雑談」カテゴリーアーカイブ

【雑談】この狂った世の中で大切にすべきこと

今の世の中は基本的に狂っていると思う。

人の命を摘み取ることが平然と行われているし、その歪んだ社会に生きる人も病んでいる。

社会不適合者というが、そういうふうに社会から蔑まれている人たちほうがまともなんじゃないかと思う。

 

今の社会に適合している人は、どこか麻痺している。

経済的な成功を追いかけたり、他人の評価を追いかけたりすることが称賛されて、自分が成功するためなら他人を踏みつぶしてもかまわない。

そんな人間味のない生き方に疑問を抱かない。

あるいは疑問を持つと生きていけないので、あえて考えない、感じないようにしている。

そんな、もともと麻痺しているか、あえて麻痺している人であふれている。

 

追いかけている成功というのも、とても不確かなものだ。

お金をたくさん稼いだから偉いかといえば、そうではない。

お金は必要最低限あればよいもので、持ちすぎると毒になる。

他人の評価を得ているからといって、それが正しさの証明になるわけでもない。

他人が見た自分というのはどこまで行っても虚像であって、自分自身ではない。

自分のことは、自分でもわからない。ましてや他人がよく知るわけもない。

よく知りもしないのに、見たいように見て、好きかって言っているだけだ。

そんな幻想をどれだけ良いものにしようと躍起になっても、虚しい。

砂浜で砂の城を一生懸命つくっているようなものだ。いずれ波にさらわれる。そうでなくても時が経てばもろくも崩れ去る。

追いかけて、自分の努力のおかげで手に入れられたように錯覚できると、幸せを感じるだろう。

しかしそれは、すべて運のなせる業で、自分の功績のようで誰かの何かのおかげだったりする。

 

世の中のあらゆることはほとんどコントロールできない。

偶然生まれたこの世の中が狂っていることは、私のせいではない。

たまたま私が生まれて、たまたま世界が狂っていただけ。

世界をどうこうしようとはしないことだ。

社会を変えようなどというのは非常に傲慢なことだ。

私は私が思うところを、どれだけ弾圧されようと正直に率直に伝えるだけだし、非暴力不服従で自分の在り方を貫くだけだ。

結局、変えられるものとは自分自身のありようだけなのだ。

他人がどう思うか、どう動くかは、他人の範疇のことで、私にはどうすることもできない。

私ができるのは、ただ良心に従ってできる範囲の手助けをすることだけ。

家族に対しても、仕事でも、すべてがそうだ。

「助ける」というのはおこがましく、私が関わって何かをしたらその人が「勝手に助かる」。

私自身の影響というのはそれだけちっぽけで脆弱なものだと思う。

その人そのものが持っているエネルギーは計り知れない。

そのエネルギー、存在するだけでとてつもない価値もっていることを、その人が見失っているだけ。

 

その原理原則を忘れて、自分が他と比べて強大だと思い込むと、過干渉をしたり病気になる。

人間である限りその個体に大した差はなく、比べることはばかばかしい。

ゲームとして楽しむ分にはいいが、他者比較を生きる軸にしてしまうととても苦しい人生になる。

そういう意味では、生命活動に関わらないすべての活動は余分であり、メインではない。

生命活動とは、生命本来のやるべきこと。

食べる。食べるために種を植える。狩りをする。その命の有難みをかみしめる。

寝る。愛する人と愛し合う。肌を重ねる。存在を互いに尊ぶ。

子供を育てる。自分が庇護すべきか弱い血族を外敵から守る。

自己表現。自分という存在を外界に表現する。会話でも音楽でも絵画でもダンスでも文章でも動画でも何でもいい。自分という内的宇宙を第三者に露出すること。

大事な活動はそのくらいだ。

これらを実現するために貨幣が必要になっているのが、この貨幣経済社会なので、お金に価値を置きがちだが、本来なら貨幣によらずとも成立する活動ばかりだ。

なので、お金そのものには実は価値がない。

必要以上のお金を得るために、お金を貯めるために仕事をすると心が空虚になるのはそのためだ。

価値がないものを一生懸命集めるために人生の貴重な時間を浪費することに、心がうすうす気づいていて「もうやりたくない」と悲鳴を上げる。

それでもその声を無視し続けて頑張り続けると、次第に心の声は聞こえなくなって、空っぽになる。

 

食べ物を自分で育ててみるもの良いだろう。

家庭菜園を始めて、土に触れ草木に触れ、それを食べる喜びを知った。自分で育てて自分で調理した野菜は本当においしい。心に届く。

他人が全くいないとしたら、そんな風に想像して「本当に必要なもの」以外を手放してみるのもいいだろう。

高価な時計、良い車、ピカピカの靴、高いスーツ、ブランドのバッグ、そんなものは、特に必要がなかったことに気づく。

世界を感じられる健康な心と体があって、今日一日食べるものと寝る場所がある。

人はそれだけで充分幸せなのに、それ以上を望んで自ら進んで不幸になる。

 

まずは他人と比べるのは無意味で無価値だと知ること。その評価軸を手放すこと。

そしてお金から離れること。できるだけお金を介さないで価値を感じられる活動を増やすこと。

大好きな人に「大好きだよ」と面倒くさがらず言葉にすること。逆に他人を攻撃して自分の不安や恐れを打ち消そうとしないこと。結局は自分に返ってくる。

一日でも早く、そうするといい。

 

 

【雑談】日本という植民地に生まれて

私は青かった。

「先進国で民主主義国家の日本に生まれてなんて幸せなんだ」

今までそんなふうに思っていられた私の頭は確かに幸せなお花畑だったな、と自嘲せずにはいられない。

 

愛知県知事選挙。たった今、現職の大村秀章知事が当選を確実にした。

ありえない。

スパイクたんぱく質そのものに毒性があることが科学的に明らかになり、そんなスパイクたんぱく質を体内で大量生産するmRNA遺伝子製剤を「打って打って打ちまくるしかない」と喧伝した人物が再当選を果たす、この国の選挙とは何なのか。

この国の民主主義は機能していない。選挙で民意は反映されない。ただのガス抜きイベントである。

そもそもこの日本という国は、近代国家にすらなりきれないまま、体裁だけを整えて国家のふりをしてきた、植民地でしかない。先進国などではないのは言わずもがな。唯一の同盟国はアメリカだけで、それはつまりアメリカの属国ということだ。正確に言えば、欧米諸国の、である。戦後からずーっと、この国は彼らに植民地支配されていたといえる。

昨今の新型ウイルス感染症に関してこの国でやられてきたことと海外の動向をみていて、私のようにようやく気付いた人も多いのではないだろうか。

 

まったく意味のない感染対策を強行する行政府。それに唯々諾々と従う国民。

報じられている情報の真偽を調べようとせず、テレビだけを漫然と眺めている。

海外ではすでに訴訟が起きていたり、推奨されなくなったりしていることを全く知らずに「ルールだから」「国が決めたから」と思考停止。

そりゃ滅びるよなと思う。義務教育により物言わぬ家畜としてしっかり調教してきた成果が顕著に表れている。

かつて、社会学者の宮台真司氏が「日本人の劣等性」について論ずるのを、正直忌々しい気持ちで聞いていた感覚があった。

「日本人を馬鹿にするな、私たちはそんなふうに劣等種族と馬鹿にされる存在じゃない」という反骨精神というか、抵抗感があった。

しかし、今となっては彼の主張に同意せざるを得ない。

現実がそうだからもう反論の余地がない。

かといって私は欧米諸国が優越性をもっているとは思っていない。しかし、厳然たる事実として、日本の民衆のこの有様はとてもじゃないけど優れた先進的な国家とは言い難い。

 

今、世界は第三次世界大戦の最中にある。

しかしそう思っている人が、この国にどれほどいるのだろうか。

ウクライナの凄惨な状況は、ロシアのせいだと思っているのだろうか。そして、遠いところのまったく関係ない出来事だと思っているのだろうか。そう遠くない未来の日本だとは、想像しないのだろうか。

日本は同じような災禍にみまわれると予想している。

経済制裁の名のもとにロシアのエネルギー資源を断ち自らの首を絞めて滅びゆく欧米諸国の、一時しのぎの悪あがきのために。彼らはもはや軍需産業で経済を支えるしかないから、武器を消費するために今度は中国にケンカを売るだろう。この極東の植民地が戦火に飲まれるのは目に見えている。

だからこその「マイナンバー制度」であり「緊急事態条項」であり、回転ずしチェーン店の炎上騒ぎである。

超監視社会の実現、全体主義の徹底により、人的資本としてしっかり金儲けに役立てられるよう、原住民はよく躾けて管理しておかなくてはならないからだ。

この国はそう遠くない未来に国家として成り立たなくなる。つまり滅びる。

 

超過死亡がとんでもないことになっている。

しかしマスメディアではそんなことは報じない。広告主の不利益になるようなことは言わない。というか言えない。

 

一時期、依存症の偏見を是正したいとメディアに集団訴訟をすることで、偏向報道に声を上げるべきではないか、と考えていたことがあった。なんて青臭い発想だろう!穴があったら入りたい。とても恥ずかしい。世の中のことを何も知らなかった。

既存のメディアはどれも基本的に「報道機関」ではない。広告塔だ。そんな高貴な役割を期待してはいけなかった。私はまずそれを理解すべきだった。

そんな、ただの広告媒体にいちいち目くじらを立てなくてもよかった。わかる人にはわかる。マスメディアを鵜吞みにして信じるような思考能力の低い人たちに、本質的なことを理解する能力は期待できない。わからないなら勘違いさせておけばいいだけの話で、そんなくだらない人々に誤解されていても痛くもかゆくもない。

だから裁判で訴える必要すら、元からなかったのだ。どうせ損得で世迷言を垂れ流しているだけの紙屑なのだから。信じるバカは放っておけばよかった、それだけの話だ。

子供に「お前は○○だ」と突っかかられて、本気で腹を立てる人はいないだろう。何も知らないのだから仕方がない、と本気で受け取らない。

大人に「お前は○○だ」と突っかかられて頭にくるのは、その言い分が真っ当であるはずだという信頼があるからだ。つまり、言われていることを事実と認めているから、腹が立つ。

メディアという広告塔が広告として報じている内容を事実だと思う己の誤認から、メディアに人権侵害をされたと感じてしまうだけで、出鱈目をいっている子供だとわかっていれば、本気で受け取らないし、腹も立たない。

世の中のことをある程度見えている人には、わかってもらえているのだから、それだけでよい。元来、それ以上は望むべくもない。

 

超過死亡の話に戻ろう。

この国では今、あの東日本大震災があった時期よりも大量の人間が、死んでいる。これからさらに増えるだろう。原因は言わずもがな。数年前から国民がこぞって注射したmRNA遺伝子製剤に他ならない。ウイルスによる感染症が原因ではない。説明がつかない。

そういう現状を踏まえても、物理的にこの国は人口減少が進み、機能不全に陥ると考えている。

そうした状況に危機感をもち、京都大学名誉教授の福島雅憲先生や大阪市立大学名誉教授の井上正康先生らが、厚労省に対して訴えを起こしている。

まだこの国を見限っていない、本当に心が清い人々だな、と思う。

損得ではなく良心に基づいて行動できる人というのが本当の賢者だが、福島先生や井上先生がまさにそれである。

こういう大人でありたいなと思う。

 

陰謀論者だと馬鹿にする人もいるだろう。

勝手に馬鹿にすればよい。

この国が言っていることより、陰謀論と揶揄される類の考察のほうがはるかに信ぴょう性がある。

陰謀論とレッテルを貼られて嘲笑を浴びてきた人々の言うとおりに、ディストピアに向かってこの世界は転がり落ちているではないか。

つまり、陰謀論とはもはや誉め言葉である。隠したいことが明るみにならないための印象操作として貼られるレッテル。

 

私は最近、世界が裏返ったような感覚をもつことがある。

私が今まで教えられ信じていた常識や世間や社会情勢というのは、基本的にまるっと虚構でしかなかったと思う。

当時尊敬し畏怖した大人たちは、無自覚かつ静かにこの社会を腐らせていたにすぎず、この地獄を残しただけだったのではないか、と失望したりする。

社会に適合できない自分がダメなんだと思っていたけれど、こんな腐った社会に適合できるほうがどうかしていて、私はまともな感性を失わなかったから、うつになったり依存症になったりしたんじゃないかと思う。

日本という植民地に生まれて、私はこの気づきを得た。逆境を経験して突き抜けることができた。

そういう点では、この国に生まれてよかったと思う。この地獄のような環境に感謝するとすれば、そこだろう。

【雑談】ちょっとガス抜きさせてください

最近、いつの間にか一日が終わっている。

いろいろなやりたいことがなかなかできないまま、日々が飛ぶように過ぎていく。

もう7月も後半とかウソでしょ?ウソって言ってほしい( ^ω^)・・・

 

やりたいことを書きだしてみる。

〇会社設立(正確には妻を個人事業主としての、共同事業の立ち上げ)

・事業デザインの精査

・場所探し(居抜き物件で放課後等デイサービスができるような建物)

・仲間探し(保育士さん)

〇現在の勤務先での従業員ネットワークのイベント準備

〇動画編集の勉強(Youtubeで啓発活動を始めたい)

〇社会福祉士としての活動

・リワーク施設への訪問

・児童発達支援事業所への訪問

・地域医療連携室の精神保健福祉士のみなさんへの訪問

〇発達支援の勉強(ASD・ADHD・LDなどの発達障害の子どもたちへの支援資格取得)

〇代表理事をやっている任意団体の活動内容更新(ブログ整理)

〇農業

・畑を借りる

・家族が食べていけるだけの食べ物を自給自足できる準備する

〇資産を金に換える

 

いっぱいできていない。

つらい。

正直、もう仕事はどうでもよくなってきている。

もう全然興味がなくなってしまった。

とてもやばい。けど、それが本心なのでしょうがない。

 

薬って、そもそも飲まなくて済むのであれば一番いいものだと思う。

異物だから。

どうしても必要な人に届けばいいのであって、全体のマーケットは小さくなるのが最も世の中にとっては良いこと。

ましてや西洋医学の理論で開発された化合物など、なおさら使わなくて済むならそのほうがいい。

そもそも、今回のmRNAワクチンの件に端を発して、私は西洋医学に基づく薬理学的な理論に懐疑的になってきている。本当にこれは人のためになるのだろうか?と疑っている。

今回はあからさまにバレバレなやばい代物だったから明るみになった。

でも、よくよく振り返ってみると、子宮頸がんワクチンやインフルエンザワクチンも、似たような物だと私は思う。

ということは、私がよかれと思って科学を信じて宣伝してきた高血圧症治療薬や糖尿病治療薬や睡眠薬や脂質異常症治療薬は、もしかすると全然必要のない、むしろ毒でしかなかったのではないだろうか。そういう恐ろしい予感に背筋が寒くなる。

私は、また人を不幸せにするような仕事に加担してしまったのではないかしら。

 

一番最初に携わった太陽光発電システムの営業、マテリアルリサイクルの営業。

これらの世界を環境問題に取り組むという「良いこと」だと思って飛び込んだ。

しかし蓋を開けてみれば、仕事の内容は詐欺に近かった。

中国から取り寄せた安い太陽光パネルを利用して、国産メーカーに競合したことは、国内の電機産業を衰退させる手助けをしたに過ぎないし、太陽光発電システムそのものがそもそも環境に良い製品ではなかった。

いや、環境問題そのものが、でっち上げられた架空の課題であり、そもそも解決する必要などないものだった。

私は大学で何を学んだのだろう。

環境経済学という学問は、世の中の本質にリンクする学問ではなかった。

倫理の教科書に強く惹かれた高校時代の自分の感性を信じて、哲学を専攻すべきだったと思う。今古典哲学にのめり込んでいるのは、本当はそれが知りたかったことで、深めたかったことだったからだ。

「社会で成功しなくてはならない」

「高収入を得られる仕事をしなくてはならない」

そういう世俗的な価値観・親の期待に惑わされて、やりたくもないことを嫌々やってきた結果が、今の仕事だ。

正直、全然面白くない。

 

元々お金に無頓着で、あれば使うだらしない人間だった。

無ければ無いで、道草を油で揚げて食べたりして糊口をしのいでいた。

そんな大学生活だった。

わりと金が無くても人ひとりで生きる分には何とかなるものだ。

お金に全然興味を持てない。

ACとしての恐れと不安から高収入を条件に仕事を選んできたけれど、実際はそこまで私の価値観のなかでは大事なものじゃなかったんだと思う。

つくづく失敗した、と思う。

 

会社の皆はお金が大好きだ。

どこどこでいくら売れたとか、売り上げが伸びているとか、嬉々として語る。

「〇人の新規処方が確認できました!」とかSMSで毎日飛び交っている。

それは、病んでいる人がたくさんいるということで、薬が必要なほど苦しんでいる人が見つかった、というだけではないだろうか。

喜ぶことじゃないんじゃないだろうか。

そりゃたくさん売れれば会社で褒めてもらえて、あわよくば昇進・昇給、ボーナスが何百万ももらえるかもしれない、という期待に胸が膨らむんだろうと想像はできる。

でも、会社が褒めてくれることって、そんなに喜ぶほど価値のあることだろうか。

会社は、命令を着実に遂行してくれる「人間をやめた歯車」がほしくて、日夜洗脳に余念がない組織である。自分たちの洗脳が功を奏して無事に生まれた「優秀な歯車」に対して、賞賛を送るようにできている。

ということは、会社に褒められる、というのは、「お前は使い勝手のいい歯車だな!いい感じに人間やめれてて素晴らしいぞ!」と言われているのとイコールだ。

それ、うれしいの?

私は嬉しくない。馬鹿にすんなと思う。

そんな人をコケにした真意を知ってか知らずか、私以外の人々は組織内での地位と名声と権力を求める。

私も、自分が自分としてありのままで充分に価値のあるいっこの存在だと認めきるまでは、それらの外部からの承認を喉から手が出るほど欲しがった時期があった。

だから気持ちは分かる。

不安な心の穴を埋めるための、対症療法。

依存症と一緒だ。

社内で上昇志向をもつ人間は一見パワフルで健康的にみえるし、いわゆる「レベルの高い」人間と錯覚されやすいが、実際は病んでいる依存症者と同じだ。

つまり私たちと同じ。アディクトの仲間だ。

だから、彼らを侮蔑することも、下に見ることもない。

私がそうだったように苦しんでいるんだな、と思うだけだ。

特に干渉することもないし、否定することもない。

 

しかし、彼らとしては、私のような思想と行動は容認しかねるようだ。

売上のためにもっと人格を削ぎ落してでも、あくせく働いてほしいそうだ。

自分たちと同じように。

だから、私が数字に無頓着だと「意識が低い」とか「やる気がない」とか言って心のなかで馬鹿にしだす。

心のなかでどう思おうが、その人の自由なので、それはよいのだが、「自分たちと同じ歯車になれ」と集団同調圧力とコントロールを働かせてくるところは、看過しがたい。

私は私で、私のやり方でこの仕事のなかで実現したいことがある。

それは、結果的に会社が社会的信頼を取り戻し、提案を受け入れてもらえる手助けになると思う。

会社にとってメリットがあることをやっているつもりだ。

私は不必要なところに提案することはないが、必要だと感じるところには薬剤の使用を一つの手段として提案することはある。

その提案を採用して実際に使うかどうかは、先生方の判断だし、患者さんの意向もあるだろう。その領域は、私たちにとって「変えられないもの」なので、絶対に侵害してはいけない。

しかし信頼関係があれば、勘案してくれる可能性は高い。

役に立てるかどうか、その観点で誠実に可能な範囲で接することが私たちがやるべきコトであり、唯一できることでもある。

私はそう考えているので、「MRには会いたくない」という先生の所に無理して会いに行ったりしない。

会わないことで薬剤の最新情報や私という社会資源と出会えないリスクを踏まえてその判断をしているわけだから、その責任はその先生がとればいい。私は関係がないし、その生き方を変える権利も義務もない。その判断を尊重する。

ただ手は差し伸べ続けるし、必要とあらば時間を取る。可能な限り丁寧に対応する。

 

このコロナ騒動で先生方としては「コロナだから」という黄門様の印籠を手に入れた。

MRを締め出すには絶好のチャンス。今までうっとおしい夏の夜に蚊帳の中に入ってきたやぶ蚊のようなMRを、やっと院内から追い出すことができた。

今まで「使ってください」というお願いとそれを成就させるためにありとあらゆる詭弁を弄してきた今までのMR活動の成果のひとつだ。本来は、その残念な結果を、真摯に受け容れ反省するべきだ。

が、無謬性の神話に雁字搦めになっている製薬会社の上層部が、今まで自分たちがやってきたことが元凶だとは認めるはずもなく、数字とにらめっこしながら、頓珍漢な結論を導き出して、とにかく会えるように努力しろと現場にげきを飛ばす。

追い詰められた現場は、なんとか理由をつけて無理やり自分のアポイントをねじ込もうとする。

成功例として社内で報告されている事例も、一見うまくいっているように見えて、実は長期的に見てより関係を悪化させる一手にしかなっていないことがある。

しかし組織内では、自分たちの仮説と戦略が正しいと裏付けられそうな成功事例を欲しているので、飛びついて賞賛する。自分たちがみたいものしか見えなくなっている。

なぜかといえば、自分たちが正しいという裏付けが欲しいからだ。それをアピールしたいからだ。もしも間違っているという方向に結論が導かれてしまったら、方針を決定した責任を取って役職を降りなくてはならないリスクと恐怖にさらされるからだ。

管理職に、自身の判断が間違いだった可能性を模索する覚悟がない。自分の進退を含めての戦略的な決断ができていない。リーダーを務めるに価しない人間が配置されているからだ。

わが身が一番かわいい人たちだ。

本当は、患者さんのことなんてどうでもよくて、自分たちが組織内の椅子取りゲームで居場所を奪われないかどうかだけが、関心事だ。

そんな人たちの指示に従いたくなる人がいるだろうか?

私は従いたくない。だから理由を言って拒否している。当然煙たがられる。

 

なんとかして言うことを聞かせようとしつこく接触してくる。

それをあしらう時間がもったいない。

そういう雑事に追われて、上記に示しているような本当にやりたいことができない。

 

信頼していないからだと思う。

雇っている人たちを信頼していない。

性悪説で、人は権力者が管理しなくてはならないと思っている。そうでなくてはサボるし悪いこともする、と思っている。

会社はリヴァイアサンでいなくてはならないと思っている。ホッブズである。

信頼されていないから、従業員もまた会社を信頼しない。

不信感で繋がった希薄な雇用関係。実に空虚で暗い繋がりだ。

 

信頼して任せる。真の意味で権限移譲ができれば、もっと自由にもっと多様な価値が生まれることだろう。

それが、最終的には企業価値の最大化に最も近い道のりだと思う。

だけどそれは、恐れと不安でコントロールしたい欲望に負けてしまってできない。

まるで、ACの生きづらさそのものだ。

ハイヤーパワーに委ねられない、南無阿弥陀仏に委ねられない。阿頼耶識の声を聞けない。

だから苦しみを背負い、幸せから遠ざかることになる。

 

投資可能性は、計算可能性。

計算可能性が無ければ、事業は立ち行かない。投資できないから。

結局、資本主義の原理原則が、あらゆる人をコントロール欲求の奴隷に貶めている。

だから資本主義はシステムとして破綻していて、誰も幸せにならない。

それを証明したのが、ここ最近の1世紀の人類の取り組みの成果だと思う。

だけど、自分を守るために精一杯の人類は、この成果に気づけない。

だから行くとこまで行って自滅して、多くの価値あるものを失いつくして初めて、真の底付きを体験するんだと思う。

そこに至るまでのディストピアを生きるのは、今からとても暗澹たる気持ちになるけれど、それが私にとっても、私たちにとっても、必要な禊であり、ハイヤーパワーの導きなんだろうと思う。粛々と受け容れて今を生きていくしかない。

 

私は私で、ブレずにやりたいこと・やるべきことをやっていくよりほかはない。

やりたくないことをやれと言われると疲れてしまうので、休み休みにはなるが。

よく頑張っていると思う。

自分の心と身体に折り合いをつけながら、いくつか実現して形になってきたものもある。

今できる100%は常にできているんだ。今できる100%は、いつもの日常なのだから。

焦る気持ちやイライラする気持ちは、ある。

「仕事をやめてしまいたい。もっとやりたいことだけに集中できれば、違う未来があるのに…」と思わない日はない。

しかし、そのタラレバは、起こりえないからタラレバなのであって、私ができる事は、無理なく自然に今ココを全力で生きることだけだ。

こうしてブログに想いを書き出すことだって、一見ただの愚痴吐きのように見えるが、自分を見つめ直しやりたいことを整理することで、マインドをリブートするきっかけになった。

何もかもには意味があって、それを認識できるかできないかの違いしかない。

明日も、一生懸命楽しんで生きていこう。

【雑談】ストレスだらけの現代社会に希望はあるか

いやー、口内炎が治りません。

 

明らかに仕事(というか上司)のストレスだよなって感じです。

全く思想が合わない。

儲かればいいだけなら、オレオレ詐欺と変わらないんだよなー。

まあワクチンを取り扱っている時点ですでに詐欺会社って感じですが。

言ってしまえばインテリヤクザみたいなもんです。

私はまっとうな堅気の商売がしたいので、活動方針が真っ向から対立することがほとんど。

向こうも「やりづれぇなぁ」と思ってると思いますけど、こちらもそうなんですわ。

申し訳ないけど、異動するまでの我慢だと思ってお互い乗り切りましょうか、って感じです。

 

あー、あとは退去に伴う精算費用の訂正かな。

管理会社がぼったくってきているので、その対応が4月から今まで続いております。

よく敷金と相殺して・・・とか言いますが、基本的にはふつうに住んでいれば払わなくていいんですよ。

普段何もしないのに、退去のときには張り切って騙せる奴から騙し取るんですよね、管理会社って。

そのあたりも、正式に減額できたらノウハウを全部公開しようと思ってます。

 

私、お金って嫌いなんですよね。

ていうか、どうでもいいんですよね。

なんでみんなお金好きなんだろ。なんかと交換できるから?そんなにほしいものあるのかな。欲がすごいです。逆に羨ましいくらい。そんなに欲しいものないわ。

上司の件も管理会社の件もそうですが、思考がもう100%金のために生きているって感じで、なんかそれ虚しくない?って思います。

そりゃこの資本主義社会で生きていくには、ある程度必要なのはわかります。

でも必要最小限でいいと思うんだよなー。

損得関係なしの交流をする時間・家族との時間・純粋に知りたいことを知るための時間・自分と向き合い表現する時間、そんな時間にこそ、限りある人生を費やしたほうが、私は有意義だと思うんです。

お金にならないことのほうが、実は最も重要なこと。

 

マスメディアで報道していることは、99%プロパガンダなので、あまり真面目に見聞きしなくていいですよ。

テレビは必要ないです。捨てて大丈夫。新聞もネットニュースも、見なくて大丈夫。

誰かに何かの得があるから、記事になるしニュースになるんです。

今回のワクチンの件で、とてもよくわかりました。

だから、有名人の誰それが亡くなったとか、そんなんいちいち見に行く必要ないですよ。

人間には生存戦略のうちの危機管理能力として、不安になるコンテンツほど見に行ってしまう習性があります。

だから、凄惨な事件をテレビで流すのは、見てほしいから。視聴率を稼ぎたいからです。

それに対してコメンテーターが「こんなの許せない!」みたいな感情的なコメントするじゃないですか、報道番組って。

あれは共感させて見てもらおうっていう戦略ですね。

「恐怖」と「共感」。それがメディアの釣りメソッドだと田中玲司先生も言ってます。

ホントまさにそうだと思う。

 

ぶっちゃけ、直接会ったことも話したこともないような人が死んだって、そんなに関係ないから。

そんなこと言うと「想像力がないのか」とか「冷たい」とか、感情論で正論ぶつけてくる人が必ずいるんだけど、それは言っている本人が気持ちよくなれるから言ってるだけ。

「他人の不幸に共感できる自分は人間として素晴らしい」って思えるし、正論で他人をぶん殴るのは快感ですからね。

本当は、そんな正論をのたまう人も、ショックなんて受けていなくて、1年も経ったらスッキリ忘れてます。だいたいそうです。

だから関わる必要ありません。「自分の人生空っぽだから埋めたくて必死なんだな」って思って静かに距離を取りましょう。今話しても話が通じないので。

 

お金とエゴイスティックな欲求が絡む事象は、結局はドライな結論になっていくんです。

「自分の利益」。外側の皮を一枚一枚剥いていけば、中身はそれしか入ってないから。

だから、つまらないんだよな。

 

人間は、そんなに合理的にはできていません。

非合理な存在なのに、利益を追求して合理的な社会システムにしちゃったから、なじめなくて病んでいく。どんどん自分の人生を見失っていく。そんな感じで、自殺者が後を絶たないような現代社会ができあがっています。

なんか、依存症になる人って面白くて内面が豊かな人が多いなーって思ってたんですけど、感性が死んでないからなんですよね。

感性を殺して個性を殺して社会に適応すれば、この歪んだ社会では生きていけるんだろうけど、そんなふうに器用に誤魔化せるほど鈍くないから、酒やギャンブルでごまかすしかなかった人たちなんですわ。

以前三光病院にいらっしゃった市川正浩先生のご講演を拝聴したとき、

「依存症になった皆さんこそ、未来の希望だと私は思っている」

と語っておられた理由が、何となくわかった気がします。

私たちが依存症になるほど死と隣り合わせになってまで何かを突き詰めなければいけなかったのは、生きづらさを誤魔化しきれないほど眩い感性と個性をもつからこそ。

ダメなんじゃないんです、優れているからなるんです。依存症って。

国が「ダメ、絶対」でレッテル貼りしたかったのは、コントロールできないほどの優れた感性や個性を恐れていたから、叩きたかったんじゃないかな、と思いますね。

ダメな存在ということにして片隅に追いやって、有象無象に叩かせておきたかった。だから偏見と差別をわざわざ意図的に生んだ。

私はそんな風に思います。

 

依存症になると、最終的には「自殺するか、生きるか」の二択を真剣に選ぶことになるので、ほんと人生についてちゃんと考えるんですよね。

いい加減にできない不器用さもあり、とことん考え尽くすし、そうやって紆余曲折を経て回復すると、依存症になる前の世界の見え方とはまるで変わってる。

生まれ変わるといってもいいほどに。

本質に気づいて向き合える。

そういう意味で本当に希望なんだよなー、と思います。

 

いずれもう、この社会はダメになります。終わります。

結構もう限界きてると思う。資本主義社会は、共産主義が倒れたように、遅かれ早かれ倒れるでしょう。人を本当の意味で輝かせるシステムではなかった、残念ながら。

だから、今このシステムに合わないからって、気にすることないです。いずれ終わるんで。

社会不適合者で結構。むしろそのほうがいい。

不登校で結構。むしろそのほうがいい。

自分の思うままに生きてください。

既存の価値観はクソです。気にしないように。

 

今は生きづらい世の中ですが、なんとか耐えて、生き延びましょう。

農産物も毒まみれ、ワクチンも毒まみれ、空からは化学物質まみれ。

これからどんどん死にます。合理的思考のもと殺しにきているので、それはもうある程度死ぬところまで進まない限り、気づかないし止められないでしょう。

古代ギリシャの哲学者たちが200年以上も前に答えを示してくれていたのに、私たちはどんどん愚かになっていったんですよね。

進歩なんてとんでもない。退化以外の何物でもないです。

 

そんな感じなので、外野のいうことはあまり気にしないで、のびのび楽しく生きていきましょうね。

【雑談】迷走する製薬会社と自殺するMRたち

どことは言わないが、とある大手製薬会社は勘違いをしている。

正直、もうダメだな、と思う。

 

製薬会社が患う病

企業名という看板(ブランド)が、まだ通用すると信じている。

おそらく信じたいのだと思う。

自分たちはすごいんだ、有名企業なんだ、そのブランドでまだ売れるんだ、と。

残念ながらそれは悲しい妄想だ。

今まで主流だった生活習慣病領域や消化器疾患領域で築き上げてきたブランドイメージが、他の疾患領域で通用するかというと、そうではない。

というか、そんなわけがない。

しかも、そのかつては栄華を極めていた(らしいがその当時も二番煎じばかりではなはだ疑問の)時代は、ほぼ金でつくりあげたものだ。

接待OK、派手な講演会OK、ゴルフや懇親会などのイベント参加OK、学会共催や医師会共催なんでも肩代わりOK、東京や大阪や福岡でバンバン研究講演会を開いて飛行機代とホテル代を負担して先生たちに旅行がてら話を聞いてもらって、予算を使いまくれた。

だから、それなりに先生たちも製薬会社と付き合うことに価値(メリット)を見出していた。

MRは「飲み友達」「遊び相手」というポジションで「こいつのためだったら話を聞くか」と思わせるような愛されキャラが売れて、そういう寝技的な営業手法がもてはやされた。すなわち、とことん付き合うこと、できるだけ会うこと、とにかく頑張りを見せること。実に体育会系というか、努力・根性・やる気という私が大嫌いな成分で構成されたエリート意識である。

だから、昔は与えられた予算を使い切らないと仕事してないとまで言われた。期末はみな何とか残予算を0にしたいから「飲みに行きませんか?」と先生を誘いまくった。結果、9月と3月は連日飲み会で二日酔いになりながらヘロヘロで仕事をしていた社員がたくさんいたらしい。完全に飲酒運転じゃん。

そんな時代に一番に評価してもらえたからといって、今、この環境で同じように評価されるわけがない。

なぜなら、金も使えない、飲み友達にもなれない、自分たちの団体に出資すらできない、そんな存在は利用価値(メリット)がないから。

むしろ今までそんな泥臭い部分でしかメリットを提供できていなかったことが問題。

社員たちはみなその問題を薄々分かっていながら、腫れ物に触るように口にしない。

昔の先輩を悪く言って睨まれたくないので、忖度している。過去の人々を否定することは、上司やその上の世代を否定すること。そんなことをする社員は出世できなくなる。

現役社員は、本質的な問題には目を逸らしつつ「自分たちはブランドがある」という幻想を捨てられない旧世代にゴマを擦ってご機嫌取りしている。

現実問題として、今この会社が参入している新しい疾患領域は発足当時ひどかった。MRは素人に毛が生えた程度で、私も含め本当に役に立たなかった。周辺疾患の知識がまるでなく、現場感覚も分かっていない人間の提案を、医師が聞くはずがない。

賢いMRは、その現実を謙虚に受け容れていたので「わからないのでどうか教えてください」のスタンスで最初は製品の紹介などせず、先生方の話をきちんと傾聴した。だから生の知識を得て、提案すべきポイントを踏まえることができたので、売上の立ち上がりは遅かったかもしれないが今後を支える人材として成長した。

でも、残念ながら、現在前者の賢いMRは結構他社に流れてしまったと思う。会社に失望するのも無理はない。当初コントラクトMRとして配属されていた賢いMRも派遣切りのようにして切ってしまった。せっかくの財産を自らみすみす手放すという愚を犯した。

アホなMRは、会社の洗脳をそのまま信じて一生懸命追いかけまわして話しかけた。今まで貢献してこなかった素人がえらそうにデータがデータがと毎日駆け寄ってきたら、そりゃあもうウザくてたまらなかっただろう。先生方は本当にお気の毒様である。

賢いMRが去り、アホなMRばかりが蔓延って幅を利かせているのが今だ。

「あんまりにもしつこすぎるから、ちょっとだけ使ってしばらく黙らせとこう」と少し処方したのを「ほら!やっぱり諦めずにしつこく宣伝するのが大事なんだ!」と小躍りして喜んでいる。真性のアホである。しかしそんなエピソードが成功例として社内プレゼンされる。そしてそれを他のアホがマネする。そうやって「やってます感」をうまく社内で形に残せたMRが社内でポイントを獲得して出世する。つまりアホが出世する。

そして会社の上層部はどんどんアホばかりになっていく。実際そうなっている。

だから、過去の栄光、ブランドイメージが今も通用するなどとおめでたい発想を「偉い人が言うんだから本当なんだ」とかあまり自分の頭で考えず継承してしまうのである。

 

私が社会的意義や医療貢献を主眼に置いて発言したり企画をあげたりすると、マネジメント層は決まってこの言葉を返してくる。

「私たちはNPO法人ではなく、営利企業なので、利益が見込めなくては投資できない」

 

はいはい。株式会社ですもんね。わかるわかる。

なんていうと思っとるんですか。何を寝ぼけているんだ。

 

私たちの製品は公的医療保険で7割~9割を負担してもらっている。つまり税金である。

私たちの医薬品が売れて入るお金は、70~90%が税金ということだ。

それって、ほぼ公務員じゃないの?

ボランティアじゃやれないとかいうけど、そもそもが公益事業でしょうよ。

税金から金もらっといて、自分たちにメリットがなければ何もやりませんって、それはおかしくない?

むしろ公に奉ずるものであって、個人の利益に走っていい財務体系をしていないじゃないの。

売上至上主義を正当化したい理由は、結局、株主である投資家様にもっと稼いでこいって言われてるからでしょ。

株式会社は「もっと金をよこせ」という支配的な株主に逆らえない。でもそれが真の理由だとは言えないので「研究開発に投資するためには売り上げを上げて利益を出さないといけない」とか「営利企業として成長し続けないとみんなを雇用し続けられない」とか言って誤魔化す。

残念ながら、このとある大手製薬会社の配当性向は100%を超えている。これは何を意味するかというと、実力以上に株主配当に回しているということ。その株主配当と高額すぎる役員報酬を含めると、研究開発費と同じくらいの額になる年もあるほど高額になる。

結局、会社をおもちゃにして金を稼ぎたい株主と経営者のために、売上を割いているんじゃない。研究開発費に使ってないじゃない。つまり売上達成の目的は研究開発に投資するためじゃないじゃん。

真実をていよく誤魔化して、建前で塗り固めた大義名分を述べているだけ。

 

木を見て森を見ず

活動方針や行動そのものも、功利主義的というか、自分たちのことしか考えていないようなも戦略がほとんどだ。

「とにかくたくさん処方してもらおう」

考えているのはこれだけだ。

患者さんの為とか社会の為とか、本当は全く考えていない。

建前として毎回口にする「患者さんのため」が、聞くに堪えない。

行動計画の端々から本音がだだ漏れしているのに、いけしゃあしゃあと「患者さんのため」とかいうのを見ているこっちが恥ずかしくなる。

 

世の中にとって必要なサービスと存在であるからこそ組織は存続できるわけで、自分たちの損得しか考えない組織はいずれ滅びる。

まさに滅びの道を全速力で突っ走っているのが、製薬業界じゃないかなと思う。

 

MRは、上司を通じて会社から毎日毎日プレッシャーをかけられ「とにかく計画を達成しないといけない」「そうじゃないとバカにされるし降格されるしクビにされる」と精神的に追い込まれる。

追い込まれた人間は、とにかくその苦しみから逃れようとあの手この手で説得しようと焦る。結果をコントロールしようとする。本来はコントロールできないのに。

当然ながら、処方というのは、医師が決めることだ。

私たちはその判断をサポートをする存在だ。私たちが医師の治療方針をこちらに都合のいいように誘導して変えさせよう、というのは根本的に越権行為であり、過干渉である。アプローチが間違っている。

私たちはあくまで医師と患者さんの困りごとを解決するお手伝いをするために存在していて、そのための一つの方法として自分たちが扱っている医薬品がある。

困りごとに寄り添い、その解決を一緒に考える過程で、医師と患者さんが「これは役に立つ」とご本人が判断して利用する。

その結果、医薬品が役立ち、その副産物として売上が生まれ利益が生まれる。

その間にある最も重要な活動をすっ飛ばして、いきなり自分たちに都合のいい結果を求めるなんて、お粗末すぎる。

例えるなら、とにかく女の子とヤりたいからって会って速攻ホテルに連行しようとする、モテないイモ男みたいな感じ。

 

自分たちに都合のいいデータしか紹介しないのも、話を聞く価値がないと思われる原因。

「自分たちの製品を使ってもらう」という結果有りきなので、必然的に良かったデータしか会社は取り上げないし、自分で調べない社員は会社が教えてくれるデータしか知らない。

そうなると、MRが持っている情報は実に偏った、ご都合主義の代物になる。

そんな情報を、医師が聞きたいと思うだろうか。当然、思うはずがない。

面会してくれている医師でさえ、「はいはい、売りたいから都合のいいデータ持ってきたんでしょ」と思いながら、会社に洗脳されたかわいそうなMRを見るに見かねて、聞いているふりをしているだけだと思う。

コロナを理由に会ってもらえないのは「MRなんてわざわざ会う価値がない」と思われているからだ。コロナのせいではない。ていのいい断り文句として使っているだけ。

医師が信頼するとしたら、同じ目線で現状をとらえ、純粋に力になろうとしてくれる味方だ。

医師は科学者だが人間でもある。自分たちと同じ目線で、より良い未来をつくろうと本気で考え話をする人だから、その人の話を信頼して時間を取ってでも聞きたいと思うんじゃないだろうか。それが人間だと思う。

MRが話を聞いてもらおうと思ったら、まずは目的を根本から見直さなくてはならない。

会う目的はどこにあるのか。売りたいだけなのか、それとも役に立ちたいのか。

医師はたくさんの患者さんを診ているので、人を見るプロでもある。下心で建前だけ並べているような人間は簡単に見抜かれる。

「英語論文なら信じてもらえるかも」などと小手先で説得しようとしてくるようなMRなど、ただただ小賢しい。

しかし、たいていのMRや製薬会社はそんなことはわからない。

あろうことか「医師はプライドが高いからMRを下に見ているので、MRの話を信用しないのだろう」と自分の無能を医師のせいにしている。

何を言っているんだろうか。

自分たちが学歴コンプレックスを抱えているだけじゃないか。

医学部に合格する偏差値がなかった自分たちの歪んだ劣等感を乗り越えられていないので、医師をプライドが高い偏屈で世間知らずの人種だと蔑視してプライドを守る。この傾向は実にずれているし、嘆かわしい。

たしかに、たまにやたらえらそうな態度のデカい先生もいるけど。

医師の世界は学歴バリバリの権威主義社会なので、一定数そういう勘違いしている人が出てくるのも事実。そういう社会の仕組みだから仕方がない。

学歴社会で受験戦争を勝ち抜いた。その成功経験だけがプライドを支えていると、自分を肯定するために学歴や社会的地位で価値を測る人間になってしまう。この社会も、学校という奴隷養成施設で良い子ちゃんでいることを肯定している。お勉強ができて余計な反抗をしない模範的な歯車でいれば大人に褒めてもらえる。

周りの大人の言うことを聞いていれば、偽りの自己肯定感を得られる。

学歴カーストに隷属して褒められることを精神的拠り所にしていると、人間的に成熟することができないまま年を重ね、自信のない傲慢不遜な人間に仕上がる。

そんな残念なタイプの医師にひどいことを言われたりゴミ扱いされたりした経験から、医師への歪んだ敵意が生まれたのかもしれない。虐げられてきた過去は、同情に価すると思う。

でも、そのバイアスで十把一からげに医師全部を色眼鏡で見るのは、どうかと思う。

他人のせいにして、自分が向き合うべき課題とそれに対してできることから逃げているだけ。

特定の医師の価値観が歪んでいるとしたら、それはその人たちの問題である。私たちにはどうしようもない。

売らなきゃいけない、というのはこちらのエゴ。そのエゴが通らないからと、己のチンケなプライドや自尊心を守るために、医師を不当に見下して、MRとしての使命を軽く見た。

その結果が、この惨状だ。

 

最後に

私は、MRは必要な存在だと思う。

ちゃんと副作用情報を収集して集積し、市場を挟まず適切な使い方について科学的な情報を提供するだけで、充分に存在価値がある。

患者さんの状況は千差万別だ。一つ一つの症例に寄り添ってベストな提案ができる薬剤の専門家は、AIやコールセンターだけではできない。

現在同社のコールセンターの質は残念ながら低く、オペレーターは空気が読めない。自分ならもう問い合わせしないだろうな、という応対で医療関係者をイライラさせるので、あとで謝罪に行かなくてはならないほどだ。仕事を増やすの、本当にやめてほしい。

そういう意味でも、独特の感覚と商習慣をもつ医療機関との橋渡しは、経験豊富なMRでなくては、現状務まらないと思う。外注したり、マニュアル人間に任せられるほどこのサービス業は簡単ではない。

でも、製薬会社が今のままなら、MRは要らなくなるし、製薬会社そのものも衰退する未来しかない。

エビデンス主義や西洋医学の論理が絶対ではないことは、最近の感染症にまつわるあれやこれやで詳らかになってきた。わかるひとはわかっている。

エゴから生まれた化合物なんて飲まないし打たないよ、そんなもの。製薬会社がそんな体たらくであり続ける限り、いずれ製薬会社とかかわりを持つことそのものが経営的なリスクになる。医師を信頼できないとして、患者さんのほうが離れていくだろうから。

もう遅いかもしれないけど。

【雑談】仕事ってつまんないよね

仕事をしながら生きていくのって、しんどいですよね。

働かなくていいなら、金のことなんて気にしなくていいなら、どんなにいいでしょうか。

生きるのに金が必要な資本主義経済社会では、何でも金金金カネ…。

ひどくつまらない、価値観が固定された、いろどりの希薄な社会だなと思います。

 

会社で働いていて私が思うのは、金や権力が好きで、あまり深く物事を考えない人間ほど、この社会は生きやすくできているということです。

 

仕事とは一種のゲームです。

金を集める。そのためにいろいろな手練手管を使って目的を達成する。

結局はこれだけの遊びです。

仕事に意味なんてない。人生における意義もない。金儲けが目的のレベルではね。

心から顧客の役に立とうなんて考えて仕事をしている人は、ごく一握りだし、そう思っていても組織内のプレッシャーに負けて手前勝手な都合を押し付ける営業をしてしまうことがほとんどです。

結局は我が身大事で、他人のことなんて心の底では気にかけていない。

そのくせ、「顧客のために」とか「社会のために」とかきれいごとを並べます。

だから言うことが薄っぺらいし、所作は偽善がにじみ出て、どこかうすら寒い。

私が仕事で社内の人間と会うだけで疲弊するのは、こういう「気持ちが悪いもの」を見せつけられる気持ちがするからでしょう。

 

私は会議に出るだけで翌日まで人と話をしたくなくなります。

そんな元気はまるでなくなってしまうのです。

意味のない、ただ自分の欲望を実現したいだけの分析や考察を長々と聞かされるだけで、うんざりです。胃もたれします。

素直にそういえばいいものを、聞こえがいいように、耳障りの良い言葉に置き換えてしゃべるから、脳が混乱するので、気持ち悪くなります。

 

「建前」って、本当に気持ちが悪いんですよね。

ADHD・ASDだからかもしれませんが、本音なのか嘘なのか、冗談なのか本気なのか、人と会話しているといつも測りかねます。

たとえば妻は発言の内容に冗談が80%くらい含まれていますが、出会った当初は冗談で言われた『いじり』に対して真に受けて「なんてひどいことをいうひとだろう」と思ってました。(笑)

思えば幼少期から、いわゆる『いじる』という感覚がよくわからなくて、発言一つ一つに傷つきながら苦笑いを浮かべていました。「冗談だよ」といえば、どんなひどいことでも言ってないことになるのか、と解釈違いをして、辛辣なことを言ってしまい他の子を泣かせてしまったり、怒らせてしまうことがありました。それからは「私には『いじる』というのは高度過ぎてできない芸当だ」と戦線離脱してただ横で調子を合わせてニコニコしたりウケたふりをしたりするモブに徹しました。

正直、なんてこいつら笑ってんだろ?って思ってまったく楽しくありませんでした。友人との会話って、そんな感じです。

一定の役割をやって、起承転結というか、序破急というか、オチをつけてという一連の作業。それには、なんの新規性もありません。

冗談を言い合える程度に「自分と相手の仲が良い」ということを確認するための儀式なのだろうか。それは、不安を埋めるための児戯にすぎないのではないか。何も生産的ではなく、新たな驚きもなく、不安を見て見ない振りをするために他人と自分の時間を犠牲にしているようにしか思えなかったのです。

結局人間はひとりなので、どれだけ仲が良いと錯覚していようとも、それは確かめようがない。相手が腹の底でどう思っているかなんて、定量的に測ることはできない。

つまり、それを確かめようがないのだから、気にしても仕方がない。

私が確かに相手を好きで、愛しているのなら、それを伝えることしかできない。それは人間なら誰しもそうでしょう。

 

話がそれましたが、つまり「建前」を言われるとそれを信じようとする脳みそを持っているので、とても困るわけです。

本当はそう思っていないのに、そう思っていると錯覚してしまうから。

顧客のためというので、顧客のためになることを真剣に考えたら、ドン引きされますからね。

「いやいや、お前何マジになって慈善事業しようとしてんの?ビジネスなんだから金儲からなきゃダメでしょ」

っていうんですけど、いやいやそれなら「どんなことをしてでも金を稼ぎたい」って言ってくれよ、って感じなんですよね。

どうせ金がほしいだけなら、変なおべんちゃらくっつけんなよ、と。

程度の違いだけの話であって、金が欲しくて顧客をコントロールして売りつけたいだけなら、オレオレ詐欺でもなんでも結局はやってること変わらないじゃん、と。

そう思っちゃいますね。

だから会議で「建前」言われるの、すごく疲れます。

「といってますが本当は?」と考えながら聞かないといけないの、イライラするんですよね。

社会人向いてないなーって思いながら、途中からぼーっとしてます。

 

金儲けっていうゲームは、つまんないんですよ。私からすると。

なぜかというと、この世のものはいくら集めていくら所有権を主張しても、結局は世界のモノであって、自分だけのものではないからです。

この世にいる間借りているだけ。どんな富豪もどんな偉人も、金や権力は本当はその人のモノではない。全ては脈々と引き継がれてきた生命の歴史の一瞬を切り取ったに過ぎないので、その一場面で金を持っていたり権力を持っていたりするのって、虚しいことなんです。

たとえば、みんなで使うコップがあったとして、それに水がたまたまたくさん入っていたとしますよね。

それを、そのときたまたま使う順番だった人が、「俺のコップに俺の水がたくさん入ってるぜ!」と言ったとしたら「はぁ?みんなのコップだし、たまたまたくさん入ってるだけじゃん」ってなるでしょ。

そういうことです。

この世に存在するものは全てが有限で、誰のものでもない。

誰もが必ず死ぬし、死んだら持っていたものは誰かの手に渡るだけだし、そんなものに執着しても何の意味もない。

って考えると、金は必要最小限だけあればいいし、無理して社会に認められたり何かの称号を誰かに授けてもらう必要なんてないし、他人にどう思われようが好きに思わせておけばいいわけです。

だから、出世には何の意味もないし、職場で人望があるかないか、上司や同僚に好かれるか嫌われるか、はどうでもよい問題で、私たちの貴重な時間の大半を割くほど優先度は高くない。

そういうわけで、根本的に仕事って、意味ないしつまんないんですよね。

だけど、この世の大半の人は、そういうつまんないゲームを寝る間を惜しんで時間を投資するほど好きだったり、人生を見誤るほど熱狂している。

それを私はなんとなく眺めていて、変わってんなーと思っている。そんな感じです。

 

「じゃあそんなにスレてるあんたが、価値があると認めるものって何なのさ?」

と言われれば、今このときをあるがままに生きることだ、と答えます。

なんのために、とかない。誰のために、でもない。

絶対感によって無条件で生きること。

これには価値がある。

つまり、仕事というゲームにいそしまなくとも、社会不適合であろうとも、充分に人生には価値がある、ということです。

あるがままに生きていて、ワクワクして、何かやってみようと思いたつ。

その先に人生を通じて感じるべき、生命の歓喜がある。

もちろん楽なことばかりではなくて、何かをやってみよう、ここまでやってみたい、という己の目指す場所にたどり着くためには苦しみはつきものですし、時につらく苦しく光を浴びない側面がともなうことから、何も知らない他人には、上京が悪くなっているようにも見えたりします。

「あいつは道を踏み外した」「あいつはエリートコースから外れた負け組」と、仕事ゲームに夢中な人は、歓喜を道しるべに生きる人に、そんなことを言うかもしれないですが、勝手に言わせておけばいいのです。私からすると、見当違いも甚だしいのですが、彼らには彼らの価値観があり、それは良くも悪くもない。彼らの人生は、彼らの人生です。がんばって、彼らなりの価値観で一生を全うしてくれればそれでよろしい。私の人生には深く影響しない人たちです。

今あるものを失うことを恐れて「でも○○してからにしよう」とか「○○になったら損だからやめておこう」とか、そういうふうに自分のまごころを裏切っていると、雁字搦めになって、結局他人の道具としてやりたくないことをやるだけの人生になってしまいますよ。

その現実を見て見ぬふりをしたくて、「仕事こそ人生だ」とか「社会人は働いて社会に貢献する必要があるんだ」とか独自の価値観を他人にも強要したがるようになってしまうのです。余計なお世話なんだよね。それはあなたが今に不満があるのを、見て見ぬフリしたいだけでしょうが。そっちの問題こっちに押し付けてくんなよ、って感じです。

無条件で生きる、というのは、そういうことです。

「○○したら○○しよう」なんて勝手に条件を付けない。

やりたいと思ったら、それが正解なんです。

むしろそれだけが、耳を澄ませるべきことなんです。

正論や常識なんてどうでもいい。あんなのはゴミです。

生きているという確かな感覚は、ワクワクドキドキを感じる心にしか宿らない。

 

自分の心に素直に生きるって、この世ではどんなことよりも難しく、どんな鍛錬よりも厳しい道なんですが、本来はそのために、私たちはリソースを割くべきなんだよな、というお話でした。

 

 

【雑談】人生と仕事とか、哲学とか

随分間が空いてしましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

何か意味のあること・メリットがあることを記事にして…とか堅苦しく考えず、あとで手直しして分類すりゃいいや、ということで、とりあえず話してみます。

 

四国にいたのですが、4月から東北に転勤になりました。

異動するってのはそれだけで結構ストレスがかかるものですね。

四国では仕事そのものはめちゃくそ上手くいっていて、行動・成果ともに支店のエース級だということで支店表彰を連続で受け、売上100%を達成したのは私だけという状況で、なんというか気分的に左団扇で暮らしておりました。(笑)

しかし、転勤族というのは4年~10年でだいたいその地を離れるので、良くも悪くも同じ環境が長く続くことはありません。

今度の新天地は東北ということで、引っ越し・仕事の引継ぎ・社会福祉士としてお世話になった方々へのご挨拶・・・とあれよあれよという間に3月が終わり4月に突入していった感じです。

しかし、管理会社というのはどこもひどいですね。

今回の四国でお世話になったマンションは、特に管理会社と大家さんの態度がひどかったです。高圧的で「貸してやってる」みたいな態度がとても鼻につきました。ああいう人間にはなりたくないもんだ。

特に法的拘束力もない勝手に決めたルールを押し付けてきたり、退去時にはこちらがわからないと思って高額な退去費用を請求してきたり。私はそういうことは許せないタイプなので、全部調べて撤回させました。退去費用はまだ粘ってるみたいだけど、専門業者のくせに国交省のガイドラインの内容も把握できていないようでは、私からボッタくろうとするなんて100年早いなって感じです。

 

引っ越し業者もひどかった。

いくつもの家財を破損させられました。全額補償してもらいましたが、人のモノだと思って適当に扱うなんて、プロ意識ないのかなって思います。

破損を隠ぺいしようと、なんやかんや理由をつけて厚かましくも自社の製品と交換購入してもらおうとする始末。そんな仕事をして家族に自分は社会のために頑張っていると胸を張れるのでしょうか?

「お父さんは詐欺みたいな仕事で顧客から金をむしり取っているんだよ、そのお金で生活できているんだよ」なんて我が子に言えるのでしょうか。

 

そうそう、私はそんなことを言うのが嫌で、転職を決意したんですよね。

前職は海外から輸入した欠陥品を売りつけるような仕事で、平均利益率50%の超ぼったくりな商売でした。金属の市場相場を知らない顧客を騙して、廃棄予定のモノを安く買いたたいたりね。今も詐欺みたいな仕事してるのかな…同期のみんな。流行りのビジネスには注意したほうがいいですよ、みなさん。

 

ただ、転職してきても、そんなにやることは変わらなかったなぁ。

仕事ってのは、どれも詐欺みたいなもんなんだな、というふうに最近思います。

私は、自分の給料のために、自分の承認欲求を満たすために、つまり、自分の利益のために他人を踏みつけて利用してのし上がろう、みたいなの、全然モチベーションが上がらないタイプです。

営業職というのは基本的にそういうのが好きで短絡的な人が、精神を病まずに仕事が続いている印象ですね。善悪や倫理に照らし合わせることから目を逸らせない、自分の行動の本質を考えるようなタイプには向いてないと思います。

イケイケのデキる営業マン。

その正体は、自分のことしか考えていない、小賢しく思考の薄っぺらい没人格人間なのかもしれません。(全員がそうではないかもしれないけどね。)

 

仕事は、人生のうちのほんの一部です。

そのための学歴も、資格も、それを取得するための学校も、職場も。

全部ほんの一部なんですが、人は社会的地位によりどころを求めがちですよね。

「社会に認められているから存在価値がある。

だからいいところで働かなきゃいけない。

そのためにいい学校を出なきゃいけない。

そのために内申点を下げられないように大人にいい顔をしなくてはいけない。」

小さい頃からそんなふうに敷かれたレールをただ言われるままに進み、好きなことよりやらなければいけない(と他人から言われた)ことを忠実にこなす。そんな「権力に隷属するためのスキル」を伸ばし続けて今に至るのが、いわゆるエリート・高学歴の人々の一般的な成育歴といえます。

 

そんな奴隷養成機関(社会であり学校であり会社)に認められるための人生が本当に優秀で賢い人間の歩みかと問われると、私にはどうも、そうとは思えない。

最近、古典哲学をよく読むようになりました。

エピクテトス。マルクス・アウレリウス。ニーチェ。アラン。ラッセル。ヒルティ。

彼らの人生哲学と幸福論は、私が今まで違和感を感じてきた胸の奥に暖かい陽が差し込むようです。

経済社会化が進んで、世の中は物質的に豊かになりましたが、精神的には貧相になりました。これはおそらく間違いない。

だから満たされなくて何かに依存したり、誰かに依存したり、自殺してしまったりする。

自らが依存症になり、依存症啓発をするようになって、根本にあるのは精神的な貧困なんだと確信するようになっています。

「自分以外の誰か」が人生の評価の中心になってしまって、「自分」というものがどこまでも置き去りになっているから、寂しくて苦しい。

自分の声を無視して他人に認められるために生きているから、だんだん自分のことがわからなくなってしまう。

本質的な問題点はそこなんだなぁ、と思っています。

 

だから、四国にいるときもそうでしたが、すこぶる仕事がつまらない。(笑)

「お金を稼ぐ」というのは、自分が生きていたい人生を生きるためにこの社会ではお金が必要だから必要な分だけ集める、ただそれだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

人物としては尊敬していますが、稲盛和夫や本田宗一郎の本で説かれている仕事哲学を読んでも、いまいちピンとこなかったのは、「仕事」を過剰に美化する思想にアレルギーがあったからかもしれません。

彼らの思想は経済社会にとっては都合がいいですけどね。「仕事」に人生をささげた奴隷が馬車馬のように勝手に働いてくれますからね。

高度経済成長期には、やればやるだけ見返りがあって、それはそれはやりがいがあったことでしょう。喜ばれ、必要とされ、生きていていいんだ、と思えたでしょう。

でもそれは、ある種の依存で在り、今でいう仕事依存症(ワーカーホリック)の問題が、時代背景的には表面化されなかっただけで、依存症の症状であったと私は思っています。

 

マハトマ・ガンディは弟子たちに「盗み」をするなと教えました。

ガンディーがいう「盗み」というのは、「己が生きるのに必要な分以上に財産を蓄えたり、欲しがったり、持っている人をねたんだり、分け与える気持ちを失ったりすること」を指しています。

全てのものは与えられたものであり、その人の財産のように見えても、本質的にはこの世界の所有物で、一時的に借りているだけ。

それをいくら集めて「私にはお金がある、権力がある」といったって、それは本来その人のものではないのだから、いくら集めても虚しくなるのは当然ですよね。

だから仕事でいくら認められようと、いくらたくさん稼ごうと、それを糧にして良心に根差した心の底からやり遂げたい何かのために行動しているのでなければ、生きづらさから逃れるための逃避でしかない。

だから私は仕事で会社に認められても認められなくても私の価値は変わらないと思います。

どれだけ売上がトップであってたくさんお金があっても、それは一時的に私のそばに今は在るだけで、私が他の人より優秀だからだとは思わない。

たまたま私にチャンスがあって、チャンスをつかめる能力を与えられて、私以外のあらゆるものが力を貸してくれたから、今があるだけ。

マイケル・サンデル教授が書いた『実力も運のうち』で「今のエリートが謙虚さを失っている」と主張なさっているのは、そういう本質的なことを現代社会のエリートは忘れている、といっているんですね。理由は、偽りの平等を能力主義が下支えしていて、与えられたものを己のモノと勘違いしているからです。

そういう勘違いがとっても多い。

働いていてそう思います。自分は優秀だから、成果が出ると思っているし、成果をコントロールできると思っている。

できるわけないでしょう。そもそもそれらのチャンスを与えてくれた世界への感謝を忘れているのですから。

なんかそんな感じで、また社会不適合者になりそうです。(笑)