今回は、抑圧された性 について棚卸していきます。
抑圧された性 とはどんなもの?
■抑圧された性(セクシュアリティー)■
気がついてみると、わたしたちの他の人たちーとりわけ親しい人たちや、情緒的に親密になりたいと思っている人たちーに対する性的な感情は、混乱していて不確かです。わたしたちは、自分の性的感情が、不自然で異常であると考えるようにトレーニングされてきました。
自分の感情を他の人たちと分かち合わないので、わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、健康な態度を育てていく機会がありませんでした。わたしたちが小さい子どものとき、子ども同士で身体的な性的探検をして、厳しく罰せられたかもしれません。与えられたメッセージは「性は汚い、話すべからず、避けるべし」というものでした。またわたしたちは、コントロールを喪失していた親か近親者に、性的に辱めらていたかもしれません。
その結果、わたしたちは、自分の性的役割について居心地が良くありません。私たちは、誤解されたり、見捨てられたりするのではないかと恐れて、パートナーと性について自由に話しません。わたしたちは愛をセックスと取り違え、無差別に自分の体を与えたり、あるいはハグ(抱擁)が欲しいだけなのにセックスに同意したりするかもしれません。
親として、わたしたちは性について自分の子供に話すのを避け、そうすることによって、彼らが性的同一性を発展させるためには指導やモデルが必要なのだ、ということを否定しているのかもしれません。
抑圧された性によってわたしたちは次のようであるかもしれません:
●罪と恥を感じる
●道徳観を失う
●自分の性的同一性について混乱している
●好色である
●嫌な気分を避けるためにセックスを使う
●冷感症または不能症を経験する
●誘惑するような行動で人を操る******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
77Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)✨この本の購入はこちらからできます✨
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お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします
水責め
私の性的欲求は、実に倒錯しています。
特に「管理」ということに性的興奮を感じます。
たとえば、水責め。
私は、高校生のとき拘束されて溺れさせられるAVを見たことがあります。
複数人に足をつかまれて、何度もプールに沈められます。飲み込んだ水を吐くので精一杯で、呼吸できず、やがて失神します。
身体がチアノーゼで紫色になり、水をホースでかけると痙攣します。その姿を見て、AV男優たちが笑っています。
「もうやらないからね」と言いながらストーブのある部屋で少しだけ優しくされます。
そこで涙を流しながら「怖かった」と縋り付いているところに、再びAV男優が来て、「嫌だ嫌だ」と泣き叫ぶAV女優を再び水責めにします。そしてまた苦しみぬいて失神します。
もはや、拷問です。
私は、いじめられていました。
何人もの男子生徒に手足を羽交い絞めにされ、トイレの便器に顔を沈められたことがあります。
鼻に入ってくる汚水。呼吸ができなくて、「やめて」と叫んでもゴボゴボというだけで届かない。相手が飽きてくれるまで、決して終わらない地獄。
その時の苦しみを、私は快感に変換しないと耐えられなかったのではないか、と思います。
息をすることを「管理」される恐怖。生きることも死ぬことも相手に委ねなくてはならない絶望感。そういう不自由を強いられることに、性的興奮を感じます。
拷問
私は、ドMなのかといえばそうでもなく、ドSの側面もあります。
たとえが難しいのですが、漫画に似たような描写が2つあります。
ひとつは『幽☆遊☆白書』で、飛影が躯に送ったバースデープレゼントです。
幽☆遊☆白書(第18巻) 魔界統一トーナメント (ジャンプコミックス) [ 冨樫義博 ]
もう、最高のバースデープレゼントですよね。
プレゼントしたものは、昔、躯を奴隷にしていた奴と、鞍馬から貰った寄生植物と融合させて作った花(笑)です。
切ってもすぐ再生して死なないが、痛みは感じるといったかなりエグいものです。脳を破壊しない限り、半永久的に、対象に生き地獄を味わわせることができます。
一家に一鉢ほしいところです。
もうひとつは、『天上天下』の颯又左が、兄を「飼っている」シーンです。
妾の子として颯家にきた又左は、兄にいじめられ、しょんべんをかけられて馬鹿にされたりします。父親は実子である兄のほうをかわいがり、又左は存在を認めてもらえませんでした。
ある日、幼い又左は憎しみに耐えかねて兄を襲撃しますが。父に阻まれます。
その後は、性格および性癖は異常かつ残忍に成長。自らに従わない高弟達を惨い方法で殺したり、従うことを拒否した「八楰」を拷問した上で火あぶりにして殺したりします。
そうして邪魔者をすべて殺して当主となった又左。
憎き兄を、地下室に指を爪ごと一本一本釘で拷問椅子に打ちつけて管理しています。手足の指を骨に沿って限界まで割いた状態で固定し、経管栄養で生かしておいている兄が、いまなお8年経っても、言葉にならないうめき声をあげて苦しんでいるシーンがあります。
【中古】 天上天下 第10巻 / 大暮 維人 / 集英社 [コミック]
それぐらい、しますよね。うんうん、わかるわかる!とすごくスカッとする爽やかなシーンだと思います。
殺すなんて生ぬるい。死にたい、死なせてくれ、と哀願するくらいに追い込んでからが勝負。死ねない地獄を味わわせるところからが本番、ということをこの作品はよくとらえていると思います。
興奮して話がそれました。
つまり私は、生死与奪を「管理」される、という苦しみを快感だと思っている節があります。
「管理」を性的欲求に変換した理由
なぜなのかな?と思い思考を巡らせます。
性的虐待を受けていたわけではありません。
両親が変態だったわけでもありません。
しかし、ここには心当たりがあります。
自分の感情を他の人たちと分かち合わないので、わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、健康な態度を育てていく機会がありませんでした。
私が本当に感じる性的快感や、興奮する事柄についてひたすら隠してきました。
おそらくこういうものが一般的に興奮するんだろう、ということで、友人が貸し借りしあっていたAVを試しに借りてみても、興奮できませんでした。
愛のあるSEXを映像化したようなノーマルなものには私の性的センサーは反応しませんでした。
それを話すと、仲間外れにされると思いました。だから、分かる振りをしていました。
父と母が性交している場面に出くわしたとき、両親はひどく狼狽して、その場を誤魔化し、とても情けなくみえました。
私はとてもよくないことを目撃してしまったような気がしました。そのことについて特に翌日何もなく、私はあまり両親が性的なパートナーであるということは触れてはいけないことなのだと思うようになりました。
与えられたメッセージは「性は汚い、話すべからず、避けるべし」というものでした。
まさにこれ、ですね。
その結果、たしかにわたしは、自分の性的役割について居心地が良くありません。
「管理」というキーワードで、法に抵触するような性的欲求を持っていて、それは常に満たされることはありません。
オーガズムに達することはできますが、最もやりたいプレイをしているかといえば、そうではないという感覚があります。
呼吸や生死をコントロールされる、ということへの性的興奮は、おそらく、幼少期に「耐えられない」と感じた苦痛を快感に変換して、無理やり緊急対応したのではないか、と思います。
私は母親の過干渉で、何もかも決められ、私の意志は尊重されませんでした。あらゆる決定は自由にできませんでした。まさに「管理」です。
いじめにより、実際に呼吸ができない恐怖を味わいました。力に屈服させられる経験。これもまた悪意のある「管理」です。
そういった「管理」による苦しみは苦しみとしてとらえると耐えられないものだったのでしょう。私は、その苦しみを、快感に置き換えてしまい、性的倒錯を引き起こしたということなのではないか、と分析しています。
抑圧された性からの回復 とはどんなもの?
□抑圧された性からの回復□
自分を愛する気持ちと、自分を気遣う能力を増大させてくるにつれて、わたしたちは自分の体と自分の性的な欲望を正常で自然なものと認め始めます。
他の、自分自身を愛し、大事にしている健康な人たちを得ようとするときに、わたしたちは愛や好意をより適切に表現し、また求めるようになります。
何かや誰かに関わることを恐れる度合いが小さくなり、情緒的、精神的、性的に、健康な人間関係に入っていく準備が、以前より良くできています。
感情や欲望や弱さを分かち合うとき、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすくても許せるようになります。
わたしたちは、自分や他の人が「完全」でなければならないという必要・欲求を放棄し、そうすることによって自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。
わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、子供たちに正直です。わたしたちは、彼らの健康な性的同一性に対する必要と同様に、情報に対する必要をも受け入れます。
自分の性(セクシュアリティー)を受け入れると、わたしたちは次のようになり始めます:
○自分の性的な必要について適切に対話する
○親密な感情を分かち合う
○自分自身の性的な必要を考慮する
○性的な自己を受け入れる******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
78Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)✨この本の購入はこちらからできます✨
https://aca-japan.org/docs/books.html
ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします
私はこの性癖を、後ろ暗い、あまり話すべきではないものだと思ってきました。
しかし、自助グループで勇気を出して性癖について打ち明けてみて、わたしだけが倒錯した性的欲求をもっているわけではないんだ、ということがわかり、とても安心しました。
感情や欲望や弱さを分かち合うとき、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすくても許せるようになります。
わたしたちは、自分や他の人が「完全」でなければならないという必要・欲求を放棄し、そうすることによって自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。
まさに、この通りでした。
性について話してはいけないものではなかった、ということを理解すると、私は、自分が醜い特殊で異常な性癖をもった『劣悪な人間』だという自己否定をせずに済みます。
私が性的に興奮することについては、由来があるもので、私の人間としての質を下げるものではないということは、私を安心させます。
性においても、我々は『理想的で完璧でなくてもよい』のです。
だから、私は安心して、子供が何に興奮しどんな性的欲求を持っていたとしても、否定せずに傾聴することができそうです。
わたしたちは自分の性(セクシュアリティー)について、子供たちに正直です。わたしたちは、彼らの健康な性的同一性に対する必要と同様に、情報に対する必要をも受け入れます。
そして、彼らが興味を持ったとき、隠したり誤魔化したりすることなく、丁寧に情報提供する必要を受け容れ、保護者としてできるサポートをすることを認めることができます。
まとめ:性癖はいろいろあってもいい
この記事を書くにあたり「異常性癖」と調べてみると、実に様々な性癖が出てきます。
なんだ、自分だけが変なんじゃなかったんだ、って思いません?
いろいろな性癖があっておもしろいし、当然なんだなと思います。
だってこれだけたくさんの人がいて、顔かたちや異性の好みだって様々なんですから、一緒なわけないですよね。
そういう安心感を、このセッションでは感じられた気がします。
性癖に限らず、「これって自分だけで変なことなんじゃないか」と思うことも、話してみると意外に受け入れられたりするもので、そういう風に打ち明けてもらえると、他の人が話しやすくなるのかもしれません。私は他の人の話を聞き、話しやすくなった人の一人です。
自分が性的なマイノリティーで、差別されるのではないか、と考えると怖いのは、ものすごくよく分かります。
だから、心の安全が担保される場所で、信頼できる仲間にだけ、まずは話してみることをお勧めします。