【依存症】成果はコントロールできないという話

『人事を尽くして天命に聴(まか)す』という言葉がある。

 

自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、どんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえだ。 南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』が成り立ちである。

私は、この言葉をずっと勘違いしてきた。

人事を尽くして天命に「任せる」。『成功するためには完璧に準備する(人事を尽くす)ことが大事だ』という意味だと思っていた。

その考えの根底には、「成功したい」「結果をコントロールしたい」という願いがあると気づいた。

 

仕事の成果はコントロールできるものなのか?

仕事は契約である。

ビジネスは、一定の成果を出すことを期待して契約を結ぶ。契約に沿って成果に応じた報酬をやり取りする。

だから、成果は一定の責任であり、ビジネスマンならコントロールするべきものだと思うのが自然だ。

そう思い込んできた。ある程度、努力と成果は相関しているように見えがちで、私も長くそう信じてきた。特に、社会的に表面上は上手く渡り歩けてしまった人ほど、それを信じて疑わないのではないだろうか。

この世の多くの人が、その勘違いにハマっている。つまり、仕事の成果は努力次第であり、コントロール可能なものだと思っていると思う。

 

しかし、成果は、実はコントロールできない「変えられないもの」なのだ、と最近感じるのである。

「成果」というものは、『人事を尽くして天命に聴す』という言葉の真の意味の通りに、「人智を超えた理に従って動いている」のではないだろうか、と考えるようになってきた。

 

私自身コントロールできているというのは傲りだったな、と感じることがある。

たとえば、私は約30年、「人生はコントロールできるもの」と教えられ、それを信じて生きてきた。実際は全くでたらめで、コントロールなんてまるでできていなかった。

両親が提示する「正しい道」を信じて、スポーツも学業もできるように頑張り、理想の息子・兄として生きようとした。私は私なりに一生懸命だったと思う。

しかし、一定の表面的な結果は出たが、嬉しくなかった。常に空虚だった。束の間の安心を得るために結果を求めた。

コントロールしなくてはならない事ばかり頭にあり、次第にどんどん生きることはただ辛い作業になっていった。

心には常に穴が空いていた感じだった。大切なものがどんどんその穴からこぼれ落ちていった。私を素通りしていって、焦った。

その穴を埋めるためにエチルアルコール(酒)という合法ドラッグに頼った。私は穴からこぼれ落ちるものを見ないようにするために。

結果、どんどん何もなくなり、穴は埋まるどころか拡がった。

私はアルコール依存症になった。

当時、私は酒なしに生きることは困難だった。そう、生きる事すら困難だった。成果や結果などコントロールできようはずもなかった。でも必死にコントロールできると信じてもがいていた。

コントロール不能なものをコントロールしようとして、私はエチルアルコールの使用方法をどんどん間違えていった。

いま振り返ると、土台無理なことだったのだ、と思う。

「自死を選ばず、ちゃんと寿命まで義務を果たして死ぬ」という「正しい人生」を全うするための最低条件。すなわち生きて立っていること。その最低条件すら、エチルアルコールが無くては全く自信がないほどに、私の心は痩せ細った。

体育会系リア充教

全力で自分ができる準備を、できる限りやり切るのみ。

あとは天に預ける、お任せする。

実はそれが100%なのである。

 

しかし、世の中はポジティブ思考を好み、もてはやす傾向にある。

  • 人生は努力すれば必ず報われる。
  • どんな人も頑張れば結果が出る。
  • 私たちは、今を変えられる。

 

こうした妄信は、一言でいえば、質の悪い宗教であると私は思う。

私はその宗教を個人的に、体育会系リア充教と呼んでいる。

もちろん、頑張ることは尊いことだ。

しかしながら、努力したからといっても報われる保証にはならない。

頑張ったからといってご褒美に必ず成果がついてくる、なんてことはない。

結果が出ないのは努力不足だからでは決してないのだと思う。

そういう定めだったというだけ。

それはすでに私たちの手に負えない領域の話なのだと思う。

こう考えると、無力感で絶望し、全部投げやりになりそうになる。

体育会系リア充教は、そんな自分に自己効力感を与えてくれる。偽りの希望を持たせてくれる。だから信者が多い。

自分の力では何事もどうにもならないという真実から目を背け、絶望しないように縋るには、ちょうどいい宗教である。

みんな血眼になってポジティブワードを喚き散らしながら「当たる!当たる!」と「努力」を積んで博打を打ち続けている感じがする。

人生はクソゲー?

私はゲーム依存症には詳しくない。

門外漢だということを自覚しているが、何となく共感するところがある。

私は「ゲームの世界に浸る」のが好きだ。

私の大学時代は荒廃していた。ゲームの発売日と重要な授業のレポート日が重なり、ゲームしていてすっぽかし留年しかけたことがある。酒を飲みながらゲームの世界に浸るのが好きで、大学の授業は後半ほぼサボっていた。

なんでそんなにゲームの世界が好きか?

それは、ゲームの世界はきちんとしているからだ。一定のルールが必ずある。

経験も無駄にならない。経験値として蓄積される。数値化されて努力が形になる。

失敗したら何度でもやり直しができる。

弱くても、失敗しても誰にも責められない。

 

人生は、ゲームで言えばクソゲーだ。

『ノーゲーム・ノーライフ』というライトノベルで語られている、以下のような世界観に共感するところが大きい。

ルールも目的も不明瞭な中
70億ものプレイヤーが好き勝手に手盤を動かし
勝ちすぎても負けすぎてもペナルティ
パスする権利もなく、しゃべりすぎたら疎まれる
パラメータもなくジャンルすら不明

こんなもの、ただの、クソゲー

 

全くその通りだと思う。特にこの日本は。

不条理でゴールも分からず、生まれたいとも思っていないのに強制参加させられた「現実」というゲーム。

それより、ちゃんと理路整然としていて、やればやるほど成果が出る「仮想現実」のゲームの世界のほうが、楽しいに決まっている。

ある程度コントロールできるからだ。

コントロールできると希望が持ちやすい。ダメでもまた立ち上がる元気が湧いてくる。

私にとっての現実は、そんなイメージではなかった。

失敗したらやり直しがきかないと半ば脅されながら言われたことを必死にやってきて、失敗したら責められ落胆され、失敗できないと縮こまっては「そんなふうではいけない」と逆に叱られ。

生きててこれっぽっちも楽しくなんかない、という気持ちだった。

こんなクソゲー今すぐやめられるのならやめたいと思っていた。

だから、現実よりゲームを取る気持ちは、とても分かる気がする。

 

まとめ:とりあえずエンディングまでやってみようか

しかし、私はまだ生きていたいなと思う。

クソゲーだな、と思って嫌々やってきた。

でも、自分がエンディングまでの道筋をコントロールすることなんて一切できないのだ、と知ってから、逆に楽しくなってきたように思う。

気楽になった。

コントロールできないなら、成功や失敗を考えなくていい。今の状態を楽しむことがミッションだからだ。

そして、実は失敗したってよかったのだ。この現実もゲームと同じように「やってみてダメでもまたトライしてみればいい」という世界だった。

それなら、好きなだけ試して、好きなことをやりたいようにやれる。クソゲーではなかった。

このゲームで私がやりたいのは、今までやろうとしてきた、体育会系リア充教の妄信や虚しいパワーゲームではない。

世の中での成功を目指すことは娯楽の一つだと思う。娯楽なんだから、嫉妬に目が眩んだりしたくない。楽しむものだから、娯楽たり得る。社会的な成功を得るミッション。これはおそらくこの世の本筋とは関係のないサイドゲーム的な位置づけのように思う。

だから、安心して楽しめばいい。他人のパワーゲームを見守っていてもいいし、気が向いたら参加するくらいでいい、と思う。

このゲームは最大限楽しんだもの勝ちで、対戦ゲームではないし、そもそも競うものでもないのだ、というふうに感じる。

最大限楽しめるように、プレイしてみたいと思う。

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