私は、自分のことを差し置いてでも、という献身的な愛にすごく憧れがあり、愛の深さを私に試されて、相手が試練や痛みに歪む顔にドキドキしたりします。
私の親は、私を「愛している」と言っていたし、たしかに愛していたのかもしれない。
けれどそれ以上に、彼らは自分自身の欲や価値観のほうが優っていて、無意識に優先してきたと感じます。
「いい子に育てて親として優れていたい」
「自分の人生の反省を子供でやり直ししたい」
というような欲求を優先して、私そのものを見ていませんでした。
彼らは「愛している」という言葉を隠れ蓑にしてコントロールしようとしました。
だから私は、誰かから愛についていくら言葉を尽くして言われても、うまく信用できないのだと思います。
身がちぎれるほどの痛みに耐えて大事にしてくれることに愛を実感するし、そうした献身的な愛に憧れを抱くんだな、と思います。
自分を振り返ると、他ならぬ私こそ、自分のことしか考えていなくて、自分のことだけで精一杯の状態だったことに、気づきます。
親と同じだった、相手を見ていなかった。
自分のために他人を使うことばかりに心を砕いてきたのです。
私こそ親と同じように自分しか見えていないから、他人の言葉を信じられなかったのだと思います。
だって、私のことしか見えていない私がいう「愛している」は、親と同じ嘘だから。自分がそうだから、他人のもそうだろう、としか想像できず、偽りだと考えるのです。
では、私の心は、100%利己的な私の欲望だけで構成される、卑しい塊なのだろうか?
というと、そうでもなくて、見ず知らずの道に迷って困っている人に小銭をあげたり、大好きな人にただ料理を作り一緒に食べたいと思ったりします。
全てあげるつもりで、自分の愛が受け取られなくても差し出す心を持っています。
だから、私が私に対する配慮に最も比重を置いたとしても、誰かを愛していないわけじゃなく、それがむしろ健全な状態なのではないでしょうか。
自分を打ち捨て相手のために身も心も差し出す献身は、愛というより異常で病的な依存状態からくるものなんじゃないか?
実際そういう献身は経験上長続きしなかったし、見返りを求めるようになってしまって、結局破綻してきました。
つまり、私が思い描いて憧れていた献身は愛ではなかったということです。妄想のなかの現実には存在しないものでした。
現実には存在しない陽炎を追いかけて、ありもしないモノを必死に探して「ない、ない、どこにもない!」と思って嘆いていたように思います。
末永く健全に他人を愛するためには、まず自分が自分の足でしっかりと立っていなければならない。
そのためには、自分を慈しみ愛でて心も体も健康であるように尊重しなくてはならない。
ということは、何をおいても私は私を一番に大事にしなくてはならないし、それでいいのです。
むしろ、それがいい。
それこそベストなんだと思います。
そう考えると、今まで接してきてくれた人たちの優しさや真心は、理想と比べるとあまりにも小さく感じたけれど、たしかに愛だったように思い返されます。
なぜなら、自分自身が掛け値なく今まで与えてきた好意や愛情と同じだから。
自分が他人に無理なく渡してきた愛情を自覚すると、小さくみえていた他人の同じような愛情を受け取れる。
結局人はみな自分が一番かわいくて、他人を自分以上に大事にすることはないのです。
だけど、そうでなくては本当に他人を愛することもできないのかも、と思ったりします。
私は自分自身が大事じゃない時期の方が長かったので、こんな自分より他人の幸せを優先するべきなのではないか、という感覚でした。
自分を蔑ろにすることで私は苦しんでいるという声なき声を上げていたのだろうと思うのですが、自分で自分を粗末に扱った結果、自分の存在価値はゴミ以下だと信じ込むようになりました。
自己肯定感の低さが、そんな自分自身の大事さを小さく見せました。
他人がその人自身を私より大切にすることにショックを受けるのはこのためです。
大事な誰かが私よりその人自身を優先するのは、立場を替えると「私が、ゴミ以下だと思っている自分より、その人を大事にしない」ということであり、結論として『私の価値はその人にとってゴミ以下よりもゴミ』と判断されたことになります。そのような思考で絶望を感じていて、誰にも愛されていないと考えるのです。
私が思い描いていた愛は幻で、もっと身近にたくさんあったんじゃないかな、と思います。
当時は見えなかったし、受け取られなかったけど…。
と最近感じるという話でした。