どん底を経験して、今死なないならとにかく生きるしかない、ということで回復に向かって真剣に生きてきて、今思うこと。
死なないで生きてみる
やっぱりアルコール依存症は苦しかった。とても、二度と経験したいものではない。
ただ、苦しんだけど得るものがあったし、この病にかかることで導かれるようになってたんだな、と思うことがある。
途中で強制的に終わらせなければ。死ななければ、物語には続きがある。
人生とは何か。そのことを深く考えさせられる。そういうはっと目が覚めるような感覚を何度も味わった。
生きなきゃ、損だということかもしれない。
まだまだいろいろあるんだろうから。
上映している映画を途中で退席するようなもんだ。
私は、この人生という映画を、もったいないからまだまだ観たい。
生きることに真摯であること(内的なハイヤー・パワー)
私は最近になって、自分の力ではどうにもならないことを経験をした。
他人の考え方や生き方をどうにかすることなど、どれだけ近かろうと他人にはできはしない。
自分で気づかなくては、何も伝わらないこともある。言葉で伝わることは限られていて、真実や回復というものは、感じるものなのだと思う。
どんなに願っても、ならないもんはならないんだな、と思う。
自分もそうだった。頑なだったり、必死だったり。自分しか見えていなかった。今もまだまだそうだとも思う。
そんな自分が、今こうやって、何かの巡り合わせで回復に向かっている。
そう考えると、やっぱり、何か大きな見えない力が働いていると感じる。
真摯にやっていれば、諦めずに向き合い続けたら、ゆくゆくは同じところに繋がるものなんだと思う。
その己が持つ『真摯さ』は、己の自我を超越していながら内在している「自分を超えた大きな力」。つまり、『内的なハイヤー・パワー』なんだなぁって思う。
大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。
各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。
最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。
つまり、己のなかにいる『神』と言ってもいいだろう。それがハイヤー・パワーの一つであると思う。
回復しよう、よくなろう、という誠実な気持ちは、生きることを諦めない限り必ず常に己のそばにあるし、世界そのものであるがゆえに、信じられる。
それを、『神』を信じる、ハイヤー・パワーを信じる、と表現するのだと思う。
祈りとは信じること(外的なハイヤー・パワー)
「依存症が回復するかはぶっちゃけ運」
「家族が回復できると祈ることも運」
という言葉を聞いて、最初は少しだけ違和感があったのだが、結局そうなのだと最近はとても肚落ちする。
コントロールすることなどできない。己に誠実に真摯に向かい合うことしかできない。
それでも回復に向かうはず、と信じることこそ、『祈り』なんだと思う。
『祈る』ことは信じることなんだなと思う。
信じようって言えるのは、自分がそうだからだ。今までもそうだし、これからもそうだから、可能性を体現している。
私の場合、あんなにどうしようもなかった奴だったのに、これまで偶然にも生きてこられて、大事な仲間ができるんだから。しかも回復に向かうんだから、あらゆるひとにとって回復の可能性はゼロじゃないと信じられる。
絶対大丈夫とは言えんが、ゼロじゃないなら、終わりじゃない。
俺ができることはちっぽけだけど真摯にやってたら、何かが何処かに繋がってることが、往々にしてある。
だから安心して、誠実に自分に向き合い続ければいい。そしたら、川が海に流れていくように、外的な「自分を超えた大きな力」にしたがって、信じるとおりになっていくのだと思う。
その安心感が、『外的なハイヤーパワー』なのだと思う。常に自分とともにある。それは川が川であるために土手があるように、自分と一体になっている世界そのものだから。
つまり、ハイヤー・パワーとは、外在的な安心でもあり、内在するオーダーメイドな神でもあるのだと思う。
まとめ:きっと、大丈夫。
いつ、そういう風に信じることができるようになってきたのだろうか、と考えてみる。
アルコール依存症になって、向き合って生きるか、諦めて死ぬかどっちか選べって状況になった。
今日。まだ死にたくないから生きる決意をして、とにかく真剣に、一日、また一日とがんばって今に至る。
そしたらいろいろ、時間がかかったけど、今まで見えなかったものが見えてきて、今こうして生きてることや、回復を実感するときがある。
そんな、パズルのピースがぴったりハマったような偶然に、感謝の気持ちがこみあげてきて、ふふふ、と笑いがこみ上げてくることがないだろうか。
それこそ、どこの誰だか知らないが、天や神に、祈りたくなる。今までのすべてにありがとう、って祈りたくなる。嬉しいときの方が、祈りたくなるのは私だけだろうか。
自分自身の人生を生きる。その覚悟と、実行と、感謝。
その素晴らしさと有難さが、生きている喜びの実感そのものだと思う。
絶対信じられなかったもんな。
酒をやめ始めた時、また笑う日が来るなんて。
毎日毎日我慢して、いずれ死ぬと思っていたのに。
そんなゾンビみたいなのが、2年経てば、わりかし笑うんだから、大丈夫。
そう、きっと、みんな大丈夫なのだ。
私が信じられるくらいだ。ハイヤー・パワーは、信じてもいいものだと思う。