さて、唐突だが、私は京都がどうも苦手である。
「よろしいなぁ」が「いいですねー(^^)」ではなく「そんな話はどうでもいい」という意味だったり、「おおきに」が「ありがとう」ではなく「お断りです」という意味だったり。
そういう言葉の裏を読ませ、真っすぐに表現せず嫌味に意図をにじませるやり方が気に食わない。
同族嫌悪
しかし、この憎しみは同族嫌悪だった、ということに最近気づいた。
こういう京都的な態度は、憎き母親に似ていて、他ならぬ自分に似ているから嫌なんだな、と思い至った。
自分の嫌な部分を見せられているから、イライラするのだ。
つまり自分の性質を受け容れられていないので、代替的に嫌悪していたということなのだろう。
私は、遠回しに言って、相手に気づいてもらおう、相手に自分のこの不愉快な気分の責任を押し付けよう、とする卑しい気持ちを持っている。また、一人で勝手に諦め、相手に真偽を確認する勇気を持てない弱さから、すれ違いを起こす。
認めたくなかったが、私はこのような姑息なところがある。
それは、他人の発言や、相手の回答をそのまま受け取れないからだ。
なぜ受け取れなくなったのだろう?
両親は、私の質問や要望に対して、そのまま返してくれなかった。
サンタクロースについて、バレるまで私に嘘をついていた両親。些細なことだが、結構私は両親に対して信頼を失った。こいつらは平気で私を騙すんだな、と思ってショックだった。
また、私が何かを要求すると、決まって両親は「なんでそんなこと言うの?」と言ってすごく悲しそうにした。私はなぜなのかを説明する語彙力を当時持ち合わせておらず、口籠った。両親はそうして私の要求を封殺するやり口をよく使った。
私はしばしば納得できないまま閉口せざるを得なかった。なぜダメなのか?なぜ要求は却下されたのか?がわからないままなんとなく「まずいことを言ったのだ」ということで引っ込めざるを得ない『空気』で圧殺された。
私は家庭においていつも言葉の裏の真意を深読みする必要があった。これはとても疲れることだった。家庭がそうだったから、他人は言わずもがな。人と深い関係を築けないまま、ただいたずらに年月が過ぎた。こうして、言葉をそのまま受け取らない癖がついて、30を越えた今でも同じように歪んだままだ。
裏表のない会話が安心感を育てる
・言いにくいことも真っ直ぐ伝えてくれる
・わからないときは確認してくれる
・素直に気持ちを語ってくれる
そういう安心感というのは、とても大事だと実感する。
私の両親が構成する核家族、つまり実家では、夫婦間の会話でさえ、はたから見ていて本心がどこにあるのかわからないやり取りがデフォルトだった。なぜ相手を傷つけたのかわからなかったり、その時は言われないで後から本音を知ったり。私にとっては、会話は恐怖であり、安心感がまるでなかったと思う。
地雷だらけの戦場を踏み歩くようなのが、家庭の会話であり、私にとっての会話だった。
コレは今も気心が知れていない相手とのコミュニケーションの場合は変わっていない。だから私にとって新しく人に会うことは、とてつもないストレスだ。新しい地雷だらけのフロアを開拓するようなイメージだ。
いつも暗号を読み解くように、言葉の裏を読み、真意を推し量り、正解か間違いか確認できないまま、ずっと生きてきてしまった。
私のコミュニケーションは、醜く歪み捻じ曲がっている。私は獲得してしまったこの性質を、醜くともそのまままずは受け容れ、これからの生き方や接し方を考えていく必要があると思う。
子どもが素直に生きている姿を見ていて、しみじみと哀しく思う。
生まれた時には、私もちゃんと真っ直ぐ意思表示していたはずだ、ということがよくわかる。
嬉しいときは笑い、悲しいときは泣き、欲しいものを欲しいと言い、嫌なものは嫌と伝え、いつも全力で素直に生きていたはずだ。私もそうだったはずなのにな、と思わずにはいられない。
なぜそのままの私を生かしてくれなかったのだろう。
インナーチャイルドを窒息させた両親を恨むなという方が無理な話である。
境界線(バウンダリー)
さて、ACではない人は、前述した私とは違って、会話において安心感を育みながら成長しているはずである。(実に忌々しい。)
たとえば私は、「他人が何も言わないこと」に対してもあれこれ勘ぐってしまうのだが、
「ACではない健全な人」が何も言わないということは、本当に何も感じていないか、話す必要がないと積極的に判断しているということである。
私はその人の決断にヤキモキする必要はない。
それなのに、相手がなぜ話さないのか?とありもしない裏の理由が気になり、何時間もウダウダ悩んでしまったりする。これはとても不毛で疲れる。
私のなかで、自分と他人の境界線(バウンダリー)が不明瞭だから、こういうことになる。相手を把握してコントロール下に置かないと不安だから、気になっているのだ。
私は自他の境界線をしっかり引き直して、切り離して良いことを判別して理解し、行動を変容させていきたいと思っている。
他人が素直に話すか話さないかは、相手にしかどうすることもできない。
相手の発言を、私はどうすることもできない。
素直に気持ちを確認し、気持ちに寄り添い、その内容について自身の素直な気持ちを話す以外に、私ができることはない。
それを忘れないでいたい。
そして、それでよいと心から納得し安心したい。
それで良いという安心を与えてくれなかった家族が憎い。しかし、これはもうどうしようもない。過去は過去。受け容れる他ない。
重要なのは、「このように歪んだのは私だけのせいではない」「当時は私にはどうしようもないことだった」ということを理解しておくことである。
最もコミュニケーションを気軽に学べる場所であるはずの「家庭」というモデルケース。この基盤が歪んでいたので、私の認知がしっかり歪んだ。これはもう疑う余地がない。とんでもない呪いだと思う。私はこの呪いで自分自身を縛り、他人との関わりを一人で勝手に諦め、誰にも助けを求められないから、エチルアルコールに耽溺したんだな、と思う。
それをただ受け止める。
まとめ:憎しみをみつめ、裏にある自分を見つめる
憎しみの裏には自分自身の苦しみがある。
そういう視点で憎しみを見つめ直してみると、案外おもしろい。
私は愛媛も苦手で、夏目漱石の『坊つちやん』に描かれているような、愛媛の(一部の)人々の野蛮さや他人を気にかけられない粗野な性質に触れて、毎日いつもイライラしてきた。
これは、自分がそのように素直に生きられなかった恨みである。自分のことを第一に考えて生きてはこられなかったのに、好き勝手している人々の姿を見ると、なりたかった姿とは思わないけれど、そういう「可能性の自由」を奪われた憎しみが反映されて心がざわつく。自分のなかにある憎しみを見ているんだろうな、と最近思うようになった。
ギャンブルを憎んだり、酒を憎んだりするのも、やはり自分のなかにある何か不満や恨みがあるからなのだと思う。対象物を憎んでいるように思えてその実、自分のなかにある願望や悲哀が「他人という鏡」に映っているだけなのかもしれない。
私は、そういう自分のなかの、暗い怨み辛みをしっかり目を凝らして見つめ直していきたい。
その結果、それらから手を離して、もっと自由に生きていきたい。それこそが回復なんじゃないかなと思う。
身に着けてきた恨み辛み憎しみも、私の大切な一部だ。憎しみを愛で、身に着けてきたスタンスの悪い面ばかりでなく、良い面も客観的に評価して尊重していきたいと思う。
生き方のスタイルは、自分という媒体の使い方であり、自分次第なのだ。
私たちは、自分自身を媒体としてきちんと尊重していなかったり、大切に扱っていなかったりする。
私たちは「お互いに尊重する」というアサーティブネスに基づいた健全な関係を持ち直していく練習が必要なのだ。
そのためにはまず、歪んでいる使い方や思考のきっかけに気づくために、真摯に棚卸しをして己を見つめ直していくことが大切だ。
この「境界線(バウンダリー)」における認知の歪みに関して、まだまだ棚卸しが足りないと感じた。今後、特にこのテーマで棚卸ししていきたい。