月別アーカイブ: 2020年4月

【依存症】焦らず一つひとつ『知る』ということ

回復したい。

そう思えば思うほど、焦る。

 

やらなければ、と思ってやるのはちょっと違う。

やりたい、と思ってやるとき、本当にやって変化が訪れる。

そう、変化は起こすものではなかった。訪れるものである。

自分を変えたい。

そう思うことは素晴らしいことで、勇気あるチャレンジだ。称えられるべき姿勢だ。

しかし、割と意図的に変えようと画策したことは、得てしてなかなかうまくいかない。

うまくいったように見えて、うわべを撫でていただけだったということは、よくある。

やはり、天から授かるように、変化は私たちがお呼びもしない何かに導かれて『訪れる』。

 

本当に、「理解する」というのは難しいな、と常々思う。

ただ情報を知ったとしても、理解しているとは言い難い。

行動しなければ、本当の意味で頭のイメージと体感イメージが一致しているかどうかは、わからない。

行動できることは限られているから、真偽を確かめられる事象は、必然的にほんの一握りのことだ。

しかも、同じ行動であったとしても、人によって感じ方や作法は様々で捉えどころがない。

王道だと思っていたことが、実は道のひとつであるということを、道半ばで知ると、人は固執し、己の価値観を変えたくないと抵抗するものだ。

なぜなら、「わからない」「違うかもしれない」ということは、不安や恐怖を感じさせるからだ。自分の足元が揺らぐようなことは、誰も信じたくない。

しかし、私たちは、様々なことを、本当の意味では知らないまま、生きていかなくてはならない。

知識として頭に入ったことを「理解した」つもりになってしまうことはよくある。

私はよくあるし、今もそうだと思う。

 

私は絶望的に様々なことを『知らない』。

未知の領域について、私は知っている範囲で想像することしかできない。

実際にやってみたとして、掴んだものがfakeである可能性はゼロにはできない。

しかし、やらずには、やはり何もわからないままだから、私は知りたい思うことを実際にやる以外にない。

 

私は未熟なのだろうか。

私は至らない人間だろうか。

私は能力が低いのだろうか。

 

そうではない、と思う。

というのも、自画自賛したかったわけではない。私はもちろん、まるでなっていない、てんでダメな状態だ。

私が言いたいのは「みんな、そうなんだ」ということだ。

 

立派そうに見える人も、社会で成功している肩書が立派な人も、知ったような澄まし顔をしている人も、素晴らしい技術を持つ人も、みな、『まるでなってないてんでダメな状態』なのには、変わりがない。

結局は皆知ったかぶりをして生きている。様々なことを『知らない』のが現状なのだから、多少の差はどんぐりの背比べのような違いなのである。

 

だから大事なのは、『知らない』ということを知っていて、常に忘れずにいるかどうか。

大事な違いは、この姿勢くらいなのだろう。

ソクラテスの「無知の知」は、まさにこういうことなんだと思う。

 

私はまだ忘れる。

私が『知らない』ということを、忘れる。

 

人気ブログランキングへ

【AC】今ここ、しかない。

私は無力だと思う。

あれやこれやと思いあぐねている。

それはコントロールできないものをコントロールしたいと思っているからだ。

 

元来、人には上下などない。

自分の認識が作り出す、まやかしに過ぎない。

私はよく「上からモノを言われているな」とか「お前に何がわかる」とか、正体不明の存在に対して思いやすい。

自己開示することは、相手の自己開示を要求する交換条件ではないのに。

私が洗いざらい見せているのに、何も見えないのが、おそろしく感じるのだ。

 

しかし、それは「見えない」のが恐いのであって、本当はその人は何も考えていないかもしれない。

あるいは本当に私を至らない未熟者と嘲笑っているかもしれない。

 

私は、それに関与しなくていいし、私にはどうしようもない。誰がどう思っていようと、私に対して直接はなんの意味もないということを、繰り返し思い出したい。

 

未熟者と嗤うひとは、私を「自分の経験しか材料がない」という謙遜に至らずに正しいと思って評価している時点で、まだその人のなかに解決すべき課題を抱えているだけのこと。

 

だから、この世に上下などない。

「この人はまだまだだな」という思い込みや、逆に「この人はすごい」と肩書きで恐れたりするのは、自分のなかの何かが他人をそう見せているだけだ。

自分の経験とは違う経験をして、様々な人が生きている。それはもはや、違う宇宙だと例えても過言ではないかもしれない。

だから、違って当たり前だし、上も下もない。

そもそも、比べられない。それを私はよく忘れる。

 

自分がまだ知らないことを知っていたり、よく見聞きしていても、その人の方が優れているわけではない。

また、よく知っている私が優れているわけでもない。

知る機会があったから知っている。それだけだ。

それを、求めている人に出し惜しみせず伝えられる人を今まで理解できなかったが、自分が知らなかったこと、これからも知らないことがたくさんあることを謙虚に受け止めているからだ。

だから、今まで出会ってきた尊敬すべき彼らは、自分が持っているものはごく一部であり、言葉で伝えられることは限られていると知りながら、相手にわかりやすいように骨を折って伝えてくれていたのだ。

なんとありがたい心だったのだろう。

彼らはそれがそのとき自分がやりたいことだったからやったのだろうけれど、そうありたいと思う。

自分の至らなさを知り、よく噛み締めているからこそ、他人に対して惜しまず、自己満足にならずに、伝える努力を自然にすることができる。

それが強い人であり、優しい人だ。そうありたいと思う。

 

私に問題があるから高みに至らないのだ、という思い込みは、幼少期のライフスキルが発動しているだけだと気づこう。

もうどうなとでもするがいい、と、天に預けることにする。

一切合切、自分ですら、ままならないのだ。

いわんや、他人をや、である。

自分の今までもこれからもコントロールできているように勘違いするのは、西遊記で孫悟空が釈迦の掌のうえを世界だと勘違いし、釈迦の指に斉天大聖と書いて得意になっている姿に似ている。

いくら優れた能力を持っていても、どこまでも自分すら、コントロールなどできなくて元々なのだ。

他人は別の宇宙だ。私の宇宙からどう頑張っても、変えられない。時空も空間も違うから。

私たちには、後にも先にも、限りなく『今ここ』しかない。

私にできることは、『今ここ』を楽しみ味わうことだけだ。

真剣に誠実に、向き合うことだけだ。

知りたいことを学び、感じたいことを感じる。

そのためだけに、今がある。

 

 

集中しよう。

それが生きるということだ。

 

【AC】何が正しいことかわからないけれど

『平安の祈り』というものがある。

 

神様 私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられないものは変えてゆく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
今日一日を生き
この一瞬を享受し
苦しみを平和に至る道と受け入れますように
この罪深い世界を私ではなく神様の御業として
あるがままにうけとめられますように
神様の意思にゆだねればすべてをあるべき姿にしてくれると信じられますように
私はこの世を生きて幸せでしょう
神様と共にあることにこの上ない幸せを感じる事ができますように
永遠に
私は、素直にあるがままにあろうとすることを恐れているし、今もそれは、常に勇気が必要である。
なぜなら、そうやって生きてきて、私は多くの人に嫌われたし、親にも苦しそうな顔をされてきたから。
素直にあるがままに、自分の気持ちや考えを話すことは、私の精一杯の信頼の証である。
私は恐る恐るではあるものの、徐々に話すようになったと思う。
ただ言いっぱなし聞きっぱなしで聞いてくれる仲間に出会い、ようやく自分らしくあることができる居場所を見つけ、回復に向けて励んできたつもりである。
他人には理解され難いことを話す前、私は手が震えるし、喉がカラカラに乾いてはりつく。
内容によっては、なんとなく受け入れられていない雰囲気を感じることもある。
それでも、私はそうでしかない。
私はそれでも、『私』を話すしかない。
正しいだけの道を歩もうとして、無理をしてエチルアルコールで脳を壊し身体を壊した。
私は正しさだけでは生きられなかった。
だから、私はあるがままにあるしかないし、棚卸しをし続けて、己の本質をさらけ出し、己の内面を見つめ直し、自己受容していくしかない。
それを貫くとき、主義主張が違う人にはもちろん出会う。
私は、それぞれの主義を貫いて生きたいように生きていく権利が誰にでもあると思っている。
私は、ブログを書きたいように書いている。
誰に宛てるでもなく、頭に浮かんだことを書いている。
私のそのままをかける場所として、とっても貴重で神聖な場所が、このブログである。
私は、私がここに書くことについて、誰にも遠慮したくない。
誰かに配慮したり、気を遣ったりした瞬間に、私の言葉は私そのものから離れていく。それではやる意味がない…書く意味がない。
私を含む誰の心にも届かないモノに成り下がる。それだけはやりたくない。
私は今日何が書きたかったのか、実はよくわからない。
うまくやろうとすると、だいたい凡ミスをする。配慮したつもりがアダになる。
うまくやろうとするから、うまくいかないのだ。
疲れ果てるまで繰り返そう
違う

上手くやろうとするんじゃない百回でも千回でも

初めてのように

何も持たない赤子のように


『バガボンド』 第33巻 内側の音楽 より

毎回、初めてのように繰り返し繰り返し。
その積み重ねのなかに、しっくりくる感覚がある。それが体に染み込むまで繰り返す。
心臓のように、生きることに忠実に素直に、拍動し続けていたい。
たぶん、正しいかどうかではないのだろう。
自分を生きることに真っ直ぐにあろうとするなら、軸はそこではない。

剣に生きると決めたのなら正しいかどうかなどどうだっていい感じるべきは楽しいかどうかだ

『バガボンド 』第32巻 無刀だとかの類 より

感じるべきは、楽しいかどうかだ。
私はそれを、薬物依存でもなく、プロセス依存でもなく、健全でナチュラルな世界で見つけて感じることに、真っ直ぐでありたい。

【AC】信じることの難しさ(コントロールを手放す)

私は、「結果主義」的で「完璧主義」的な傾向があります。

私はなぜそのような傾向をもったのでしょうか?

そこには、コントロールというACの課題が見え隠れしています。

 

負けるのも中途半端も大嫌い

私は硬式テニスをやっていましたが、シングルスが大好きでした。

ダブルスが大嫌いでした。

なぜか?私以外の人間(ペア)がミスをすると、とんでもなくイライラするからです。私に落ち度がないのに、失点するのが、我慢できませんでした。シングルスは楽です。勝っても負けてもすべてが自分のせいだから。

そんな私とペアを組まされた運の悪いプレーヤーはみんなテニスが嫌いになりコートを去りました。

仕事も、チームでやるのがとても嫌いです。

議論が前に進まないとイライラしますし、合理的でない理由で足を引っ張られると、本気で会社からいなくなればいいのにと思ったりします。

私は、真剣勝負だと認識していることになると、絶対勝ちたいし結果を出したいので、自分のミスも他人のミスも許せないのです。

 

任せた自分を責めるから、任せたくない

結果負けてしまったり、結果が理想通りではなかったりした場合、私は自分をひどく責めぬきます。

数十年の人生のなかで、相手を責めたとしても何も変わらないことはようやく理解しました。

だから、なぜこんな未熟な人間に私は大事なことを任せてしまったのか、己の見る目の無さを責めるようになりました。

「自分ならこんなイージーミスはしなかったのに」

「自分ができるキャパシティを持っていれば、任せる必要がなかったのに」

「お前が能なしで仕事量が少ないから、こんな出来損ないに任せる羽目になったのだ」

と。

なんと窮屈でイヤな人間なんでしょう。笑

私はこんな人と仕事でタッグを組みたくない。文字通りミスを許されない環境では、人は委縮します。そしてミスをしやすくなる。まさに、自分で自分を締め上げているようなものです。

これでは、結果や完璧はどんどん遠ざかっていきます。本末転倒です。

結果って、コントロールできるものなのか?

やると決めたことを止めるのも嫌いなんです。

やるならとことん最後までやりたい。

途中で邪魔されるとキレそうになるというかキレます。

とにかく他人の都合で予定や結果を変えたくないのです。

私はASD(自閉症スペクトラム)の傾向から、変更や中断が恐ろしく嫌いです。

 

でもちょっと立ち止まって考えることには、

それだけじゃないんじゃないだろうか?

これは、「私には結果がコントロールできる」という、私の過信からきているんじゃないか?

ということです。

 

確かに今まで私はそれなりにやってきてきて、そこそこ良い結果を出していたのでしょう。

しかし、他人に任せざるをえなかった時点で、今この時にはキャパオーバーだったというのが事実です。

自分だけの予定で世界が動いていない以上、完全に自分のイメージ通りにタイムテーブルを動かすことは不可能に近いのも、事実です。

ひとりではできない、ひとりでは完結しない事柄のほうが、残念ながらこの世の中には多いのです。

 

12ステップ・プログラムをしていて最近思うことには、「私は、実はコントロール出来ないものをコントロールしようとしていたのではないか?」ということです。

実は、「誰にも結果はコントロールできない」のだとしたら、どうでしょう。

できるのは、最高の準備の努力。自分ができる範囲内の慎ましやかなことだけ。

当初は80%は自分の能力が招く結果で、20%ほどが運の要素なんじゃないかと考えていた私ですが、20%ではなく、実は80%以上が、コントロールできないことなんじゃないか、と思うようになってきました。

本当は割合が逆なんじゃないか、ということです。

そう考えると、なんだか初めて手放せる気がするのです。

 

そもそも、何もどうにもならない

なんだ、どうにもならないじゃないか!

だって、20%しか関与できないんです。結果はすべて私のあずかり知らないところで決まると言っても過言ではない。

そう、生き死にと同じように。

結果は、世の中ではさも個人の力量であるかのように讃えられ持て囃されているけれども、実は80%の様々なものに助けられて実現しているのではないか、と思うのです。

この時代にこの国に生まれたこと。

発達障害を持ったこと。

アルコホーリクになったこと。

苦い経験をさせやがった憎い人たち。

簡単には一位になれなかったこと。

人を愛すること。人に裏切られること。

 

全部に感謝、なんで綺麗事は言いません。

だって、今でも殺したいほど憎い人たちがいます。

許されるのなら同じ苦しみを味わわせてから惨殺したいし、全員を許す必要などないと思っています。

許すかどうかは、わたしたち各々、当事者にのみ主導権があります。誰に何を言われようとも、それは変わらない。それだけわかっていれば、私たちは安心して気持ちを見つめ直し、処理することができるのです。

 

まとめ:良い意味で、潔くあきらめよう。そして信じよう。

もはや、私たちに出来ることは、生まれた時点で限られていて、与えられた20%を精一杯「楽しむ」ことこそ、全力でやるべきことなのだと思うのです。

 

結果を出すことではなかったのだ、私たちがやるべきことは。

結果を出すことではなかったのだ、私たちがやりたいことは。

 

大好きな漫画の『バガボンド』。

この沢庵和尚の言葉が好きです。

 

「お前の生きる道はこれまでも、これから先も天によって完璧に決まっていて、それが故に完全に自由だ。根っこのところを天に預けている限りは…。」(『バガボンド』第29巻より)

ようやく、この言葉の意味がわかった気がします。腹落ちしたという感じがします。

 

ハイヤー・パワーを信じるということ。

己の無力さを認めるということ。

 

私たちは完全にあらゆることをコントロールできないが、だからこそそれを受け入れさえすれば、本質的にありようは完全に自由で、だから楽しむことが最も重要なのです。

 

では何を信じるのか?

結果ではないなら、私たちは何に達成感や信頼感を持てばいいのか?

 

世の中には、すぐにわかりやすく顕れる幸せと、すぐにはわからない後になって顕われる幸せがあると考えています。

私の人生は、たしかにそのことを証明してきたように思います。

私の親はクソみたいな毒親だし、なりたくて発達障害になったわけではない。アルコール依存症にだってならなくていいならなりたくなかった。

毎日毎日苦しかった。それが事実です。

しかし、私たちはその苦しみの中、今日いま、なんとかここまで生きてきました。

そのなかで、苦しみがあったからわかることが増え、与えられなかったから有り難みに気づいているのではないでしょうか。

すぐにはわからなくても、後になって、今もしわかりやすい結果に結びつかなくとも、いつか、自分の人生の中で光り輝く時がくると信じることができそうです。

真の信頼とは、そのような各々が持つ『幸福への引力』(ハイヤーパワー)を信じ頼ることなのだろうと思います。

 

他人に命運を預けることは、恐ろしいです。

とてつもない痛みを味わう結果になることを恐れてしまうものですが、それは自然なことで、恐れながらもなお、味わうすべてのことが、いつか良い方向につながる、ということを信じることなのだろうと思うのです。