格闘漫画『バキ』を読んだことがある人は、列海王さんを思い浮かべたことだろう。
「毒が…裏返るッッ」
なんじゃそりゃ?と全国の読者が思ったであろう、あの名場面は忘れようにも忘れられない。トンデモ理論で最高に笑える『バキ』のなかでも代表的なギャグシーンである。興味がある人はググってみてほしい。
さて、冗談はさておき、謝罪について今日は考えてみた。
謝罪したらもう『終わり』?
2つの本を紹介してもらったことがきっかけで、私は謝罪について深く考えるきっかけをいただいたと思っている。
私はとにかく謝ることが苦手だ。
今でも、いざ謝るとなると、動悸がするし嫌な汗が背中にジットリとにじむ。
私は親に謝ったとき、一度謝っただけでは許してもらえないことのほうが多かった。
執拗に、陰湿に、ネチネチと繰り返し同じようなことを言われて、謝っても謝っても苦しい時間が続いた。謝る意味はないのではないかとも思った。
クラスメイトにも受け取ってもらえなかった。謝罪をしても、一度やってしまった失敗は取り返しがつかないものだと感じた。だから、謝るときは、関係が終わりをつげ、今まで私が相手に対して感じてきた希望や愛情が死ぬとき、というイメージだった。
そう、まさに、謝罪は『終わり』『死』だった。
そういう暗く重い陰がつきまとう行為を、誰が積極的にしたいと思うだろうか。したい人はひとりもいないだろう。
こうして私は、謝罪を恐れ、謝罪をしなくてはならないような失敗を恐れ、完璧を求めるようになったのだと思う。
エチルアルコールによって完璧に叩き潰された私
そんな謝罪を恐れる私も、逃れることができない事態となる。
アルコール依存症になった私は、とにかく人でなしになった。
遅刻したり、約束を破ったり、不安定な精神で人々を傷つけたり。酒害はかかわるあらゆる人に害を与え、私は絶対的に悪くて、謝らなくてはならないことを抱えきれないくらい抱えることになる。
そもそも、エチルアルコールという薬物に依存して逃避していたことは、仕方のないことだったと言わざるを得ない。当時私が息をするためには、酒が必要な杖だった。己との向き合い方を間違えたために、使い方を間違い、道を誤った。それは、私にはどうしようもない、生育歴という要素もあったので、なるべくしてなったというか、生きるために必要で、私の人生には必要不可欠な洗礼だったように思う。
私自身、自分でも自覚できていなかった自分の苦しさを本当は認めてほしいと思ってきたようだ。
しかし、酒で道を踏み外した私は、人から見れば「だらしない人」で「甘えた人間」であり、ただの罪人でしかない。
私の言葉は何も拾ってもらえない。
アルコール依存症を罹患し、さまざまな人々に危害を加えた人の言葉は、この期に及んでは何を言っても言い訳扱いであった。
「俺だって辛かったんだ」って思ってる気持ちを抱えているけれども、誰にも受け止めてもらえないから、なかったことにしようとしていた。
でも、できなくて、苦しんでいた。
なぜできなかったかというと、圧倒的に自分の罪が重すぎて、自分の気持ちを受け止めてもらうなんて、おこがましいことだと思って封殺したのだ。
自分を理解してもらうことを、気持ちを表現した言葉を否定されてきた経験の積み重ねにより、学習性無力感に陥っていたと言ってもいいだろう。
学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness[1])とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感[2]、獲得された無力感[3]、学習性無気力[4]がある。
「どうせ私はもう終わった人間なのだから」
「生かしてもらっているだけでもありがたいのだから」
という卑屈なセリフの裏に、『認めてほしい』『理解してほしい』『話を聞いてほしい』『諦められたくない』という、切実な叫びが隠されてる。
しかし、本人ですら深い深い心の奥底にしまいこんで、見ないようにするのだ。
それにより問題が発生する。
私たちは、そうやって気持ちを見ないようにしていると、他人にもその生き苦しさを強要しがちだ。
「なぜ俺が認められないのに、あんなテキトーにやってるやつが認められるんだ」
「私のほうがもっとがんばっているのになぜ」
と、『他人の不完全さ』が許しがたい感情に支配される。
私を否定するお前らが、なぜそんなに不完全なんだ、という怒り。
それは、自分自身の心や思いを他人に受け取ってもらえていない悲しみが、他人に対する怒りという別の形で表出しているのである。
こうして、私は謝る準備ができないまま、とにかくひたすら頭を下げなければならない場面にさらされて、卑屈に歪んだ。
1億%こっちが悪いし、ほぼ許してくれない。
「二度と顔見せるなカスが!」とか言われるのデフォである。
だから、当時の謝罪のイメージはもう「なますに切り刻まれる覚悟で焼き土下座」って感じだった。
そうやって私の心は謝罪に叩き潰されていった。
当時の私にとって、謝罪は毒そのものだった。
謝罪が裏返る
そんな毒である謝罪が『裏返る』ということを、私はのちに経験する。
私は長らく、素直に謝るのは難しい時間が続いた。
まずは受け入れられることが重要だった。
「自分のことを話していいんだ」「あ、俺って辛いと思ってたんだ」
話を聞いてもらえてから、そういう気持ちに気づく。
その土台があって初めて、やっと罪そのものにようやく向き合えるのだ。
初めてやったことの取り返しのつかなさがわかる。
謝ることが心底恐ろしいと感じる。謝ったりしたら、それで受け取ってもらえなかったら、もう自分は生きてちゃいけないんじゃないかと思う。
謝罪をする、本当の恐ろしさをまだ知らなかったと言える。
自分のために謝るよりも、相手のことや心情を真剣に考えて謝るほうが、よほど恐ろしいことに気づく。
これがとても重要である。
『自分がこれだけ相手の気持ちに寄り添えるなら、相手だって、自分の気持ちを大事にしてくれる可能性があるかもしれない』
ということに気づくからだ。
同じくらい大事にできるという可逆性に気づくと、他人を大事に考え行動することが、自分をも大事にする行動なのだと気づく。
裏返る。そうなると裏返る。
謝ると救われた気持ちになるのは、利己的な思考を捨てて他人のことを純粋に考えた謝罪を行うことにより、結果的に自分自身の尊厳を重んじることができるからだ。
「自分も大切にしてもらえる」という可能性は、私がそう思い行動できる限り消えないからだ。何よりも知覚しやすい生きる証明になるからだ。
つまり、自分の生き方そのものが、自分が大切にされるべき存在だという、確固たるエビデンスになる。
だから自尊心を取り戻せるし、謝ることが、恐ろしいだけのことじゃなくて、尊いものに変わっていく。
自分のなかで、毒ではなく、清い美しいものに変わっていく。
謝ることって、相手に寄り添えば寄り添うほど、相手も自分も救われる、尊いことなんだな、と今は思う。
教えてくれた尊敬すべき仲間に、心から感謝したいと思う。