてきたが、人的資本理論は、『人間を機械や工場などと同じ資本ととらえ、教育・訓練(投資)を受けるほど労働生産性は向上し賃金も増大する』と分析する。

私はこの人的資本理論は好きだが、会社はこれを投資すべき人材と口では言いながら、うまく使おうと自社が所有する「資本」としての扱いにのみ傾注しているように思う。

つまり、うまい具合に使うためにある道具。すなわち駒である。

会社は別に社員を家族とも思っていないし、愛しているわけがない。

しかし、社員は会社の理念や在り方を愛して、いわゆる愛社精神をもつ。

そして、その愛を会社への貢献という形で示そうとする。

ここに共依存性が加わると最悪である。

認めてもらおう、褒めてもらおう、という承認欲求に飢えている共依存性を持つ社員は、会社にとって実に美味しい。

それらしいご褒美を小出しにしてさえいれば、多少ひどい扱いをしても離れない。

いくらでも言うことをきく。

限界まで安くこき使える、コスパのいい奴隷。

社員同士を競わせ、情報を操作して洗脳し、会社への忠誠心の厚い奴隷に仕立て上げる。

家庭も省みず、子供の運動会も欠席して、ひたすら会社に尽くす。

妻や子供との関係が崩壊していても「家族のためにやっている」という言い訳で本心を見て見ない振りをする。本当はこんな風に生きたいわけじゃなかった、という本心に触れたら、もう立っていられないからだ。

1980~90年代の働き方はまさにこれだ。「24時間戦えますか」の時代。

そんな否認のプロ、優秀な奴隷であるモーレツサラリーマンは昇進することができた。さらなる奴隷を再生産するために。

その体験を「成功体験」と呼び、あるべき男の姿として語り継いできたところをみると、仕事人間の男性はほぼ会社と共依存していると言っても過言ではないだろう。

 

会社と社員の構造は、大企業であればあるほど、実態はこんなものだとわかってしまった。

共依存でボロボロになり、潰れた社員は捨てられる。使い捨ての資本だから。

ストレスや過労により前線を離れるひとをたくさん見てきた。そうなったとき、会社がどれだけ冷たいかも、身を持って体験してきた。

 

今、なぜその歪な関係に気づけたのだろうか。

それは、私がACのための12ステップ・プログラムに取り組み、ACとしての自覚に目覚めたからだと思う。

誰かの役に立とうとするのは、もちろんいいことです。

周囲の人に認めてほしいとか、好かれたいと思うのも、自然なこと。

前述のとおり。そうだ。

 

誰かの役に立つことは、いいことだ。

認めてほしい、好かれたいと思うことは、自然なことだ。

自分を蔑ろにしない限りにおいては。

 

私はこれに気づいたのだと思う。

目をつぶりやすい。

自分を蔑ろにしていることに。

なぜか?自分には価値がないと思い込んできたからだ。

なぜか?親との関係でそう思い、周囲の人々との関係でそう思い、自分のなかに間違った信念が根付いているからだ。「結果を出さなければ価値がない」と思い込んでいる。

誰もがそうだ。その歪みを見て見ぬふりをして、「私は良いことをしているんだ」「私の願いは自然なことだ」と思いたい。なまじ、誰かのために何かをするのは、いいことだし自然なことだから厄介なのだ。

 

実は、自分の在り方や気持ちを最も優先してもいい。

これは新鮮な驚きだった。

本当は、会社で認められるために私生活を犠牲にしなくていい。

本当は、仕事だからといって、何もかも我慢しなくてもいい。

本当は、働きたくないなら働かなくてもいい。

本当は、社会に必要とされようと不安にならなくてもいい。

 

仕事は、実はMUSTではなかったのだ。

国民の三大義務だというかもしれないが、働けない理由に「働きたくない」は当てはまる。

労働は本当は自分がしたいからするものであり、仕事は、MUSTではなくWANTに当てはまるのだと思う。

つまり、人生においてはオプションなのだ。メインではない。

前提には、『何もしていない自分』にも、存在に対する安心があってもいいのだから。

メインは自分自身。会社や仕事はオプション。

自分がしたいことの一つ。

自分が選んで自己実現する手段の一つ。

逃げてもいい、やめてもいい、自分で選んだのなら。その責任を負う覚悟で踏む出すのなら。

本当の自分の声はどこにあるのか、よく耳を澄ませてみよう。

 

まとめ:私が仕事に対する情熱を失った理由

私は、意味があると自分で思えることがしたい。

徹頭徹尾、それでできている。私はそれでできている。

意味があることなんて、見方によってはこの世にはないのかもしれない。意味は見つけ出すものだから。

お金を他人よりも稼ぐこと、社会的に認められること、会社から表彰され褒められること。

私はこのようなことを「意味がある」と思ってきた。

しかし実際は、意味があまりなかったのだと悟った。

お金は生活に必要な分だけあればいい。

社会的に認められていなくても、私そのものの価値は変わらない。

会社が褒めるのは奴隷を創りたいからで、条件付きのポーズでしかない。

私が本当に求めている存在の肯定は、他ならぬ自分自身にしかできないことだった。

安心をアウトソーシングしようとして、共依存に没頭した。それは一見有効なようで、私にとっては意味がなかったのだと思う。最も大切にするべき自分を粗末に扱って、他人に利用されるだけだったり、感情に振り回されるだけだった。「仕事」に傾注することは、薬になるというよりも毒である、と理解した。

 

ぽっかりと穴が空いたようにさびしい。これが正直な気持ちだ。

今まで慣れ親しんだ共依存相手の「仕事」を手放し、私はすっかり茫然としている。

人の役に立ちたい、という気持ちは本心だったし、それは私が気持ちがいいからやることで、私が病んでまで他人に尽くすことはなかったのだと思うと、まずは私の回復が最も重要なのだということに気づいた。

だから、私はこれから自分に尽くしてみようと思う。

読みたい本を読み、自分のなかの真実に耳を澄ませる。

「私の心からの願い」を生活の根本に据えて、私が本当に役立ちたい人たちの役に立てるよう、自分の足腰をしっかり支えるのだ。

そういうふうに生きていくことが、私が生きたい人生だったのだ、と思う。

【AC】STEP10に到達すると12ステップ・プログラムはライフワークになる

「自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。」

 

STEP8と9をすすめてきて、謝らなければならないひとについて思い悩むことが少なくなってきた。

罪と過ちを認めること、その謝罪について真摯に考え形にすることによって、可視化されて切り離して眺めることができるようになってくる。

楽になってくると同時に、他のことに目がいきやすくなる。

自分自身の心の動きよりも他人の行動が気になったり、自分には変えられないものに心を囚われたり。

最近の私は少し驕っているように思う。

 

ステップ1〜9を振り返ってみよう。

  1. 私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
  2. 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
  3. 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
  4. 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
  5. 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
  6. こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
  7. 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
  8. 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
  9. その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。

引用;https://aca-japan.org/i/12steps.html

 

今までやってきたことを一度やっていればいいということではなかったのだ。

12ステップという新しい捉え方で世界を見て生きていくことを進めていこうとしているからこそ、私たちは繰り返し繰り返し棚卸しを繰り返して自分の考え方や生き方の癖を点検して、行動に移して行かなくてはならない。

理解したからすぐ生き方が変わるわけではない。

自転車を一度では乗りこなすことができないように。

何度も何度も転んでは起き上がり、トレーニングしなくてはならないものだったのだ。

私は今までステップを踏んできて、一度一巡すればいいと思っていた。それは大きな間違いだった。

 

STEP5と9;実践の重要性

棚卸しを実際に第三者に聞いてもらう5と9が特に重要だと感じる。

直接話せないこともあるかもしれないが、これこそOJTというか、自分の内的な変化を他の誰かに対して表出するという意味でとても重要なステップだと思う。

すなわち12ステップの実践である。

実際の自分の行動に反映して、反応の変化を実感する。

その経験により認知が補正されていき、STEP6・7で手放そうとしている性格の欠点(変えていきたい自分のとらえ方や考え方)を具体的に手放していくことが可能になっていく。

一度やったからといって回復するわけではないとは、結構衝撃だが、これには思い当たる節がある。

私は実際に行動を変えて、自分がいかに思い込みや被害妄想の中で生きていたかを実感してきたからだ。

 

謝罪に勇気を出して取り組んでみた。

自分の心が傷ついた時には相手に謝罪を求めてみた。

理解されないかもしれない自分の特性についてアサーティブに説明する努力をしてみた。

自分からは話しにくかったアルコール依存症や発達障害をオープンにする勇気を持ってみた。

 

全部、今までにはできなかったことで、12ステップに取り組んでから変えたこと。

それにより新しい結果を獲得した。理解してもらえないと思っていたことが受け入れられたり、謝罪を受け入れられたり。

逆に、信じて伝えて拒絶され、傷つくこともあった。

しかしそれらの実践と検証があって、12ステップで語られていることの真の意味や本質を、実感を伴って改めて捉え直すことができるようになった。

ステップを始めた頃よりも、内容を深く理解することにつながったと思う。

 

まとめ;12ステップがライフワークになるという生き方

慣れてくると、わかった気になる。

自分は回復していると思い込む。

もう大丈夫だと甘く見る。

そうして私は何度もスリップしてきた。

私は簡単に自分の無力さを忘れる。

コントロールできると思い込んで、巻き込み巻き込まれて失敗し、ふと気づくとまた蟻地獄のそこに堕ちている。

 

これで何度目だよ…と呆れて脱力する感覚。

自分にほとほと愛想が尽きる、あのイライラ感。

 

それらは今も変わらず、私のすぐそばにあるのだ。

いつも、いつでも、何度でも。棚卸しに向き合う。

それが唯一、苦々しい感覚をもたらす驕りを遠ざけて、謙虚に誠実に生きることを思い出させてくれる。

 

私はまだまだスタートラインに立ったばかりなのだと感じる。

そして、それはどれほどステップをやってきた人であっても変わらない。

皆、同じライフワークを愛する仲間なのだと思う。

12ステップが趣味だなんて、とても素敵ではないか。

【仕事】製薬会社の限界について考える

私は製薬会社で働いているのだが、どうにもこれはもうやばいな…と思っている。

先日会議に出てストレスがたまったので、割といろいろぶっちゃけてみようと思う。

 

自社の医薬品をいかにたくさん売るか?しか考えていない

大義名分としては「患者さんを第一に」とか言っているけれど、結局は売れればいいのである。

そういう下心をもっている人が多い。だからこそ人を見るプロである医師にも見抜かれていて、あまり信用されていないのがMR(製薬会社の営業みたいなもの)という職業である。

海外ではMRといえば医薬品のプロとして重宝され医師と並ぶほど社会的地位も高いのだが、この日本においては「医者のご機嫌取りをする金魚の糞」みたいな感じである。そして結局そういう前時代的な在り方が良しとされ、医療スタッフのみなさんからは「弁当屋さん」などと侮蔑の意味を込めて呼ばれてきた仕事だ。

なぜ弁当屋?と思うかもしれないが、製薬会社は勉強会のときなどに医師や看護師さんたちにいい気持ちで説明を聞いてもらおうと、せっせと弁当を運んでくるからだ。むしろ先生方からすれば「弁当をタダで食べたいからしつこいMRのために勉強会をやらせてやっている」という感じだ。

 

MRとはそもそも、営業というよりは、医薬情報を扱う担当者である。

MRの仕事は医療機関を訪問することにより、自社の医療用医薬品を中心とした医薬情報(医薬品およびその関連情報)を医療関係者(医師、歯科医師、薬剤師、看護師など)に提供し、医薬品の適正な使用と普及を図ること、使用された医薬品の有効性情報(効き目や効果的な使い方)や安全性情報(副作用など)を医療の現場から収集して報告すること、そして医療現場から得られた情報を正しい形で医療関係者にフィードバック(伝達)することなどを主な業務としています。

引用:公益社団法人MR認定センターHP

医薬品を適切に使ってもらうために、使い方や有効性・安全性などを伝達する人で、医療現場で副作用が起こった場合はその対応方法をすばやく伝達し、会社に報告して医薬品のリスクについて情報収集することを主としている。

売ることが目的とはどこにも書いていない。

だから、そもそも、優秀なMRでありたいのならば、きちんとそうした医療機関のニーズに対応できさえすれば、自社の医薬品が売れる必要はないのである。ボーナスが下がり、昇進できないだけで。

しかし、会社はせっかく開発したんだから高い薬価でたくさん売りたいし、それを元手に開発を進めて新しい薬を生み出さないと生きていけない。なぜなら薬を創っても、特許が切れたらやっすいジェネリック医薬品にとってかわられるからだ。常にいい薬を生み出し続けなくては生きていけない。

だから、会社はできるだけ売れるようにマーケティング部門や製品教育部門を動かす。

マーケティング部門は、できるだけたくさんの患者さんに投与してもらえるような患者さん像をイメージして、そのような患者さんに投与すると効果があると信じてもらえるようなデータを収集する。

そのような自社に都合がいいデータをうまく紹介できるようにMRを洗脳するべく、製品教育部門が社内研修を頑張る。それはしばしば偏っていて少々強引である。

洗脳されて「自社製品はこういう患者さんに投与されるべきなんだ」と信じ込んだMRが会社に教えられたとおりに先生に伝えに行く。

医師は内心『ああ、こいつは会社に洗脳されているんだな…でも会社からこれを言ってこいって言われてんだろうな…可哀想だからちょっとだけ聞いてやるか』という憐みの気持ちで話を聞き、あまりにもしつこいので「わかった、使ってみるよ」とMRが上司に報告するために言ってほしいであろう言葉をしぶしぶ伝えて早く帰ってもらおうとする。

こんなのが製薬会社の実情である。

新卒で入社する会社を選んでいるなら、製薬会社はやめておいたほうがいいと思う。

社内会議は売り上げで横並びに営業所やMRごとに比較される。なぜうまくいっていないのかをプレゼンさせられたり、うまくいっているように見えるMRが自慢げに、自分がいかに優秀かを、社内にアピールする。他人のオナニーを見せられるのは苦痛以外の何物でもない。

社内教育の時間も、無駄で長い。重箱の隅を楊枝でほじくるような質問を上から目線で製品教育部門の社員からされて嫌な気持ちになる。みんなの前で当てられて、答えられなければ「こんなこともわからないなんて」と高圧的な態度でさらし者にしてバカにしてくる。そういうプライドがエッフェル塔のように高い人たちがひしめいてマウントを取り合っている業界なのだ。

たまに「いやー…もうこれ可能性のレベルで絶対先生に話しても鼻で笑われるだけだよ」っていうデータを紹介してこいということがある。「なぜこのエビデンスレベルの低いデータをもとに処方提案をしなくてはならないのかわからない」と疑問を訴えても、「全社でそういう方針だから…」という謎の答えが返ってくる。だからなんなのだろう?答えになっていない。全く意味が分からない。

 

 

MR不要論はこのような製薬会社の傲慢さに起因する

そもそも、製薬会社が「よりたくさん売りたい」という欲を出すからこういうことになっているのだと思う。

私は正直、会社が提示する製品の価値やその裏付けのデータをあまり信じていない。それよりも、先生方の実臨床での経験や否定的な話をしっかり聞くようにしている。

 

 

学問的なエビデンスレベルのピラミッドはこのようになっていて、最強のデータはメタアナリシスやネットワークメタ解析だ。

その下に前向きのランダム化比較実験・二重盲検比較試験・コホート研究などがある。

学ぶべきは、この順番にどのような科学的根拠があるのか?そのなかで自社の医薬品はどのような位置づけなのか?という事実である。

ガイドラインや標準治療は常に新しいエビデンスにより改訂されていくので、今あるガイドラインが全てではないことは重々考慮すべきことだが、今推奨されている治療と照らし合わせて、自社の新薬を使った治療がどのような期待でどういう患者さんに投与されるかは、先生が決めることだ。

製薬会社が欲張ってたくさんの患者さんに投与されるようにコントロールするものではない。

創ったものをどう活かすかを相談しながら、安全性について教えていただきつつ慎重に一緒に治療のカスタマイズを進めていくべきであって、そのパートナーになるためにはフラットで実直で科学的な態度で臨まなくては信頼されない。

まさにこの、医師の製薬会社に対する不信。不振を招く不誠実な企業姿勢が、MR不要論を招いているように思う。

どの製薬会社も誠実に自社のデータやエビデンスを欲に目を眩まされずに紹介していて、伝えるべきリスクを的確に伝え、有効性・安全性の実臨床情報の収集を主とした活動をMRにお願いしていれば、話を聞いてもらうために弁当を用意する必要もないし、何百万もかけて講演会を企画する必要もない。

そもそも、私が患者なら「MRが頑張っているから」等という理由で処方薬を変える医師なんて主治医に選びたくない。

EBM(Evidence-Based Medicine)=科学的根拠に基づいた治療を真摯に実行している医師に診てほしいし、薬剤選択してほしい。どっかの製薬MRと癒着していて製品を贔屓にするような医師が選ぶ薬は飲みたくない。

だから結局マーケティング部門や製品教育部門がいくら社内を頑張って洗脳しようとも、それは社会的に見れば全く善い行いではないということだ。

良い部分はもちろん知らなくてはならない。いい薬なのに世の中で生かされないのは社会的損失だからだ。しかし、他社の薬のほうが優れている面があるのにそれを見て見ない振りをしたり、まるで遜色ないかのように印象操作しようとするのは間違っている。

そういうことをしない体で会社や社内では議論が行われているが、実態としては今も昔も変わっていない。その証拠に、まだ売上計画達成率でMRを評価している。MRの本分を求めるならば、副作用収集業務のコンスタントな実施報告や市販直後調査の伝達遂行率などが評価されているはずだ。そういう評価は全くない。副作用報告をしたことがないMRが昇進してマネージャーになるくらいだ。もはや終わっている。

 

まとめ:私はとにかく誠実に活動したいだけ

先生方を信頼し、コントロールを手放そうよ、と思う。

医師というのは、あんなにつまらない勉強を机にかじりついてやってまで、人の命に関わろうという高尚な精神の持ち主なのだから、きっとデータを見ればちゃんと理解してくれる。

そりゃあいろんな医者がいる。お金持ちになりたかったから。親が医者だからなりたくなかったけどなった。そんな先生もいて当たり前だろう。

だけど、もともと頭の回転が速いひとたちだ。プライドは多少高いかもしれないし、生育歴的にAC気質で共依存しやすい人もいるけど、誠実に真摯に話せば基本的にはちゃんとわかってくれる人たちである。患者さんの話を熱心に一日中聞いているだけあると思う。

だから、「こういう薬なんですけど、どういう人に効果を期待できそうですか?」「懸念に思われている点はどのような特性ですか?」というふうに、常に学ばせていただく姿勢で、先生の実臨床経験をもとに少しずつ無理のない範囲で役立ててもらうのが最も世の中にとって望ましいやり方だと思う。

だって私たちは患者さんに直接話ができるわけではないのだ。

患者さんと向き合っているのは先生なんだから。

その先生の経験を尊重しないで、何を尊重するというのか。

先生に「こう刷り込んでやろう」「こういう印象を持たせよう」などとコントロール欲求丸出しで接するから、信頼されないし要らないと言われるのだ。

おこがましい。こざかしいよ。

薬剤師と医師どちらが上とか下とかとかそんな小さい話をしているんではなくて、そもそも治療のサポートなんだよね、私たち製薬会社は。

治療って薬物治療だけではないし、むしろ薬物治療ってサポートで、本人が努力するものだ。本人が、治すものだ、病気というものは。治してやろうと思っている医師がいたとしたらそれは少し傲慢な考えだと思う。

みんな傲慢すぎるのです。

私は誠実に、ただ実直に、世の中に最もよいと私が思うことがしたい。

【メンタル】パワーゲームに疲れて苦しいときに読む話

私はよく「相手を暗にコントロールしようとする人」に出会うと、激しい怒りや憎しみを感じる。

残念なことに、仕事ではこうした人によく遭遇する。社内でも、社外でもだ。

ビジネスの世界は、パワーゲームだ。

高学歴・高収入を誇るような、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人がまさに総じてそういう小賢しさを持ち合わせている。徹底的にウマが合わずに苦労したものである。

彼らはパワーゲームで勝ってきたから、パワーゲームが大好きだ。勝てるフィールドに人は虜になる。そして己を見失う。

成功してきた彼らはその人生経験の裏付けも相まって、「自分の人生や他人の行動をコントロールできる」「他人にはなくても自分にはその力がある」「努力すれば自分は成功者になれる」という宗教的思想を信じて疑わない。

それは、その宗教を信じるに足る恩恵に彼らが恵まれてきたからなのだが、そのことに気づけない。全て自分の才覚や努力の賜物だと思って天狗になっている。実におめでたい。が、私も例に漏れず自惚れてきた。

様々な外部要因に恵まれていて、コントロールできているかのように錯覚できるだけの幸運の上に、私はあぐらをかいていたと言える。

そんな私のなかの小賢しさ・矮小さを改めてまざまざと見せつけられるような気がして、目を覆いたくなる。

ザワザワするのだ。

そんなかつての私のような、小賢しく信念に乏しいだけの‬輩に、今の私の真心が踏みにじられるのではないかという不安を抱えているから。

わかっていない未熟者にいいように翻弄されて、チャンスを潰され切なる願いが叶えられないのではないか、という恐怖から闘争本能が呼び覚まされ、怒りに目が眩む。ノルアドレナリンの為せる技だ。

 

コントロールと成果

これらの根幹は『コントロール』を手放せていないことだ。

結果をコントロールしたい。

状況をコントロールしたい。

相手をコントロールしたい。

そういうコントロールを手放せずに、過信する人たちと同じ土俵に乗ってしまうと、たちまち恐れや怒りに目が眩む。

 

畏れや怒りに目を眩まされるな

皆ただそれぞれがあるようにあるだけ

逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい

引用:『蟲師』3巻「眇の魚(すがめのうお)」より

 

本物には、ちゃんと本物が伝わる。

信頼は、愛に敏感だからだ。

実際、こざかしく立ち回っている他の社員は一見すると優秀で周りより得をしているように見えるが、長期的にみると結果的に私の方が成果が出ている現実が証明している。私はある程度顧客に信頼され、製品が採用され、適切に使われている。

私は本当に相手にとっていいと思うものしか勧めないし、相手の考え方を第一に優先する。決して押し付けたりしない。

あくまで「私はこう考えるんですが、どうでしょうか?」と率直に意見を伺う。

だから相手はおそらくコントロールされる恐怖を感じずに議論ができる。だから納得も否定もしやすい。

私は顧客に良い状態になってほしいと思って仕事をしている。それしか望まないようにしていて、それすら私だけではどうにもならないことを受け入れたいと願っている。

私にとって最も望ましい姿と、顧客にとって最も良い状態がイコールではないこともよく知っているし、それでいいと思っている。

真剣にやっている人は、本質的な情報に必ずやリーチする。それは、およそ人には関与できないほどの巨大な力(ハイヤーパワー)がその人自身にも私にもあるからだ。求めている人には、必ず求めているものが運ばれてくる。そういう風に世の中は出来ている。

つまり、小賢しい誰かの妨害ごときで真心が届かないような顧客には、今ここでは、私のサービスは必要じゃなかった、ということだ。まだ時期が早かったのかもしれない。

それは『変えられないもの』だ。

 

営業ができること

例えば、営業として私が出来ることは「常に、相手にとって望ましいと私が考える最善を準備しておくこと」。

それだけだ。

まさにタフラブの体現が、営業の最も洗練された在り方だと今は思う。

信じて見守り、肩代わりをしたりイネイブリングしたりしない。決して相手をコントロールしようとしない。一番遠回りに見えて、その遠回りこそが最短距離だった。

私ができること、望ましいと思うこと、その手段を、アイメッセージでわかりやすく明確に伝えること。それを伝えたうえで、判断は顧客の判断に任せる。

それは、顧客の在り方そのものを、何より信頼して任せているからだ。

必ずや、ハイヤーパワーに導かれて、彼らが今必要なものを掴み取るのだと、信じるからだ。その結果与えられるものが、私が今、与えられるべきものだ。

 

営業は、優秀であればあるほど、自分が無力であることを忘れがちだ。

「顧客はわかってないから分らせよう」

「こう言えば心理学的にはこう思い動くはず」

「この情報は不利になるから伏せよう」

こんな下心が働くのは、根本的なところで、相手を信じていないからだ。

「私がやり方や言い方を変えれば相手の未来を変えられる」。そう思い違いをしている。コントロールできると思っている。

残念ながら、それは虚しい妄想だった。

そんなことは神にすらできはしないのに、私たちはつい原因と結果を掌の中だけで考えて、自分の手柄のように錯覚してしまいがちだ。

掌ばかり凝視していることに気付いて見上げると、雲の上の、自分にはコントロールできない様々なモノたちのお陰で、今手中にある『成果』が形作られていることに気づく。

そして『成果』はたまたま、今私の手に落ち着いているが、私にはどうしようもない流れに沿って流動的に世の中を巡り巡るのだ、ということに気づく。

雨と川

だから、仕事の成果に一喜一憂することは、天気の変化に一喜一憂するような、そんな笑っちゃうようなことなのかもしれない。

限られた状況のなかで、最大限の自分にできることをする。そうしてできたものは、紛れもなく今の私の100%である。それ以上でもそれ以下でもない。

私は、変えられないものと変えられるものを見分ける賢さがほしい。

私は「もしもっと私が勉強していれば」とか「もしもっと会社がしっかりしていれば」とか、タラレバに囚われて後悔の底なし沼から抜け出せなくなる時が、よくある。

 

状況は変えられないもの。

未来は変えられないもの。

過去も変えられないもの。

「今ここ」のみが、変えられるもの。

そう、今ここだけだ、私が影響を及ぼせるのは。その積み重ねが道筋となる。

雨の一滴一滴が、川になり海にたどり着くように、一滴一滴に力など無いが、私は一滴として今日一日、今この時を全力で生きれば、それでもう100点満点なのだ。

それが私の預かり知らない、山の地形や、河口の形に沿ってゆっくりと流れていき、やがてあるべき姿へと落ち着いていく。

必ずや、そうあると信じること。

つまり。雨の一滴一滴が、自然の摂理を信じて疑わないようなことが、人としてハイヤーパワーを信じることなのかな、と思う。

実際生きてきて、私は会うべき人に逢い、するべき失敗をして、今ここに息をしているのだと思う。

それは、世間の常識とか倫理とか理論とか、そんなちっこいルールなんかよりもドッシリと、この世に根を張っているように感じる。その感覚からすると、一部の常識や理論をちょっとでも信じているなら、ハイヤーパワーこそ信じて当たり前のような気がしてくる。

 

私は一滴として、ただただ一生を、仕事を全うしたい

かなり脇道に逸れたが、私が言いたいことは概ねこういうことだ。

仕事人としての私は、所詮雨粒のひとつ。

たまたま他の雨粒から「周りより大きい」と言われたり、「素晴らしい雨粒だ」と言われたりしたとしても、雨粒は雨粒。一滴の力しかない。私は、それをいつも何度でも忘れてしまうから、出来るだけ忘れたくない。

山があるから流れられる。

川になるから流れられる。

一滴ではできないこと。

海があるから、また雲になる。

一滴に還ることができる。

そのあまりにも偉大な、私にはどうすることもできない力(ハイヤーパワー)を信じて、途方もない道のりはいつか海に開けるのだと、安心して肩の力を抜き、この身を委ねていたい。

個体の違いや優劣に、飽きもせず日々動揺し怒り悲しみ憎み苦しむ。そんな矮小な雨粒だけれども、一滴としてそういう全ての醜さを受け容れられたなら、と思う。

そんな雨の日の午後。

【依存症】なぜアディクトは他人の回復に過干渉してしまうのか?

アディクトは自助グループに繋がって少し経つと、周りをキョロキョロし始めるように思う。私も周囲が気になる時期があり、断酒日数を気にしたり、回復していることをアピールしたりしたくなる時期があったことを思い出す。

私が行っていたグループでは、古参メンバーの数人がやたらと新しく入院してきた人やスリップした人(私)に異常なまでに甲斐甲斐しいことがあった。

その構図に、同じ病の仲間の愛の美しさというより、私はある種の『気味の悪さ』を感じてきた。

この『気味の悪さ』の正体はなんなのだろうか?

 

共依存へのスライド

自助グループという名の鳥籠のなかですら、ヒエラルキーを作りたがる人がいる。

一度は社会で失敗し敗退したパワーゲームを、アディクトという同類のなかでゲームのやり直しをしようとするのだ。

それで、せっかく繋がった仲間が疲弊し精神を病んで離れていく。そんな光景はよく見てきた。

自分の自尊心を満たすために仲間を使っている。

それが愛なはずがない。

美しいはずがない。

もちろん、全ての自助グループがそんな阿鼻叫喚の釜茹で地獄と言っているわけではない。

アサーティブで健全なスポンサーシップに基づいて、各々の回復に向かうグループが殆どだろう。

しかし、依存対象がスライドしていることに気づかないで『自分は回復者だ』と自負する人は、一定数存在する。

12ステップ・プログラムを共に進めている人と話していて「依存症者は、依存対象をやめても共依存にスライドする傾向があるのではないか」という言説にいたく共感した。

他人の問題(しかもこちらが勝手に問題視しているだけ)にばかり目が向くときは、大抵、自分自身の回復から目を背けているときであり、自覚するのはとても難しい。

知らず知らずのうちに、アディクションの対象が、物質やプロセスへの依存から共依存にシフトしているのだ。

実は生きづらさの根本はそのままであることに、本人だけが気づいていない。

 

ジャッジとコントロール

では、生きづらさの根本とは何なのだろうか?

「正しさ」の物差しの呪縛にとらわれて、自分自身の無力を真の意味で受け容れられていないことだと思う。

ジャッジしたがるという心理はそういうことだ。

「私が正しいのだから、私の言うことを聞いて当たり前だ。」

「私はステップをこの人より先に始め先に進んでいるはずだから、私の方が回復していて当然だ。」

こんな心の正体を深掘りしていくと、結局『結果』へのこだわりが手放せていないのだとわかる。

自分を他人と比較して優れていることを確認したいのは、安心したいから。正しさを武器に他人の境界線を侵略し、コントロールしようとしているからだ。

それはまだ12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力を認める」がまだ未達成な状態と言えるのではないだろうか。

私たちはそのように「コントロールできる」と信じて、尽くコントロールできてこなかった事実を受け容れたはずなのに、気づけば形を変えて同じことを繰り返してはいないか。

12ステップ・プログラムのステップ12をやっているからといって、他のアディクトより前に進んでいるわけではない。

自分自身の棚卸しを続け、間違った時は直ちにそれを認めた。』というステップ10にある通り、繰り返し棚卸しを続け、原点に常に立ち返る謙虚さを忘れてはならない。

変えられるものは、自分の行動のみ。

つまり私たちにできることは、この日々の棚卸しと埋め合わせをきちんと行うことだけだ。

そもそもバックグラウンドや生きてきた道筋が異なる以上、回復は比較できないことだし比較する意味もないことだ。

依存症の専門知識やステップの経験を笠に着て、経験が浅い人を見縊るのは、今まで自分がされて嫌だった『ジャッジ』を他人に押し付けている。

ジャッジしてマウントを取りたがるのは、心の奥底にまだ不安や焦りがあるからだ。

「自分の本当の本当を、掴んでいないのではないか?これで本当に回復しているのか?」

そういう不安から目を逸らし見て見ぬ振りをするために、心が他人に目移りしている。

 

自分自身の回復がすべて

回復の度合いを比べたりジャッジしたりするメンバーがいる自助グループが、グループ全体の安寧秩序を維持できているはずがない。

ひとことで言えば、自分自身の回復が主軸ではなくなると、自分のみならず周囲にも悪影響なのだということだ。

何をもってしても自分の回復こそが主題である。それだけが主題である。

自分自身の回復に向き合うために、様々な自助グループがある。

他人の回復の促進(そんなことはできないが)や、メンバーとしてグループの役に立つことが、自助グループに参加する目的になってはならない。

他人に影響を及ぼすことに傾注するのは、もはや『嗜癖』だと自覚しよう。

正しさで他人をぶん殴るそれは、暴力だ。暴力を嗜癖にしてる。それは自分がまだ自分自身に向き合えていないからだと自認しよう。

他人より自分の人生に目を向けよう。

私が思う正しさは『自分の世界』という小さい世界での正しさだ。万国共通じゃない。

ついつい同じように依存に苦しんできた仲間と自分を同一視しがちだし、同じなら理解し合えるはずと思いがちだ。

論理が飛躍してしまっている。

相手をそのまま見て、相手の話をあるがままに聞いていない。

勝手に期待して、裏切られたと感じる。

相手も、自分の生きていく道筋すら、私には変えられないものなのに、共通項に目を奪われて、すぐに自他の境界線が曖昧になる。

私も例に漏れずやっぱり共依存的だなと思う。

 

あとがき

今いる自助グループが肌に合わないと思ったら、他のグループに顔を出してみるのも手だということは、アディクションに悩む仲間には覚えておいてほしい。

変えられないものを受け入れる落ち着きを。 変えられるものを変える勇気を。 その二つを見極める賢さを。 とは、先人達によりよく咀嚼し吟味された言の葉だな、と痛感する。