【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑧(抑圧された怒り)

今回は、抑圧された怒り について棚卸ししていきます。

 

抑圧された怒り とはどんなもの?

■抑圧された怒り■

怒りは、アダルト・チルドレンの生き方の上での多くの問題の主要な源泉です。それは、認めると自分が安全でなく感じるので、わたしたちはしばしば抑圧する感情です。混沌とした家庭で自分を守るために、わたしたちは怒りを否認するか、または不適切に表現しました。どちらにせよ、自分の感情を全く押しやってしまうことによって自分を守るほうが安全でした。抑圧された怒りは重大な恨みや抑欝につながりかねないことを、そしてそれらは身体的な症状や、ストレスに関係のある病気を引き起こしかねないことを、わたしたちはそのときには気づいていませんでした。今の時点で、怒りを否認したり不適切な方法で表現したりすることは、わたしたちの人間関係で問題を引き起こします。もし怒りを表現したらとんでもないことが起きるのではないかと恐れて、わたしたちは幸福であるふりをしているかもしれません。

怒りを抑圧すると、わたしたちは次のような感情を経験するかもしれません:

●恨み
●自己憐憫
●ストレス・緊張
●不安
●抑欝
●悲しみ
●集中力を欠くこと
●身体的な不快

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
57Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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怒りは、制御できないので感じてはいけないと思ってきた

これ全部あるんですよね。

怒りを抑圧すると、わたしたちは次のような感情を経験するかもしれません:

●恨み
●自己憐憫
●ストレス・緊張
●不安
●抑欝
●悲しみ
●集中力を欠くこと
●身体的な不快

私はとっても根に持つタイプです。自分も他人も簡単には許すことができません。幸せそうな人間すべてが憎いと感じる日もあります。

自分を持たざる者として嫌いで哀れんでいて、常にストレスや緊張がつきまとう日常を過ごし、不安や抑うつ気分でうつ病を患っています。

悲しい思い出が幾度となく頭のなかに蘇り、リフレインする悲しみを繰り返し味わいながら暮らしています。

周囲の物音や声に怯え、やるべきことに集中することができない日の方が多く、だるく重い身体を朝起こすのは至難の業ですし、長らくアルコール依存症で常に酔っ払ってたので、嘔気・悪心・振戦などの身体症状がありました。毎日ストレスでネクタイを締めると嘔吐していました。一回吐いてから出勤、がデフォでした。

まさに、絵に描いたような抑圧された怒りを抱えて不具合を起こしている、という意味で、ステレオタイプのACだと言えます。

 

なぜ怒りを抑圧したのか?

私は怒りたくない、と思ってきたように思います。

それは、怒りというのは全く制御できない、苛烈で犯罪も厭わないほどの強烈な感情で、持て余す感じがすごくあったからです。

ひとたびこの怒りをストレートに感じてしまったら、私は怒りの対象の人を殺してしまうかもしれない。

殺さないまでも、暴行を加えて犯罪者になってしまうかもしれない。

そういう恐怖がありました。

極めて冷静でいなくては、私はこの社会で生活できなくなってしまうような「社会不適合者」なのだ、と自分を認定していたと思います。

だから、人を嫌いになることが、恐怖でした。特に人に対して、怒りを向けることが怖かったのです。

だから、人と必要以上に距離を縮めることを良しとしませんでした。近づいたら、嫌いになる可能性が高くなります。それは、安全ではない、と考えていたのです。

だからどんどん人とは一定の距離を置いた関係しか築けなくなっていきました。

もしもその人を嫌いになってしまったら。

その人が地球上に存在しないことを願ってしまう。

同じ空気を共有したくないほどに、憎み恨み激しい焦燥感にかられます。胸を掻きむしりたいような不快感。もどかしくて叫びだしたくなるような、血が逆流して頭が冷たくなり背筋がゾクゾクするような感覚。

 

これらは、社会から迫害されていた幼少期に特に感じてきたと思います。

いじめっ子の主犯格を特定して報復したことがあります。

彼は足が早かったので、行動力を削ぐ必要がありました。

だから、ランドセルに大切なもの(その子の母親が作ったその子がお気に入りの給食袋)が入っていることを確認して、そのランドセルを足で叩き潰した後、池に投げ入れ、取りに行かせて、戻ってきて岸に上がろうとするところを足で何度も蹴り落とし、報復しました。

先生が来て止められてしまいましたが、私はそのとき、殺し損ねたな、と思いました。

目障りなその子をほんとうにこの世から消してしまいたかったです。残念でならず、その日は泣いたように思います。彼に報復するチャンス(命)を与えてしまった、せっかく絶好の機会だったのに、逃してしまった、と。

しかし翌日彼は怯えたような顔で私を一瞥して、その後はイジメはなくなりました。拍子抜けしましたが、面倒ごとがなくなってスッとしました。

 

 

 

私の怒りは何に対するものなのか?

本当にずっとずっと我慢していきてきました。

親から要求されることをこなすのも、日々の生活を送るのも、刑務所で服役しているような気持ちでした。

生きるのが義務だから、いい子でいるのが義務だから、そういきていかなくてはいけない。すべてが義務でした。

だから、本当は全てに「嫌だ」と言いたかったのでしょう。

でも言えなかった。

最も大きな要因は、両親から愛されるために「嫌だ」というのを諦めて、友達をつくりたい、好かれたい、という気持ちから「嫌だ」というのを諦めたからでしょう。

好かれ愛され生きていることを許されるためには、嫌だということを諦めなくてはならない、と思っていたのです。

なんというさびしい思考でしょう。

生きていくことは我慢でした。それがとんでもなくストレスで、そのストレスに対する怒りがどんどん蓄積されていったのです。

つまり、私にとって生きていくことは怒りをどんどん貯蔵していく行為であり、貯まりに溜まった「怒り」という不良債権に怯えて、存在してはならないとひた隠しにするようになりました。

自分が生きていくためには、大きすぎる怒りを認めてしまっては、とても平静ではいられないと恐れ、抑圧しました。

それは、無理がありました。

事あるごとに怒りは、私の心を蝕み、楽しい気持ちを萎えさせ、悲しい辛い記憶を繰り返し再生して、その存在を認めろ、と訴えてきます。

どんどん生きづらくなり、人に本心を告げられなくなり、不良債権がどんどん大きくなるにつれて、エチルアルコールという薬物の力を借りなくては、立っていることすら困難になりました。

それが、アルコール依存症になり、うつ病を患い、いま生きている私という人間の正体です。

 

 

抑圧された怒りからの回復 ってどんなもの?

□抑圧された怒りからの回復□

怒りの適切な表現方法を学ぶことは、わたしたちの回復の大きな段階の一つです。そうすることで他の隠された感情を解放することが早まるかもしれないし、わたしたちの傷や失望を他の人にもっと早く分かってもらえるようになるかもしれないのです。わたしたちは自分に限界を定め始め、正直になり始めます。怒りをより適切なやり方で表現するようになるにつれて、わたしたちは他人の敵意だけでなく、自分の敵意とも、それまでよりは上手に付き合えるようになります。自分を表現する事で気持ち良さを味わい始めるにつれて、わたしたちの人間関係は改善され始めます。ストレスに関係した問題は減少していき、体が健康になったように感じさえします。

抑圧された怒りから回復するにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:

○怒りを適切な仕方で表現する
○怒りの底にある気づいた感情を見定める
○自分自身に限界を置く
○内的な平和を楽しむ
○ストレスと不安を減らす

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
58Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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今まで、抱えた怒りを表現しても認めてくれる場所があるということを感じられなかったことが、とても不幸なことだったな、と思います。

それは私にはどうしようもないことでした。環境に対して、私は今も昔も無力です。

だから、怒りを溜め込み二進も三進も行かなくなった自分を、自己責任だと責めることはもうやめようと思うのです。

私の怒りは、ごく当たり前で正当なものだった。

否定しなくても良い、自然な感情だった。たとえそれが殺人につながるほど禍々しく大きく醜いものだったとしても、それを育てたこの数十年、私は生きるために一生懸命やってきた。

怒りの根本にあるのは、寂しさです。

私は寂しかったのだと思います。

私はそのままでいたかった。ありのまま生きていくことを、せめて両親にだけは理解して欲しかった。数人でいいから、理解し合える「友達」に「わかるよ」って言ってほしかった。

それすら叶わない自分が嫌いで、消してしまいたかった。

でも消すことも理解してもらうこともできなかった。

だから、その寂しさは怒りになり、私の中に残ったのでした。寂しさのままで蓄積したら自分が壊れてしまうから、攻撃性としてある意味人生を生きるエネルギーに変換しようとしたのかな、と思うと健気なところもあるじゃないか、と思えます。

『私の怒りを、誰よりも私自身が肯定する』ということが、私をもう一度再構築するうえで最も重要なことだと自覚しています。

私は他人が憎いです。どいつもこいつも嫌いで、いっそのことみんな死んでしまえと思っているときもあります。道に出ればだいたいイライラするし、夜は眠れないほど頭にきて叫ぶときもあります。仕事中に営業車のなかで喉から血が出るほど叫んだり、手に青アザができるほど車を打ち付けて内装が壊れたりします。メールに血の気が引くほど頭にきて、攻撃的な返信をしたりします。

そんな私を否定しない、ということはとても勇気がいります。

こんな自分はとても堪え性がなくて、DVをしそうな、社会的に見るととても危険な人間に見えるからです。

つまり「外から見ておかしいかどうか」で感じていいかどうか判別して、都合の悪い自分は見ないようにしてきたのは、他でもない自分だった、ということです。

他の誰でもない、自分自身が一番自分を否定しているから、抑圧していたのではないかしら。抑圧した怒りは無尽蔵にどんどん巨大化していったのはなかったかしら。

私は結局怒りを認めたとき、自分自身の認知の歪みにたどり着くのです。

「上述したようなイカれた人間が自分だ」と認めたくないのは私だったのであり、つまりこの私が認めさえすれば、抑圧してきた怒りは許され、抑圧する必要がなくなる、ということです。

だから、今こそ私はこの醜いどうしようもない劇しい怒りでドロドロの自分も、私という人間の一つの形なのだということを認めます。

 

まとめ:人間は醜い

そんなに、綺麗なだけではいられませんよ。みなさん。

人間はとても醜いです。

とても浅ましくて、愚かで、救いようのないカスみたいな存在です。

大好きなアニメに

落ち着け?落ち着いていた結果がこれだろうが。

疲れてる?みりゃわかんだろうが。

というセリフがありますが、まさに私は今これを仕事で感じています。

世にはびこる薄っぺらいアドバイスが如実に表している通り、所詮、他人は自分のことしか大事じゃありません。私も、私しか大事じゃない。それをうまく笑顔と嘘のオブラートに包んで隠して皆暮らしているのです。

嘘ばっかり。

私は自分にも他人にも期待しすぎていたようです。

もっと良いものであるはずだ、と。そんな淡い期待は持っているだけ無駄だということを、そろそろ認めたいと思います。

自分の限界、つまり人間の限界を認める、ということは、つまりそういう醜さを内包している『人であることの限界』を認めることなのかな、と思います。

それでも、生きていく。人間という情けない醜い生き物として、泥を啜りながら生きていく。

それは、それだけで尊く、悪ではないと確信することができたなら、私は怒りから解放されます。そうあれかし。

 

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