【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑩(世話焼き)

今回は、世話焼き について棚卸ししていきます。

世話焼き とはどんなもの?

■世話焼き■

他人の世話を焼き、問題を解決し、必要を満たしている限り、私たちに自分のことを見る時間はありませんでした。

この性質が著しいものになるにつれて、わたしたちは自分のアイデンティティー(自己同一性、自分が何者であるかについての確信)を完全に失いました。

子どものとき私たちは、自分が到底取り扱えない他人の関心や問題に責任を取ることを当然のことと思ってしまい、その結果、普通の子ども時代を過ごすことができませんでした。

わたしたちは課せられた非現実的な要求と、わたしたちが「小さい大人」であることで時たま受け取った賞賛は、自分は神のような力を持っているのだと私たちに信じ込ませました。

他人の世話焼きをすることは私たちの自己評価を押し上げて、自分が無くてはならないものだと感じさせました。それはわたしたちの人生に目標を与えました。

世話焼きとしてわたしたちは、自分が必要だとしばしば保証されるような混沌とした状況にあるとき、最も快く感じます。

わたしたちは、他の人たちは取るだけで与えてくれないとよく恨みますが、わたしたちは、与え方は知っていても、受け取り方を知らないのです。—わたしたちは、他の人たちがわたしたちの世話をしてくれるに任せることができないのです。

わたしたちには、適切に自分の世話をする方法を教えてくれるモデルがありませんでした。

世話焼きとして、わたしたちは次のようであるかもしれません:

●自分をいなくてはならない人にする
●人々を救い、助言する
●自分自身の必要を無視する
●自分のアイデンティティーを失う
●罪悪感を感じたり、不適当であると感じたりする
●共依存になる

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
61Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
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自覚がなかった「世話焼き」に気づく

あまり関係がない、と思い込んでいましたが、よくよく読んでみるとあてはまるところがあるACの項目だと思いました。

 

子どものとき私たちは、自分が到底取り扱えない他人の関心や問題に責任を取ることを当然のことと思ってしまい、その結果、普通の子ども時代を過ごすことができませんでした。わたしたちは課せられた非現実的な要求と、わたしたちが「小さい大人」であることで時たま受け取った賞賛は、自分は神のような力を持っているのだと私たちに信じ込ませました。他人の世話焼きをすることは私たちの自己評価を押し上げて、自分が無くてはならないものだと感じさせました。

というのがありますよね。

私は小さい頃は特に、夫婦関係が不安定な我が家で、密かにぶっ壊れることを願っていました。反面、この不安定な家で母親の感情に対する世話を焼くことで、自己評価を押し上げていたようです。

そして、私はいなくてはならない人だと、必死に思おうとしていました。

だから、あんなに嫌だったのに、嫌だと言えなかったし、言わなかったのです。

なぜなら、家庭が不安定でないと、私の存在価値がないからです。

母親が、友達がいなくて、家族しか親しい人がいなくて、私を頼ることを、心のどこかで心地よく思っていたことに吐き気がします。

しかし、それは私が役割として望んでいた面があることを認めます。

「小さい大人」として褒められた経験は、甘美なものでした。

しっかりしてるわね。いい子だね。賢い子だね。

こういう褒め言葉をもらえるように、大人が振舞うように振舞い、私は両親が誇れるいいコでいることが、いつも私の目標でした。

本当はそんな風に振舞いたいわけではなかったはずなのに、自分のアイデンティティーを失い、他人の必要を満たすことで代用しました。その間は、他の人に認めてもらえない本当の自分を見なくて済んだしそんな自分に向き合う苦しみから、逃れることができたからです。

そのように本質を歪めて他人に合わせることで甘い汁を吸って成長してきた私は、大人になっても同じようなことをしていた、と今棚卸しをしていて気づきました。

「こんなにやってあげたのに」

「こんなに組織のためにがんばったのに」

私はよくそうやって憤り、組織を恨み、会社を恨み、上司を恨んできました。

わたしたちは、他の人たちは取るだけで与えてくれないとよく恨みますが、わたしたちは、与え方は知っていても、受け取り方を知らないのです。—わたしたちは、他の人たちがわたしたちの世話をしてくれるに任せることができないのです。わたしたちには、適切に自分の世話をする方法を教えてくれるモデルがありませんでした。

という部分を読んで、頭を抱えました。

取るだけで与えてくれない、ってよく言ってました。図星でした。

それは、他の人たちが世話をしてくれることになれていない(親がしてくれる世話は一方的で私の気持ちを考えないという点で迷惑だった)、親は世話をしてくれという状態だったし、自分の世話をする方法を知らなかったのだな、と気づきました。

思えば、自分がどうすれば心地よく、独りでいられるかについて何も選択肢がなかったからお酒に一直線になったわけだし。

自分に配慮し、自分の世話をできないのに、組織の課題や、仕事のアラを見つけては、それを修復しようとしたり、それによって軋轢に悩まされている人について気をもんだり。

それは立派に世話焼きで、私の認知の歪みでした。

 

出会った当初、妻に「世話焼き」をしていたのではないか

私は最初、妻に会ったとき、彼女に同情したように思います。

経済的に豊かではなく、幼少期に母親に一度出ていかれて寂しい思いをしたと聞きました。直近の彼氏(子持ち)を追いかけて地元を離れて出てったにもかかわらず、モラハラをされて泣く泣く地元に戻ってきたことも、とても不憫だと感じました。

私がもっている、私にとっては酒を買うことにしか使わないこのお金を、この人のために使ったら、よほどよいのではないか?

喜んでくれるし、俺を必要としてくれるのではないか?こんな俺でも誰かの役に立てるのではないか?

その気持ちがあったことを認めます。存在意義を確立するために、妻からの感謝をほしがっていたことを認めます。

だから、私が妻にとってNo.1でなければ我慢ができないと考えて、義母を大切にする妻が、あのとき許せなかったのでしょう。

こんなにわたしは尽くしているのに、というのは、世話焼きですよね。

実に自分本位で、失礼な発想だったと言わざるを得ません。妻は私なんていなくても、お金なんてなくても、今この時をしっかり楽しむ人であるのにもかかわらず、要らない同情をしたように思います。

そんな人だから、私が持っていない輝きを持っている人だから、人として尊敬している、というそれだけでよかったのに。「私が」認められたくて、感謝されたくて、必要以上に何もかも差し出そうとしてしまっただけでした。この生きづらさは、他ならぬ『私の歪み』だった、ということです。

「相手のため」という隠れ蓑を使って子どもに欲しい反応をさせようと無意識であったとしてもコントロールしようと、私の半生に暗い影を残させた両親と同じ歪みでした。

だから、こんな「私はこんなに家族のために尽くしているのに」という考えに繋がってしまうのだな、と思います。尽くすのは、私がしたいからすることであって、私が身を粉にするほど尽くさなくても、愛情をもって接してさえいれば、みな縁に導かれて、それぞれの幸せを見つけて生きていくのです。

いまそういう押しつけがましい気持ちがないのは、本当にACから回復してきているからなんだな、と思います。押しつけがましい気持ちというのは、義母に対する恨みとか、妻に与えてくれないと憤ることとか、1年前に持っていた、そういう暗い気持ちのことです。

人はそれぞれにハイヤーパワーをもっていて、それぞれにとって最も重要なのは、

わたしたちは、人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利(良い状態にあること)と幸福であることを実感して了解します。

という部分なんだとわかるにつれて、私は自分そのものを知ったり見たり、そのままを受けいれるのが、最近うれしいと感じます。

 

世話焼きからの回復 とはどんなもの?

□世話焼きからの回復□

わたしたちが、他人の世話焼きをする人の役割から降りるにつれて、全ての人、全ての事柄について責任を感じている度合いが段々と減ってきて、一人一人が自分の道を見つけるに任せるようになります。

私たちは他人を、彼らの導き、会い、支援の最良の源である、彼らのハイヤー・パワーの配慮に委ねます。

すべての人の必要・欲求に応えようという重荷をおろすことによって、わたしたちは自分自身の趣味や生活スタイルを発展させる時間を見つけます。他人の世話をすることについての強迫観念は、わたしたちは究極的には他の人たちの生き方をコントロールできないのだ、という事実を受け入れることに置き換えられます。

わたしたちは、人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利(良い状態にあること)と幸福であることを実感して了解します。

他人の世話を焼く人であることを止めるにつれて、わたしたちは次のようになっていきます:

○他人を救い、助言することを止める
○自分自身を配慮し、世話する
○助けることについて限界を置く
○自分自身のアイデンティティーと興味を発展させる
○依存的な人間関係を認識する

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
62Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

✨この本の購入はこちらからできます✨

https://aca-japan.org/docs/books.html

ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

 

まとめ:最も重要なことは、他ならない私が「私をど真ん中で生きる」を一番最優先するということ

私は、親との関係から歪んで、私以外の私の周りのすべてが上機嫌で幸せであることに、責任があると思い込んできました。

それらは「変えられないもの」で、私の力の及ぶ範囲ではないし、責任の範囲ではありませんでした。私は任せるべきだったし、それでこそ相手を尊重するということだったのだと実感します。穏やかな気持ちで、相手の決断を考えることができます。

 

最近、チームであるプロジェクトを担当しているのですが、誰も助けてくれないことに私は憤り、嘆いていました。

これまでの私は、自分ですべての事柄について完璧にこなさなくてはならない、と思って、全く付け入るスキを与えてきませんでした。

何かを手伝ったり、手を加えたりする必要を訴えるスキがないのに、他の人が積極的にかかわろうとするはずもありません。私が他人のハイヤーパワーを信じて任せることができなかったから必然的に私は独りでやっていたのです。

当然の帰結でした。

これも一種の世話焼きで、

わたしたちが、他人の世話焼きをする人の役割から降りるにつれて、全ての人、全ての事柄について責任を感じている度合いが段々と減ってきて、一人一人が自分の道を見つけるに任せるようになります。

という回復の姿の逆なんだな、と思うと、かなり関係が深かったと思います。

私は自分自身に配慮して、自分を上機嫌にすることに、人生のリソースを最も注ぐことが、最も責任感のある行為だったと、自分の常識を改めます。

助ける事じゃない

修復することでもない

他人が助けてくれないと嘆くことでもない

私がどうしたいか、できる範囲の中で何をするか、それだけが気にするべきこと。

そうすると実に気持ちが軽く、心のキャパシティーが広がったような気持ちになります。

私はもっと自由にしてよかったし、傷つくかどうか、幸せかどうかは、当人がきめる権利も責任もあり、私がやってきたのは越権行為だったのだと思います。

そういう過干渉・世話焼きを少しずつ度合いを減らして、最終的には手放し、対話している相手の決断や幸せの価値観を尊重して、最も大切にすべき自分自身を救い、配慮し、世話する、真摯な私でありたいと思います。

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