月別アーカイブ: 2020年5月

【AC】私は誰にも愛されていないと感じる心理について

私は、自分のことを差し置いてでも、という献身的な愛にすごく憧れがあり、愛の深さを私に試されて、相手が試練や痛みに歪む顔にドキドキしたりします。

私の親は、私を「愛している」と言っていたし、たしかに愛していたのかもしれない。

けれどそれ以上に、彼らは自分自身の欲や価値観のほうが優っていて、無意識に優先してきたと感じます。

「いい子に育てて親として優れていたい」

「自分の人生の反省を子供でやり直ししたい」

というような欲求を優先して、私そのものを見ていませんでした。

彼らは「愛している」という言葉を隠れ蓑にしてコントロールしようとしました。

 

だから私は、誰かから愛についていくら言葉を尽くして言われても、うまく信用できないのだと思います。

身がちぎれるほどの痛みに耐えて大事にしてくれることに愛を実感するし、そうした献身的な愛に憧れを抱くんだな、と思います。

 

自分を振り返ると、他ならぬ私こそ、自分のことしか考えていなくて、自分のことだけで精一杯の状態だったことに、気づきます。

親と同じだった、相手を見ていなかった。

自分のために他人を使うことばかりに心を砕いてきたのです。

私こそ親と同じように自分しか見えていないから、他人の言葉を信じられなかったのだと思います。

だって、私のことしか見えていない私がいう「愛している」は、親と同じ嘘だから。自分がそうだから、他人のもそうだろう、としか想像できず、偽りだと考えるのです。

 

では、私の心は、100%利己的な私の欲望だけで構成される、卑しい塊なのだろうか?

というと、そうでもなくて、見ず知らずの道に迷って困っている人に小銭をあげたり、大好きな人にただ料理を作り一緒に食べたいと思ったりします。

全てあげるつもりで、自分の愛が受け取られなくても差し出す心を持っています。

 

だから、私が私に対する配慮に最も比重を置いたとしても、誰かを愛していないわけじゃなく、それがむしろ健全な状態なのではないでしょうか。

自分を打ち捨て相手のために身も心も差し出す献身は、愛というより異常で病的な依存状態からくるものなんじゃないか?

実際そういう献身は経験上長続きしなかったし、見返りを求めるようになってしまって、結局破綻してきました。

つまり、私が思い描いて憧れていた献身は愛ではなかったということです。妄想のなかの現実には存在しないものでした。

現実には存在しない陽炎を追いかけて、ありもしないモノを必死に探して「ない、ない、どこにもない!」と思って嘆いていたように思います。

 

末永く健全に他人を愛するためには、まず自分が自分の足でしっかりと立っていなければならない。

そのためには、自分を慈しみ愛でて心も体も健康であるように尊重しなくてはならない。

ということは、何をおいても私は私を一番に大事にしなくてはならないし、それでいいのです。

むしろ、それがいい。

それこそベストなんだと思います。

そう考えると、今まで接してきてくれた人たちの優しさや真心は、理想と比べるとあまりにも小さく感じたけれど、たしかに愛だったように思い返されます。

なぜなら、自分自身が掛け値なく今まで与えてきた好意や愛情と同じだから。

自分が他人に無理なく渡してきた愛情を自覚すると、小さくみえていた他人の同じような愛情を受け取れる。

結局人はみな自分が一番かわいくて、他人を自分以上に大事にすることはないのです。

だけど、そうでなくては本当に他人を愛することもできないのかも、と思ったりします。

 

私は自分自身が大事じゃない時期の方が長かったので、こんな自分より他人の幸せを優先するべきなのではないか、という感覚でした。

自分を蔑ろにすることで私は苦しんでいるという声なき声を上げていたのだろうと思うのですが、自分で自分を粗末に扱った結果、自分の存在価値はゴミ以下だと信じ込むようになりました。

己肯定感の低さが、そんな自分自身の大事さを小さく見せました。

他人がその人自身を私より大切にすることにショックを受けるのはこのためです。

大事な誰かが私よりその人自身を優先するのは、立場を替えると「私が、ゴミ以下だと思っている自分より、その人を大事にしない」ということであり、結論として『私の価値はその人にとってゴミ以下よりもゴミ』と判断されたことになります。そのような思考で絶望を感じていて、誰にも愛されていないと考えるのです。

私が思い描いていた愛は幻で、もっと身近にたくさんあったんじゃないかな、と思います。

当時は見えなかったし、受け取られなかったけど…。

と最近感じるという話でした。

【AC】自分を許せないから他人を許せない:Step8「傷つけた人」その⑦『会社の同僚』

私は新人のとき「仕事」だけが、社会と自分を繋げる唯一の命綱だった。

だから、仕事を命を賭してやるべきものだと考えていたし、他の何を犠牲にしても達成するべきものだと思ってきた。

 

私の狭い世界のなかでの正義

まさに毎日が仕事一辺倒であった。

寝ても覚めても仕事。プライベートはスキルアップのためにある時間でしかなかった。

楽しいことは何もなかった。

夜は酒でラリって現実逃避するだけだった。

そんな毎日を送っていた。決して幸せではなかった。

 

家庭を大事にしている先輩でSさんというひとがいた。

いつも「17:30が定時だから」と仕事もそこそこに帰っていった。

幸せそうに見えるSさんが憎かった。

同時に、私はSさんを見下していた。

「仕事も満足にできないで、何が家族だ?寝言は寝て言えよ。」

大真面目にそう思っていた。

取るに足らない、尊重する価値もない、「できないやつ」として見下していた。

先輩としての敬意を払わないばかりか、人としての価値も低いのでないがしろにしていいと思っていた。

それは、とんでもない思い違いだった、と今深く反省している。

 

当時私は終電で帰るか、帰れなければ寝袋で事務所に泊まった。

二日酔いで体調の悪い体を引きずり、執念でPCにかじりついていた。

眠れないことが増え、毎晩寝酒をあおり、ブラックアウトするまで飲んで気絶した。明けがたトイレで起きたときにワサビをチューブごと口にねじ込んで辛さの刺激で目を覚ましたりした。ほぼ狂っていたと思う。

そんな私にとって、定時に帰ることが、逆に狂気の沙汰だった。

 

私は仕事ができて承認欲求が満たされるから、そういう生活をしていた、というわけではない。むしろ逆だった。

生きていることに対する劣等感に押しつぶされそうだった。

学生から社会人になり、勉強とは違って仕事は自分ではうまくマネジメントできないことに悩んでいた。上司や同僚からはできないことを嗤いながらバカにされ続けた。そんな屈辱の新人時代を過ごしてきて、なかば強迫性障害に近い思考を獲得した。

仕事は完璧にしておかなくてはならないと思い込んでいた。

そうでなければ、コケにされバカにされる。

そうでなければ、必要がないと言われ、居場所がなくなる。

やりたいわけじゃない。やりたいわけがない。仕事なんて本当は大嫌いだ。働かなくてお金が入るなら絶対に働くものか。群れたくもない人間と群れ、言いたくないことを言い。そんな毎日、あんな拷問みたいな毎日を過ごしたいわけがない。

前向きに仕事をしているわけではなかった。否定されジャッジされるからだった。社会的に殺されるのが嫌で、ほんとうに嫌々やっていたのだ。

 

驚くべきことだが、そのことに当時は全く気づいていなかった。

 

なぜか?

「私は我慢している」ということも認識できていなかったからだった。

『相手も我慢するべき』という私の正義を押し付けていたことに気づいていなかった。

不公平だと思っていた。

私は死ぬほど嫌なことを「仕事だから」「結果を出さなければならないから」「そういうものだと言われて馬鹿にされるから」我慢してやっているのに、なんでそれに縛られずに大切なものを大切にして生きていける人がいるのか。憎んでいたし、納得できなかった。

 

自家製の勝手に定めたルール

しかし、それは、本当に我慢しなければならないことだったのだろうか?

 

仕事だったら、絶対にやらなければならない?

結果を出さないと存在を否定される?

完璧にやらなければ馬鹿にされる?

 

そうではない、と今では思う。

仕事をどの程度やるかは、雇用契約の条件を満たしている範囲なら、本当は労働者側で選べる。絶対にやらなくてはならないのでは、奴隷と同じだ。体ごと高値で買い取ってもらわなくては割に合わない。

結果を出さないと組織から評価はされないだろう。が、それを理由に、尊厳ある個人として生きていることを否定したり、今までの人生や努力を否定したりするのは、モラハラやパワハラだ。個人の尊厳を踏みにじる個人や組織、つまり相手に問題がある。

結果は努力と正の相関ではない。だから、結果が出ないのは努力不足とイコールとは限らない。様々な不確定要素が混在するこの世界で、たまたまその人のもとに訪れたものに過ぎない。結果だけで人を評価することそのものが、あいまいで人を測る指標とするにはあまりにも心もとない。つまり、そんな心もとない指標で人の価値は判断されない。だから結果が出せなくても生きていることを否定される筋合いはない。

完璧にやらないとバカにされる、という思い込みも、自分がそう思い込んでいるというだけだ。

他の人にはできなくても「私なら完璧にできる」「私ならコントロールできる」と思い込む傲慢で不遜な自分がそう見せている。できない他人をバカにしたり、できていない自分を責める心が生まれるのは、いつも自分の心の底からだ。

だから、たとえば私が誰かに馬鹿にされても、そのバカにしてきた相手が心に問題を抱えているだけ。コントロールを手放せていない人だから、そう見えているという相手の問題。

だから、これもバカにされたって自分が悪いのではなく、他人の見方が歪んでいるということが事実。

 

ほら、やっぱりそんなことはなかったよね。

 

つまり、私が信じてきた恐怖や焦りや不安は、全部幻だった。

勝手に私自身が、私自身を縛ってきたルール。自家製の勝手に定めたルール。

それに自分をあてはめ、他人をあてはめていたから苦しかったのだ。

これに気づいて、ホッとすると同時に、私は恥ずかしくて死にそうになっている。

 

まとめ:自分を許せないから他人を許せない

私は、当時私がとっていた、Sさんに対する態度を謝罪したい。

SさんにはSさんの人生観があり、大切にしたいものの順序があり、それは尊重するべきものだった。私のものさしで価値を図ることなど、傲慢で卑しいことだった。

自分がされて嫌だったことを、Sさんに対してやっていた。私はそんな弱い人間だった。

自分の思い込みで定めたルールで勝手に人を裁き、ジャッジして、Sさんを見くびったことは、Sさんの尊厳を傷つける行動に繋がったし、それは他でもない私自身を大切にしない行動だった、と深く反省している。

Sさんが好きなものや大切にしているものを鼻で笑ってバカにする権利は私にはなかった。

そうした態度を取る私に対して「お前偉そうなんだよ、ナメるのもいい加減にしろよ」と彼が怒ったのは、無理もないことだった。

申し訳なかった。すべては私の未熟さゆえの、世界の見方の歪みがあったと思う。

こうした見方ではなく、お互いに大切なものを尊重できる在り方であったなら、もっと快適で幸せな信頼関係が築けたのに、少なくとも私が手を差し伸べなかったことは間違いない。

 

同じことを繰り返したくない。

私は、12ステップ・プログラムに継続して取り組み続けることを通じて、自分の思い込みで定めたルールについてこれからも点検し続けていく。

私の報われなかった気持ちも大切にして、ちゃんと感じたいと思う。

自分の本当の気持ちを真っすぐ受け取らなければ、認知の歪みに気づくことは不可能だからだ。その勇気を持ちたいと思う。

向き合う勇気を持てるかどうかについて、私は無力であることを知っている。

これからも無力であることに変わりなく、私はそれをコントロールしようとせず、天にお任せしたい。しかるべき時に訪れるだろう、世界はそういう風にできている。

そのためしかるべき時を迎えるために必要な努力をすべてする、ということについて、私は誠心誠意取り組みたい。

そういう覚悟をもって、日々向き合い続けていきたい。

他人を許せない気持ちを抱えているときは、自分のルールで他人を縛っていないか点検する必要がある。

【AC】他人の言葉が気になりイライラする人の深層心理

私は結構、他人に言われたことにショックを受ける。

なぜか、いつもマウントを取られているような気持ちになる。

それにイラっとして攻撃的な反応をしてしまうと、相手も戦闘態勢に入ってしまい、最終的に味方であったはずなのに対峙する形になることがある。

 

「正しさ」に囚われていないか?

 

私はそうしたとき、自分の心が不安定であることが多い。

落ち着いて振り返ってみれば、相手は好意的に接してくれていたのに、受け取る私の心がざわついていて歪んで受け取っていることがある。

なぜだろうか?

それは私が「正しくないことをしている」という心の引っ掛かりがあるからだ。

「あなたは正しくない」とその人に責められるのではないか?と思うと、ついつい身を固くしがちだ。攻撃されるのではないか、と身構えてしまうからだ。

 

それは何よりも、私自身が正しさに縛られていることに起因している。

 

今まで、我々ACは正しくないと他人に、親にすら認めてもらえなかったのではないだろうか。

成果が出なくては意味がないと教えられ、素直な気持ちを話せば言い訳と言われて受け取ってもらえなかったのではないだろうか。

あらゆる人からジャッジされることは地獄だ。その地獄を生きてきて、私たちはすっかり親が押し付けてきた、ある意味憎んですらいるライフスキルを獲得してしまったように思う。

そのライフスキルこそが、「正しさでジャッジする」ということである。

 

 

イライラするのは、傷つかないために想像しているから

 

傲慢になっている。偏見を持っている。見ている景色が歪んでいる。

私が疑心暗鬼に陥っているとき、端的に言えばそのような状態だといえるだろう。

 

私は見たいものを見ているのだろうか?

いやいや、他人が攻撃してくることなんて想像したくないし見たくないはずだ、と思っていた。

が、実際は、私は恐れていて、積極的に想像している。

予行演習しなくては心の痛みに耐えられないので、予め最悪を想定しているのだ。

それを私が選んで、望んでいるのである。

 

その想像上の、他でもない自分自身で創り上げた「常に攻撃してくる他人像」との攻防を四六時中想定して理論武装している。頭のなかはいつも絶賛交戦中になる。

いつも頭のなかでは、誰かが私を責めていて、「私は悪くない」「私は間違ってない」と正しさで応戦しなくてはならない精神世界に自ら飛び込んでいっているのだ。

現実には、誰も責めていないし、何も起こっていないのに。

 

傷つかないために自分を守るつもりが、自分が最も自分を傷つけている。

そのことに、私たちは気づかなければならない。

そして、そのライフスキルはACとして苦しい時期を生き抜くには必要であったが、今はすでに必要がなくなり、手放してもいいものなんだ、ということを認識しなくてはならない。

 

まとめ:他人の言葉が気になるときは、事実を確認してみよう

私はこうした疑心暗鬼に陥っている感覚があるときは、落ち着いて事実を確認することが重要だと思う。

・実際に相手に言われた言葉

・実際に相手がした行動

これらをひとつひとつ書き出してみる。

そのまま書き出すことが重要である。「~という意味で言ったのではないか?」などの自分の憶測を一切省いて、事実だけを書きだす。

そしてすべて書き出した後、1日以上置いて、全く関係のない第三者と一緒に客観的に紙に書いてある内容を改めて眺めてみる。

自分が「何に対して」傷ついたのか?を確認する。

私が思い込んでいることなのか、実際に尊厳を傷つける言葉や行動だったのか。

思い込んでいることに起因するなら、何か「自分が正しくないかもしれない」という引っ掛かりをその人に関連して持っていないか点検する。

そうやって認知の歪みを解きほぐしていくと、ふと視界が拓けることがある。

私たちはACとして生きてきて、頼りたかった他人に攻撃されてきたので、その痛みに備えないといけない哀しい状況があった。

その状況について、当時の私たちは悪くなかったと思う。精一杯やっていたと思う。

そうして当時の私たちを自分自身が許してあげて、正しさから解放してあげたい。

それが他人とアサーティブな関係を築くために重要な土台になると感じている。

【依存症】私を許さないでいてくれて、ありがとう。

私の酒害について、今日新たな気づきを得たので、棚卸しします。

「偽りの謝罪をぶつけて、相手から『許し』を強奪しようとしたことも、酒害の一種だったんだな」という気づきを得ました。

 

 

私はまだ断酒していない時期や、やめてすぐ(断酒から6ヵ月に満たない)の時期、自分が罪悪感から楽になるために、許してもらって楽になりたくて、よく偽りの謝罪をしました。

相手が許してくれないことに憤慨して「こんなに謝ってるのに許してくれない相手が悪い」「他にどうしろというんだ」などという気持ちを持ちました。

荒れ狂いました。

本当に、自分のことしか考えていなかったと思います。相手がどんな気持ちだったか、自分が何をしたのか、そういう事実にまだちゃんと想像が及んでいませんでした。

とにかく苦しいから罪悪感を取り払いたくて顔色を窺いながら謝りました。「もうわかったよ」「今回だけだよ」そんな言葉を期待して、引き出そうとしていただけでした。

つまり、あれは謝罪ではありませんでした。

自分が楽になるために相手をコントロールしようとしていました。

償うことができないなら、謝る意味がない、と考えていました。『自分にとって』意味がないからです。許してくれないなら、謝ることは無駄だと思っていたのです。

それは、私が相手のことではなく、自分のことだけを考えていたことの証明です。

 

そして、そういう私の謝罪は、軒並み受け取られませんでした。

私は、今は、それを感謝しています。もし偽りの謝罪で許された気になっていたら、また同じことをして、他人を傷つけて、その埋め合わせをしないまま、また自分のためだけに許しを引き出そうと偽りの謝罪をしたことでしょう。それを繰り返していたことでしょう。

受け取ってもらえないから、必死で考えたのです。

なぜ許されないのか。

何をしたからなのか。

答えは明白でした。

酒でした。

「酒を飲んでいる限り、誰に何を言っても、話を聞いてもらうことすらできないんだ。酒を飲んでいる自分は、とにかくダメなんだ。それに、酒をただ飲まないだけじゃなく、何が原因で私はこんなに酒に狂ったのかを、真正面から見据えて考え続けなければダメなんだ。」

これに気づくためには、私には許してほしい相手にことごとく拒絶されることが必要でした。

謝罪すら言わせてもらえないことが、必要でした。

今更、もう全てが遅い。許してもらうことなんて期待できない。でも、それでも謝る意味は何なのか?そう考えてはじめて、私が相手に謝罪する意味が見えてきました。

自分の保身や安心のためだけではない、他人の心の傷の埋め合わせのために謝罪をするべきでした。

私は、受け取られずとも、出来ることならしたいと思いました。

なぜなら、これからは自分の気持ちを大事にしたいし、それと同じように他人の気持ちを大事にしたいからです。

 

振り返ってみて、そう思えたのは、周りが率直に飲酒している私を忌み嫌ったからでした。

爪弾きにし、無視するようになって、様々なものを実際にポロポロと手から零れ落ちる『現実』を、真っ直ぐ与えてくれたからでした。

ステップ8をやっていて、やっと今、そういう気持ちです。

 

私は感謝します。

私の飲酒を、酒害を、偽りの謝罪を、拒絶してくださり、ありがとうございました。

あなた方には、許したことにして私に対して貸しを作り、何か不都合なことがあった際に持ち出して「あなたをあのとき許してやったのに」と私を黙らせ、従わせることができました。つまり、恩を着せて私をコントロールする共依存的な選択肢もありました。

そうすれば、私を支配下に置いて、優位に事を進めることができました。その方が、その瞬間は得をするし楽だったかもしれません。

この選択肢は、私の回復はもちろん、あなた方自身の回復にも陰を落とさせる道につながります。だから、その道を選ばないでいてくれてありがとう、と言いたい。

私なんかには言いにくいであろう、拒絶の言葉を与えてくれて、ありがとうございました。私はそのおかげで、現実を知るチャンスを頂きました。

私を許さないでいてくれて、ありがとう。

人気ブログランキングへ

【ヘルスケア】無料!2~5分間!ストレス解消!おススメ自宅ワークアウト4選(+おまけ)

在宅勤務やテレワークが長くなり、家にずっといると煮詰まってきてなんだか疲れちゃいます。

お子さんがいる家庭では、今は特に大変ですよね。

・子供の世話をしなくてはならない

・料理も作らないといけないから時間がない

・家のことが忙しくても在宅勤務で仕事もいつも通りこなさなくてはならない

・気晴らししようにも気楽に外出したり、子供を預けたりできない

・ストレスと寝不足でご飯食べるぐらいしか娯楽がない

こんな状況でダイエットなんて無理!って思いますよね。

私も同じで、ウエイトトレーニングはやっていましたが、そればかりやって有酸素運動をおろそかにしていたせいで、80kgから88kgに太ってしまいました。

これはまずい!ということで、様々なトレーニングを試しました。

 

私がたどり着いたのは、YouTubeで無料で動画を観ながら簡単にでき、数分で終わるワークアウトを、できるときに無理なくやるという方法でした

「子供がいて在宅勤務や家事に忙しくても中断せずやり切れる所要時間」で「脂肪燃焼効果があり器具のない家庭でもやりやすい内容」のおススメトレーニングをいくつかご紹介したいと思います。

「あ、今できる!」というすきま時間(子供のお昼寝中・早朝誰も起きていないとき・皆が寝静まった深夜)におすすめだし、「どうしても気持ち的に、今すぐやりたい!」っていうときにも、5分以内なら、家族が何かでわめき散らし騒いでいてもなんとかトレーニングできます。

これなら中断しなくていいし、最後までできるし、ストレスにならないと気づきました。

【地獄の5分】HIITトレーニング(ノーマル)

まずはこれが手っ取り早いです。

飛んだり跳ねたりしないので、騒音が気になるマンションでもできます。

「HIIT」とは「High-Intensity Interval Training(ハイ・インテンシティ・インターバル・トレーニング)」の略。いわゆる高強度インターバルトレーニングを指します。インターバルトレーニングとは、高負荷の運動と低負荷の運動を交互に入れること。それの強度をぐんと高めたものがHIITなのです。

HIITトレーニングは以下のメリットがあり、私はいつもこれを最初にやります。

・短期集中で効果が表れる
・一般的な有酸素運動の数倍とされる脂肪減少効果をもつ
・心肺機能の強化、筋力アップなどにも効果あり

 

【地獄の3分】腹筋ワークアウト

これが一番短いし、お腹周りを引き締めるのに効果的なワークアウトが、いい感じに組み合わさっています。

腹筋と背筋は体を支える重要な筋肉なので、バランスよく体を引き締めるためには押さえておきたいところです。

しかも3分!これならちょっとした時間にできます。

 

【地獄の3分】背筋ワークアウト

腹筋の次は背筋です。

これ結構私はしんどかったです。もともと体も硬いせいか、全然上がりません。背筋の衰えを実感します。背中って意外に鍛えられていなかったんだな、と思い知る3分です。

これのおかげは、4週間たった今、私は腰痛と肩こりが楽になりました。

 

【地獄の2分】本気のスクワット(食欲を抑える)

食事の前にやるといい感じです。

毎食前にやるのはきついかもしれません。足の筋肉は大きいので、鍛えれば効率よく痩せられて、おすすめです。私は子供(10kg)を抱っこしながらやっていますが、子供をあやせてちょうどいいので、パパさんはぜひママさんと一緒にPCやスマホで流しながら一緒にトライしてみてください。

 

そして…

今までの全部やってみたけど、こんなの軽くてトレーニングにならない、全然物足りない!というストイックなひとへの追加メニューがこちら!

【超地獄の3分】HIITトレーニング(ハード)

HIITトレーニングの上級編です。上記に加えてこの3分をやり切れば、かなりの運動量になります。

今まで定期的に運動をしていた人におすすめです。小・中学生で体力があり余ったお子さんがいるなら、一緒に体力の続く限りリピートするサバイバルモードで勝負を持ち掛けて、限界に挑戦してみるのもいいかもしれません。

 

【男性向けの3分】二の腕を強く逞しくする自重トレ

ただ腕立て伏せするだけでは物足りなかったので、このトレーニングをやっています。

ジムでバーベルやケーブルマシンを使って鍛えていたけれど、家には器具が何もない・・・と悲しみに暮れている男性におすすめです。

見た目以上にシンドイです。

 

 

まとめ:数分なら何とかなる

有酸素運動なら30分しないと…とか思うと、すごく気が重いし、そんな時間取れないし、ストレスたまりますよね。

数分のワークアウトを、やれるとき・やりたいときにすぐやる!

これが、最もストレスなく確実にできることだと分かりました。

緊急事態宣言が一部解除になり、これから新しい生活様式での生活がスタンダードになっていったとき、お金をかけずに自らのフィジカルを保てるスキルはますます重要になっていくでしょう。

私も今ある中でできる事を探して、また皆さんにご紹介できるようなものが生まれればいいなと思います。

【AC】Step8「傷つけた人」その⑤『会社の上層部の人々』

step8.傷つけた人の棚卸しです。

 

頭の中の厳しい自分の声

私は自分に厳しい。

強迫性障害の診断が下ったこともある。強迫的に自分を追い詰める性質がある。

たとえば、仕事。

私は何かやるべきことが生まれると、頭のなかでもう1人の自分が私を罵倒し始める。

「さあ早くやれ!まだ終わらないのか?本気でやる気あるなら徹夜でもなんでも仕上げられるだろ?やる気ないだけじゃん、口だけならやめちまえよ」

「お前に能力がないから、時間がかかって、救える人も救えなくなるんだよ。代わって貰えば?役立たず」

などという言葉が頭の中をグルグル回る。

焦り、苛立ち、半ば狂気に駆られるように仕事を終わらせる。

私はとにかく仕事を、早く質が高い状態でやらなければならない、と思い込んでいたし、今もその思考の歪みからパニック状態に陥りやすい。

 

なぜ追い詰められるのか?

なぜ、そのように強迫的に自分を追い詰めるのだろうか?

誰にも何も急かされていないのに、どうして焦るのか?

それは、私の新人時代を振り返ると少し紐解ける。

私はベンチャー企業に就職した。

当時新人の私は手探りで仕事をしていた。

上司は厳しい人だった。

頭のなかで響いている自分の声の発言は、ほぼそのときに上司から言われたセリフそのままだ。

見積の作りが甘いとクシャクシャにして投げつけられた。報告が要領を得ないときは「何語喋ってんだよ?日本語勉強してきたら?」と半笑いで馬鹿にされた。

仕事がうまくできない。やり方がわからない。自分より学歴が低い、よくわからない中年のおじさんに馬鹿にされる。「偏差値もスポーツも他人より優秀でなくてはならない」と両親によって洗脳されてきた私にとって、社会人になりたての頃は砂を噛むような毎日だった。

こんな自分でいたくない。屈辱で噛んだ唇から血が滲む。しかしこんな自分をなんとかしなくてはならない。

ルールだ。社会人には社会人のルールがある。それを守ればまたちゃんとできるはずだ。

私は社会人としての基本動作を徹底的に上司から学ぶことに専念した。どれだけ馬鹿にされても黙って行動で示し続けた。

ダメな自分から生まれ変わるにはそれしかないと思った。

こうして、私は社会人とはちゃんと仕事のルールに沿って動けない奴はゴミどころか寄生虫であり、いてはいけない人間だと思い込んでいった。

同時に、飲んだ煮え湯を胃に蓄え、内腑にグツグツと燃え滾る憎しみを溜め込んでいった。

歪んだ憎悪に支配される

そんな上司を見返したくて、仕事は即日やれるところまで何があろうとやった。

疲れたとかやる気がないなんて全てできない言い訳と自分の気持ちを切り捨てた。

やれるかどうかじゃない、やるか、やらないかだ。

そうやって、私は自分にどんどん厳しくなった。

やれることを最速でやるので成果がみるみる上がるようになり、当時いたベンチャー企業に見切りをつけて異業種の企業に転職した。

転職した異業種では、今までとはやり方が全然違い、一からやらなくてはならなかった。

しかし、即戦力として期待され入社した私は、分からないというのがすごく怖かった。

また、新人時代みたいにコケにされたくない。

そんな思いをしたくなくて頑張ってきたのに。

そうやって殻にこもり、気がついたら取り返しのつかない失敗をして、アルコール依存症とうつを併発していた。

再び叩きのめされ、地に落ちた。新人以下に降格され、また煮え湯を飲む日々が始まった。這いつくばって耐えた。

再び這い上がってきたとき、「会社」や「上司」や「仕事」に対する憎しみは深く重く私の精神にのしかかり、私を支配していた。

 

正しさに囚われた怒り

「私を2度も精神的に殺したのだ。

お前たちは正しくなければ嘘だ。

なぜなら、正しくないのに私をコケにしたり寄生虫扱いするのは、道理が通らないからだ。

打っていいのは、打たれる覚悟のある奴だけだ。

つまり、お前らは覚悟しているはずだ。私に打たれて死んで、同じ煮え湯を飲むことになっても、それを覚悟の上で私を打ったのだから、よもや恨むまい。

さあ、力の限り復讐してやる。

私をコケにしてきたことを泣いて詫びるがいい。私はミスしない。お前にもミスさせない。今までと同じ煮え湯を浴びるほど飲ませてやる。」

 

こんな気持ちで仕事をしていた。

当然、上層部の理屈に合わない話は全て理論武装して叩き潰しにかかった。

会議で意気揚々と発表しようものなら、質問という名の糾弾で、二の句を告げなくさせようと躍起になった。

上司も上層部も、私が攻撃していない同僚すら、私を警戒する様になっていった。

私が参加する会議はいつも嫌な緊張がはしり、私が口を開くと皆が黙った。

 

私はこんなことがしたかったのだろうか。

今まで正しさを押し付けてきた階層の人たちを正しさで黙らせるのは、何とも言えない快感があった。私は怒りに耽溺していた。怒ることを嗜癖にしていた。

それは、私がなりたかった姿だろうか。

違う。

それは、やられて嫌だったことを、やり返しているだけだ。やられて嫌だったことをやりたいわけじゃない。

だって私はあのとき怒りで覆い隠して見ないようにしていたけれど、本当はすごく悲しかったのだ。

一生懸命やろうとしていることを馬鹿にされて、辛かった。

相手が自分だったら、その気持ちを味わせたいだろうか?

そうではない。私はそんな非道い人間でいたくない。

 

彼らを私だとして罪を振り返る(謝罪の言葉)

私は、自分の悲しみや怒りを抱えきれなくなっていたことを認める。

悲しい、つらい、腹が立つ、と言えなかった環境で、吐き出せなかった思いを溜め込んだ。当事者ではない、新たに出逢った罪のない人たちを、その人そのものを見ずに、上司や会社という立場に反応して、私は自発的に彼らを傷つけることをたくさん言った。

彼らもまた完璧ではなく、精一杯やっている人間のひとりであり、新人だった当時の私のように純粋にやっていたかもしれないのに、うがった見方をして彼らのやることや語る夢を馬鹿にした。

その行為により、どれだけ傷つくか痛いほど分かっていたはずなのに、自分の憎悪を八つ当たりで吐き出す道具のように扱い、尊厳を傷つけた。

私がやったことは、彼らにとって不当な暴力だった。

大変、申し訳なかった。

私がどんな人生を歩んでいたとしても、彼らには関係がないし、彼らを傷つけていい理由にはならない。

私が相手なら、そう思う。自分が傷ついた事実は変わらないから、謝ってほしいと感じる。私が彼らに怒りを与えた事実に私の過去は関係ないから、謝罪するべきだと考えるだろう。

私は渋々ではなく、謙虚に、正直に、そして心から自分の過ちを認める。

私は後悔している。行いを悔いている。

同じ痛みを味わせたいと嗜虐心に駆られて彼らを傷つける振る舞いをしたことを恥じている。

本当に、申し訳なかった。

 

まとめ:繰り返さないために

私は彼らを傷つけた罪を心から認め、再び同じ過ちを繰り返さぬよう、自分自身を点検し続け、自分の認知の歪みに常に素直に向き合い、ライフスキルを得て誠実に生きていきたい。

私は、自分自身の至らなさ・無力さを認め、私を「回復に向かう力」が導いてくれるのに任せよう。

そのためにできること(棚卸しを通じて自分自身に向き合うこと)を、無理なく弛みなく限りなく謙虚に続けていく。

 

全ての源は、私のなかにある。

他人のなかには、もう探さない。

憎しみや悲しみに塗れることに固執せず、手離して、この歌のように、爽やかで鮮やかな生を全うしたい。

 

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっと歌おう

閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される

はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充(み)たされてゆけ

海の彼方(かなた)には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

「いつも何度でも」──『千と千尋の神隠し』より──

覚和歌子作詞・木村弓作曲

【AC】憎しみの裏には自分自身の苦しみがある

さて、唐突だが、私は京都がどうも苦手である。

「よろしいなぁ」が「いいですねー(^^)」ではなく「そんな話はどうでもいい」という意味だったり、「おおきに」が「ありがとう」ではなく「お断りです」という意味だったり。

そういう言葉の裏を読ませ、真っすぐに表現せず嫌味に意図をにじませるやり方が気に食わない。

 

同族嫌悪

しかし、この憎しみは同族嫌悪だった、ということに最近気づいた。

こういう京都的な態度は、憎き母親に似ていて、他ならぬ自分に似ているから嫌なんだな、と思い至った。

自分の嫌な部分を見せられているから、イライラするのだ。

つまり自分の性質を受け容れられていないので、代替的に嫌悪していたということなのだろう。

私は、遠回しに言って、相手に気づいてもらおう、相手に自分のこの不愉快な気分の責任を押し付けよう、とする卑しい気持ちを持っている。また、一人で勝手に諦め、相手に真偽を確認する勇気を持てない弱さから、すれ違いを起こす。

認めたくなかったが、私はこのような姑息なところがある。

それは、他人の発言や、相手の回答をそのまま受け取れないからだ。

なぜ受け取れなくなったのだろう?

両親は、私の質問や要望に対して、そのまま返してくれなかった。

サンタクロースについて、バレるまで私に嘘をついていた両親。些細なことだが、結構私は両親に対して信頼を失った。こいつらは平気で私を騙すんだな、と思ってショックだった。

また、私が何かを要求すると、決まって両親は「なんでそんなこと言うの?」と言ってすごく悲しそうにした。私はなぜなのかを説明する語彙力を当時持ち合わせておらず、口籠った。両親はそうして私の要求を封殺するやり口をよく使った。

私はしばしば納得できないまま閉口せざるを得なかった。なぜダメなのか?なぜ要求は却下されたのか?がわからないままなんとなく「まずいことを言ったのだ」ということで引っ込めざるを得ない『空気』で圧殺された。

私は家庭においていつも言葉の裏の真意を深読みする必要があった。これはとても疲れることだった。家庭がそうだったから、他人は言わずもがな。人と深い関係を築けないまま、ただいたずらに年月が過ぎた。こうして、言葉をそのまま受け取らない癖がついて、30を越えた今でも同じように歪んだままだ。

 

裏表のない会話が安心感を育てる

・言いにくいことも真っ直ぐ伝えてくれる
・わからないときは確認してくれる
・素直に気持ちを語ってくれる

そういう安心感というのは、とても大事だと実感する。

私の両親が構成する核家族、つまり実家では、夫婦間の会話でさえ、はたから見ていて本心がどこにあるのかわからないやり取りがデフォルトだった。なぜ相手を傷つけたのかわからなかったり、その時は言われないで後から本音を知ったり。私にとっては、会話は恐怖であり、安心感がまるでなかったと思う。

地雷だらけの戦場を踏み歩くようなのが、家庭の会話であり、私にとっての会話だった。

コレは今も気心が知れていない相手とのコミュニケーションの場合は変わっていない。だから私にとって新しく人に会うことは、とてつもないストレスだ。新しい地雷だらけのフロアを開拓するようなイメージだ。

いつも暗号を読み解くように、言葉の裏を読み、真意を推し量り、正解か間違いか確認できないまま、ずっと生きてきてしまった。

私のコミュニケーションは、醜く歪み捻じ曲がっている。私は獲得してしまったこの性質を、醜くともそのまままずは受け容れ、これからの生き方や接し方を考えていく必要があると思う。

子どもが素直に生きている姿を見ていて、しみじみと哀しく思う。

生まれた時には、私もちゃんと真っ直ぐ意思表示していたはずだ、ということがよくわかる。

嬉しいときは笑い、悲しいときは泣き、欲しいものを欲しいと言い、嫌なものは嫌と伝え、いつも全力で素直に生きていたはずだ。私もそうだったはずなのにな、と思わずにはいられない。

なぜそのままの私を生かしてくれなかったのだろう。

インナーチャイルドを窒息させた両親を恨むなという方が無理な話である。

境界線(バウンダリー)

さて、ACではない人は、前述した私とは違って、会話において安心感を育みながら成長しているはずである。(実に忌々しい。)

たとえば私は、「他人が何も言わないこと」に対してもあれこれ勘ぐってしまうのだが、
「ACではない健全な人」が何も言わないということは、本当に何も感じていないか、話す必要がないと積極的に判断しているということである。

私はその人の決断にヤキモキする必要はない。

それなのに、相手がなぜ話さないのか?とありもしない裏の理由が気になり、何時間もウダウダ悩んでしまったりする。これはとても不毛で疲れる。

私のなかで、自分と他人の境界線(バウンダリー)が不明瞭だから、こういうことになる。相手を把握してコントロール下に置かないと不安だから、気になっているのだ。

私は自他の境界線をしっかり引き直して、切り離して良いことを判別して理解し、行動を変容させていきたいと思っている。

他人が素直に話すか話さないかは、相手にしかどうすることもできない。

相手の発言を、私はどうすることもできない。

素直に気持ちを確認し、気持ちに寄り添い、その内容について自身の素直な気持ちを話す以外に、私ができることはない。

それを忘れないでいたい。

そして、それでよいと心から納得し安心したい。

それで良いという安心を与えてくれなかった家族が憎い。しかし、これはもうどうしようもない。過去は過去。受け容れる他ない。

重要なのは、「このように歪んだのは私だけのせいではない」「当時は私にはどうしようもないことだった」ということを理解しておくことである。

最もコミュニケーションを気軽に学べる場所であるはずの「家庭」というモデルケース。この基盤が歪んでいたので、私の認知がしっかり歪んだ。これはもう疑う余地がない。とんでもない呪いだと思う。私はこの呪いで自分自身を縛り、他人との関わりを一人で勝手に諦め、誰にも助けを求められないから、エチルアルコールに耽溺したんだな、と思う。

それをただ受け止める。

まとめ:憎しみをみつめ、裏にある自分を見つめる

憎しみの裏には自分自身の苦しみがある。

そういう視点で憎しみを見つめ直してみると、案外おもしろい。

私は愛媛も苦手で、夏目漱石の『坊つちやん』に描かれているような、愛媛の(一部の)人々の野蛮さや他人を気にかけられない粗野な性質に触れて、毎日いつもイライラしてきた。

これは、自分がそのように素直に生きられなかった恨みである。自分のことを第一に考えて生きてはこられなかったのに、好き勝手している人々の姿を見ると、なりたかった姿とは思わないけれど、そういう「可能性の自由」を奪われた憎しみが反映されて心がざわつく。自分のなかにある憎しみを見ているんだろうな、と最近思うようになった。

ギャンブルを憎んだり、酒を憎んだりするのも、やはり自分のなかにある何か不満や恨みがあるからなのだと思う。対象物を憎んでいるように思えてその実、自分のなかにある願望や悲哀が「他人という鏡」に映っているだけなのかもしれない。

私は、そういう自分のなかの、暗い怨み辛みをしっかり目を凝らして見つめ直していきたい。

その結果、それらから手を離して、もっと自由に生きていきたい。それこそが回復なんじゃないかなと思う。

身に着けてきた恨み辛み憎しみも、私の大切な一部だ。憎しみを愛で、身に着けてきたスタンスの悪い面ばかりでなく、良い面も客観的に評価して尊重していきたいと思う。

生き方のスタイルは、自分という媒体の使い方であり、自分次第なのだ。

私たちは、自分自身を媒体としてきちんと尊重していなかったり、大切に扱っていなかったりする。

私たちは「お互いに尊重する」というアサーティブネスに基づいた健全な関係を持ち直していく練習が必要なのだ。

そのためにはまず、歪んでいる使い方や思考のきっかけに気づくために、真摯に棚卸しをして己を見つめ直していくことが大切だ。

この「境界線(バウンダリー)」における認知の歪みに関して、まだまだ棚卸しが足りないと感じた。今後、特にこのテーマで棚卸ししていきたい。

【依存症】成果はコントロールできないという話

『人事を尽くして天命に聴(まか)す』という言葉がある。

 

自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、どんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえだ。 南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』が成り立ちである。

私は、この言葉をずっと勘違いしてきた。

人事を尽くして天命に「任せる」。『成功するためには完璧に準備する(人事を尽くす)ことが大事だ』という意味だと思っていた。

その考えの根底には、「成功したい」「結果をコントロールしたい」という願いがあると気づいた。

 

仕事の成果はコントロールできるものなのか?

仕事は契約である。

ビジネスは、一定の成果を出すことを期待して契約を結ぶ。契約に沿って成果に応じた報酬をやり取りする。

だから、成果は一定の責任であり、ビジネスマンならコントロールするべきものだと思うのが自然だ。

そう思い込んできた。ある程度、努力と成果は相関しているように見えがちで、私も長くそう信じてきた。特に、社会的に表面上は上手く渡り歩けてしまった人ほど、それを信じて疑わないのではないだろうか。

この世の多くの人が、その勘違いにハマっている。つまり、仕事の成果は努力次第であり、コントロール可能なものだと思っていると思う。

 

しかし、成果は、実はコントロールできない「変えられないもの」なのだ、と最近感じるのである。

「成果」というものは、『人事を尽くして天命に聴す』という言葉の真の意味の通りに、「人智を超えた理に従って動いている」のではないだろうか、と考えるようになってきた。

 

私自身コントロールできているというのは傲りだったな、と感じることがある。

たとえば、私は約30年、「人生はコントロールできるもの」と教えられ、それを信じて生きてきた。実際は全くでたらめで、コントロールなんてまるでできていなかった。

両親が提示する「正しい道」を信じて、スポーツも学業もできるように頑張り、理想の息子・兄として生きようとした。私は私なりに一生懸命だったと思う。

しかし、一定の表面的な結果は出たが、嬉しくなかった。常に空虚だった。束の間の安心を得るために結果を求めた。

コントロールしなくてはならない事ばかり頭にあり、次第にどんどん生きることはただ辛い作業になっていった。

心には常に穴が空いていた感じだった。大切なものがどんどんその穴からこぼれ落ちていった。私を素通りしていって、焦った。

その穴を埋めるためにエチルアルコール(酒)という合法ドラッグに頼った。私は穴からこぼれ落ちるものを見ないようにするために。

結果、どんどん何もなくなり、穴は埋まるどころか拡がった。

私はアルコール依存症になった。

当時、私は酒なしに生きることは困難だった。そう、生きる事すら困難だった。成果や結果などコントロールできようはずもなかった。でも必死にコントロールできると信じてもがいていた。

コントロール不能なものをコントロールしようとして、私はエチルアルコールの使用方法をどんどん間違えていった。

いま振り返ると、土台無理なことだったのだ、と思う。

「自死を選ばず、ちゃんと寿命まで義務を果たして死ぬ」という「正しい人生」を全うするための最低条件。すなわち生きて立っていること。その最低条件すら、エチルアルコールが無くては全く自信がないほどに、私の心は痩せ細った。

体育会系リア充教

全力で自分ができる準備を、できる限りやり切るのみ。

あとは天に預ける、お任せする。

実はそれが100%なのである。

 

しかし、世の中はポジティブ思考を好み、もてはやす傾向にある。

  • 人生は努力すれば必ず報われる。
  • どんな人も頑張れば結果が出る。
  • 私たちは、今を変えられる。

 

こうした妄信は、一言でいえば、質の悪い宗教であると私は思う。

私はその宗教を個人的に、体育会系リア充教と呼んでいる。

もちろん、頑張ることは尊いことだ。

しかしながら、努力したからといっても報われる保証にはならない。

頑張ったからといってご褒美に必ず成果がついてくる、なんてことはない。

結果が出ないのは努力不足だからでは決してないのだと思う。

そういう定めだったというだけ。

それはすでに私たちの手に負えない領域の話なのだと思う。

こう考えると、無力感で絶望し、全部投げやりになりそうになる。

体育会系リア充教は、そんな自分に自己効力感を与えてくれる。偽りの希望を持たせてくれる。だから信者が多い。

自分の力では何事もどうにもならないという真実から目を背け、絶望しないように縋るには、ちょうどいい宗教である。

みんな血眼になってポジティブワードを喚き散らしながら「当たる!当たる!」と「努力」を積んで博打を打ち続けている感じがする。

人生はクソゲー?

私はゲーム依存症には詳しくない。

門外漢だということを自覚しているが、何となく共感するところがある。

私は「ゲームの世界に浸る」のが好きだ。

私の大学時代は荒廃していた。ゲームの発売日と重要な授業のレポート日が重なり、ゲームしていてすっぽかし留年しかけたことがある。酒を飲みながらゲームの世界に浸るのが好きで、大学の授業は後半ほぼサボっていた。

なんでそんなにゲームの世界が好きか?

それは、ゲームの世界はきちんとしているからだ。一定のルールが必ずある。

経験も無駄にならない。経験値として蓄積される。数値化されて努力が形になる。

失敗したら何度でもやり直しができる。

弱くても、失敗しても誰にも責められない。

 

人生は、ゲームで言えばクソゲーだ。

『ノーゲーム・ノーライフ』というライトノベルで語られている、以下のような世界観に共感するところが大きい。

ルールも目的も不明瞭な中
70億ものプレイヤーが好き勝手に手盤を動かし
勝ちすぎても負けすぎてもペナルティ
パスする権利もなく、しゃべりすぎたら疎まれる
パラメータもなくジャンルすら不明

こんなもの、ただの、クソゲー

 

全くその通りだと思う。特にこの日本は。

不条理でゴールも分からず、生まれたいとも思っていないのに強制参加させられた「現実」というゲーム。

それより、ちゃんと理路整然としていて、やればやるほど成果が出る「仮想現実」のゲームの世界のほうが、楽しいに決まっている。

ある程度コントロールできるからだ。

コントロールできると希望が持ちやすい。ダメでもまた立ち上がる元気が湧いてくる。

私にとっての現実は、そんなイメージではなかった。

失敗したらやり直しがきかないと半ば脅されながら言われたことを必死にやってきて、失敗したら責められ落胆され、失敗できないと縮こまっては「そんなふうではいけない」と逆に叱られ。

生きててこれっぽっちも楽しくなんかない、という気持ちだった。

こんなクソゲー今すぐやめられるのならやめたいと思っていた。

だから、現実よりゲームを取る気持ちは、とても分かる気がする。

 

まとめ:とりあえずエンディングまでやってみようか

しかし、私はまだ生きていたいなと思う。

クソゲーだな、と思って嫌々やってきた。

でも、自分がエンディングまでの道筋をコントロールすることなんて一切できないのだ、と知ってから、逆に楽しくなってきたように思う。

気楽になった。

コントロールできないなら、成功や失敗を考えなくていい。今の状態を楽しむことがミッションだからだ。

そして、実は失敗したってよかったのだ。この現実もゲームと同じように「やってみてダメでもまたトライしてみればいい」という世界だった。

それなら、好きなだけ試して、好きなことをやりたいようにやれる。クソゲーではなかった。

このゲームで私がやりたいのは、今までやろうとしてきた、体育会系リア充教の妄信や虚しいパワーゲームではない。

世の中での成功を目指すことは娯楽の一つだと思う。娯楽なんだから、嫉妬に目が眩んだりしたくない。楽しむものだから、娯楽たり得る。社会的な成功を得るミッション。これはおそらくこの世の本筋とは関係のないサイドゲーム的な位置づけのように思う。

だから、安心して楽しめばいい。他人のパワーゲームを見守っていてもいいし、気が向いたら参加するくらいでいい、と思う。

このゲームは最大限楽しんだもの勝ちで、対戦ゲームではないし、そもそも競うものでもないのだ、というふうに感じる。

最大限楽しめるように、プレイしてみたいと思う。

人気ブログランキングへ

【AC】謝罪が『裏返る』

格闘漫画『バキ』を読んだことがある人は、列海王さんを思い浮かべたことだろう。

「毒が…裏返るッッ」

なんじゃそりゃ?と全国の読者が思ったであろう、あの名場面は忘れようにも忘れられない。トンデモ理論で最高に笑える『バキ』のなかでも代表的なギャグシーンである。興味がある人はググってみてほしい。

さて、冗談はさておき、謝罪について今日は考えてみた。

 

謝罪したらもう『終わり』?

2つの本を紹介してもらったことがきっかけで、私は謝罪について深く考えるきっかけをいただいたと思っている。

 

私はとにかく謝ることが苦手だ。

今でも、いざ謝るとなると、動悸がするし嫌な汗が背中にジットリとにじむ。

 

私は親に謝ったとき、一度謝っただけでは許してもらえないことのほうが多かった。

執拗に、陰湿に、ネチネチと繰り返し同じようなことを言われて、謝っても謝っても苦しい時間が続いた。謝る意味はないのではないかとも思った。

クラスメイトにも受け取ってもらえなかった。謝罪をしても、一度やってしまった失敗は取り返しがつかないものだと感じた。だから、謝るときは、関係が終わりをつげ、今まで私が相手に対して感じてきた希望や愛情が死ぬとき、というイメージだった。

そう、まさに、謝罪は『終わり』『死』だった。

そういう暗く重い陰がつきまとう行為を、誰が積極的にしたいと思うだろうか。したい人はひとりもいないだろう。

こうして私は、謝罪を恐れ、謝罪をしなくてはならないような失敗を恐れ、完璧を求めるようになったのだと思う。

 

エチルアルコールによって完璧に叩き潰された私

そんな謝罪を恐れる私も、逃れることができない事態となる。

アルコール依存症になった私は、とにかく人でなしになった。

遅刻したり、約束を破ったり、不安定な精神で人々を傷つけたり。酒害はかかわるあらゆる人に害を与え、私は絶対的に悪くて、謝らなくてはならないことを抱えきれないくらい抱えることになる。

 

そもそも、エチルアルコールという薬物に依存して逃避していたことは、仕方のないことだったと言わざるを得ない。当時私が息をするためには、酒が必要な杖だった。己との向き合い方を間違えたために、使い方を間違い、道を誤った。それは、私にはどうしようもない、生育歴という要素もあったので、なるべくしてなったというか、生きるために必要で、私の人生には必要不可欠な洗礼だったように思う。

私自身、自分でも自覚できていなかった自分の苦しさを本当は認めてほしいと思ってきたようだ。

しかし、酒で道を踏み外した私は、人から見れば「だらしない人」で「甘えた人間」であり、ただの罪人でしかない。

私の言葉は何も拾ってもらえない。

アルコール依存症を罹患し、さまざまな人々に危害を加えた人の言葉は、この期に及んでは何を言っても言い訳扱いであった。

「俺だって辛かったんだ」って思ってる気持ちを抱えているけれども、誰にも受け止めてもらえないから、なかったことにしようとしていた。

でも、できなくて、苦しんでいた。

なぜできなかったかというと、圧倒的に自分の罪が重すぎて、自分の気持ちを受け止めてもらうなんて、おこがましいことだと思って封殺したのだ。

自分を理解してもらうことを、気持ちを表現した言葉を否定されてきた経験の積み重ねにより、学習性無力感に陥っていたと言ってもいいだろう。

学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、Learned helplessness[1])とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感[2]獲得された無力感[3]学習性無気力[4]がある。

出所:Wikipedia「学習性無力感」

「どうせ私はもう終わった人間なのだから」

「生かしてもらっているだけでもありがたいのだから」

という卑屈なセリフの裏に、『認めてほしい』『理解してほしい』『話を聞いてほしい』『諦められたくない』という、切実な叫びが隠されてる。

しかし、本人ですら深い深い心の奥底にしまいこんで、見ないようにするのだ。

 

それにより問題が発生する。

私たちは、そうやって気持ちを見ないようにしていると、他人にもその生き苦しさを強要しがちだ。

「なぜ俺が認められないのに、あんなテキトーにやってるやつが認められるんだ」

「私のほうがもっとがんばっているのになぜ」

と、『他人の不完全さ』が許しがたい感情に支配される。

私を否定するお前らが、なぜそんなに不完全なんだ、という怒り。

それは、自分自身の心や思いを他人に受け取ってもらえていない悲しみが、他人に対する怒りという別の形で表出しているのである。

 

こうして、私は謝る準備ができないまま、とにかくひたすら頭を下げなければならない場面にさらされて、卑屈に歪んだ。

1億%こっちが悪いし、ほぼ許してくれない。

「二度と顔見せるなカスが!」とか言われるのデフォである。

だから、当時の謝罪のイメージはもう「なますに切り刻まれる覚悟で焼き土下座」って感じだった。

そうやって私の心は謝罪に叩き潰されていった。

当時の私にとって、謝罪は毒そのものだった。

 

謝罪が裏返る

そんな毒である謝罪が『裏返る』ということを、私はのちに経験する。

 

私は長らく、素直に謝るのは難しい時間が続いた。

まずは受け入れられることが重要だった。

「自分のことを話していいんだ」「あ、俺って辛いと思ってたんだ」

話を聞いてもらえてから、そういう気持ちに気づく。

 

その土台があって初めて、やっと罪そのものにようやく向き合えるのだ。

初めてやったことの取り返しのつかなさがわかる。

謝ることが心底恐ろしいと感じる。謝ったりしたら、それで受け取ってもらえなかったら、もう自分は生きてちゃいけないんじゃないかと思う。

謝罪をする、本当の恐ろしさをまだ知らなかったと言える。

自分のために謝るよりも、相手のことや心情を真剣に考えて謝るほうが、よほど恐ろしいことに気づく。

これがとても重要である。

『自分がこれだけ相手の気持ちに寄り添えるなら、相手だって、自分の気持ちを大事にしてくれる可能性があるかもしれない』

ということに気づくからだ。

同じくらい大事にできるという可逆性に気づくと、他人を大事に考え行動することが、自分をも大事にする行動なのだと気づく。

裏返る。そうなると裏返る。

謝ると救われた気持ちになるのは、利己的な思考を捨てて他人のことを純粋に考えた謝罪を行うことにより、結果的に自分自身の尊厳を重んじることができるからだ。

「自分も大切にしてもらえる」という可能性は、私がそう思い行動できる限り消えないからだ。何よりも知覚しやすい生きる証明になるからだ。

つまり、自分の生き方そのものが、自分が大切にされるべき存在だという、確固たるエビデンスになる。

だから自尊心を取り戻せるし、謝ることが、恐ろしいだけのことじゃなくて、尊いものに変わっていく。

自分のなかで、毒ではなく、清い美しいものに変わっていく。

謝ることって、相手に寄り添えば寄り添うほど、相手も自分も救われる、尊いことなんだな、と今は思う。

教えてくれた尊敬すべき仲間に、心から感謝したいと思う。

 

【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと

以前棚卸ししたこちら↓のテーマである「権威ある人を恐れること」について考えていて、ふとむかしのパワハラ上司を思い出しました。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

 

前職の上司「Sさん」

私の前職の上司のSさんは、私にとって『権威ある人』でした。

社会人になりたてホヤホヤで右も左もわからない新人の私から見れば、Sさんは大企業での仕事も経験しているし、当時発足した東京営業所の所長を任されており、ビジネスや社会人の常識という面で「正しさの象徴」のような存在でした。

だから、Sさんに言われることをひとつひとつ真面目に受け取りすぎ、また、評価されないことをとても恐れていたと思います。

 

「こんなに使えないなんて裏口入学なんじゃないの?w 本当にその大学卒業したの?w」

「社会人になったら信号が三色なのも全部自分のせいだと思えよ、言い訳すんなお前。」

「誰もお前になんて興味ないからw 自意識過剰だっつーのw」

「なあ、今、俺がしゃべってんだよ、聞け。しゃべるな。」

「大企業だったらとっくに終わってるよ、お前。」

 

こういう物言いをする人でした。

言い方も伝えていることも、完全にパワハラでありモラハラなのですが、彼はホリエモンがバリバリだったころのIT業界にいたので、業界的に教えられたルールがブラックだったのでしょう。それが当たり前だと思っている節がありました。

こういう接し方をされて私はひどく傷つきました。アルコール依存症はもちろんのこと、うつ病も併発していたと思います。

当時は毎日が死にたいほど暗く重く、食事をしても味がしないし酒量はどんどん増えていきました。

 

彼も人なり我も人なり

彼がしたことは、私に謝罪するべきことです。

なぜなら、私の尊厳や自尊心を深く傷つけたからです。冗談だったとしても、傷つけたことをなかったことにはできません。私にとって、その点において彼を許すことは、彼からの謝罪なしには難しいことです。だから、許す必要はない。

 

それとは別に、「ああ、もう今更怒ってもしかたないことだったのかもな」とも思います。

つまり、『怒りを手放す準備』ができたのだな、と感じます。

 

というのも、彼は当時私と同じくらい、つまり30代でした。(彼は外見が老けていたので、記憶ではもっと年上の印象ですが)当時の彼は、私と同じく、何も知らないただの若造だったのです。

私がいかにいろいろなことを知らないかということを鑑みるに、彼もまた私と同じように、「自分の見てきた世界が全てで、何でも知っている」と考えていたのでしょう。

それでいて、自分が知らないことに恐れを抱いていて、正しさで誰かをマウントして押さえつけることに躍起になってしまったのだろうな、と思います。

まさしく私が陥っていた姿です。

恐れていた彼は、とても大きく強大に見えましたが、実は私と同じくらいの大きさだった、ということです。

 

 

何となく気になって彼の名前を久々に思い出し、Googleで検索してみました。

彼は、いわゆる大企業と呼ばれる会社(売上6000億くらい)で成果を出しながら、ビジネススクールに通ったそうです。

そこで出会った人々と異業種で起業する夢を追いかけてフリーランスになって、私たちがいた中小零細企業に、雇われ所長で来ていました。

ネットでみる限りでは、今はフリーランスの状態から会社を立ち上げて、自分でつくった小さい会社のCEOをしているようです。

 

彼にはビジネスで成功したい!自分のビジネスをやりたい!というベンチャービジネスへの夢がありました。ビジネスを立ち上げて儲けよう!ということが、彼の成し遂げたいことだったのだと思います。

寝食を忘れて仕事に取り組む姿は、そういう熱意から来ていて、だからこそ尊敬できる面があることを、今なら素直に思えます。当時は、こんな奴死ねばいいのに、と思っていました。

 

しかし、私も「そこまで言うなら大企業で仕事してみたい」と思い、こっそり転職活動をして、彼の2倍ぐらい売り上げがある会社に転職しました。

転職が決まったときは気分爽快でした。

「ざまあみろ!お前なんかより大きい会社に移ってやったぞ!どうだコノヤロウ!!」と思いました。

「このしょぼい会社で、しょぼいことでも一生やってろ!」と心のなかでバカにして後ろ足で砂をかけて会社を去りました。

 

その後。

大企業に勤めてみて、大きい会社だからって何でも優れているわけではないし、むしろやっていることはほぼ同じなんだな、と気づきました。

依存症になって尊敬する人に出会って、フリーランスで生計を立てることのすごさを知りました。

 

その経験を経て、自分のしたことはすごく失礼で浅くて小さいことだったな、と思います。

彼は彼なりに、フリーランスとして妻子を食べさせていくこと、夢を追いかけることに必死に走っている状態だったのだな、と思いました。

彼は完璧では決してなかったし、人材育成には向いていない刺々しさを持っていて、世の中のことを知っているつもりでその実全く知らなかったのでした。

Sさんは、一皮むいてみれば私と同じ弱く浅い無知な人間だったのだな、と気づくことができました。

 

恐れるべき人などいないということ

そう考えると、「私は誰も恐れなくていいのではないか」と思うのです。

社会人として生きてきて、彼が大事だと言っていた「常識」は、それが天の理というわけでは全くなくて、ビジネスの上で良しとされている、というだけのことでした。

つまり価値観の一つであり、Sさんはそれだけしか価値観を知らなかったから、あんなに断定的にしか物事をとらえられなかった。

当時は、Sさんにとって、それが限界だった。今はどうか知りませんが。

みんな弱さを抱えて生きているのに、強いふりをして他人より上だの下だのと言って、安心したい。Sさんが当時無自覚にもやっていたことは「強くありたい弱い者」のすることです。そして、その意味ではみな平等に弱い存在であると言えます。

私はビジネスにおいて成功したいというよりは、お金がもうからなくったって、本当に世の中のためになることがしたい。

その方向性が違っていたから、かけられる熱量とベクトルが違った。

Sさんと私との違いは、そこでした。そして、どちらも好きなように生きればよかったのです。どちらが正解でも間違いでもない。尊重し合うには、お互いに未熟だったね、と思うのです。

 

彼が今何を考え、どうしているかは知らないし、もう今や関係のないことですが、Sさんとの出会いは、「権威ある人を恐れること」の課題について気づきを与えてくれました。

そのことに、今は感謝したいと思います。

そして、恐れる必要などなかった人なのだという爽やかな薫風と一緒に、怒りを手放してしまおうと思います。

 

この世には、絶対的に正しい人も居なければ、絶対的に正しいこともない。