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【メンタル】無理をして好かれようとしなくていい

とても穏やかに日々を過ごしている。

身体は健康だし、光も匂いも感じる。

欲や恐れに振り回されるでもなく、日々をのんびり有難く生きている。

 

なにより背伸びをしなくなった。

他人にどう思われようが気にしなくなった。

無理して自分を良くみせようとは思わなくなった。

何か成果をカタチにして認められなくてはと自分を追い詰めなくなった。

 

そんなことは必要がないと気づいたからだ。

 

今までの私を振り返ると

今まで私は、自分がどう思うかより、私が他人にどう映るかを、気にして生きていた。

内心、ひどく怯えていたように思う。

嫌われないように、なめられないように、自分を温厚に見せたり強くみせたりしようとして、一生懸命虚勢を張っていた。

そうやってどこか敵対するような緊張感をもって、他人と接していた。

だから他人に会うと、ドッと疲れた。私にとって人の群れに混ざるのは、戦争の最前線に赴くようなものだった。

 

そうやって勝手に緊張して、勝手に疲れて、自分の感覚というか心の声を蔑ろにしてきたように思う。

他人の視線にばかり気を配り、自分自身に配慮しなかった。自分の心の声はいつも無視されっぱなしだった。

だからいつも疲れていて、イライラしていた。

 

なにが転機だったか?

エピクテトスやマルクスアウレリウスをはじめとしたストア哲学に触れたあたりだろうか。

あるいは岡本太郎先生の著書を読んだあたりだろうか。

 

「私にはどうしようもない、気にしても仕方がないことを、いくら気にしていても結局しかたない。」という心がストンと落ちてきた。

いや、もっと丁寧に表現するなら、心がもともとあった場所に降りてきた。久しぶりに帰ってきたような感覚。

スッと馴染んで落ち着く。寒い夜にやっとのことで家に帰りつき、温かいココアを飲んだときの、染みわたる安心感に似ている。

 

今まで無理やり論理的に考えて「気にするべき要素ではない」と自分を説得していた。

しかしそれは真の理解ではなく、誤魔化しだった。

事実、仕事を評価される場面で私は一喜一憂していたし「認められたい」「バカにされたくない」という気持ちに内心振り回されていた。未熟だった。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き

ああ、本当に、どうでもいいことだったんだ、と思った。

 

神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして、二つを見分ける賢さを

二ーバーの祈り

 

変えられないものを、私は変えようとしていたのか。

だから苦しかったのか、と。

 

自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである

エピクテトス

 

私にできることは、意思に基づいてどう行動するか、現実をどう解釈するか、そのくらいしかない。

それ以外はほとんど自分のコントロール下にない事柄だ。

いつの時代に、どこに生まれて、どう育てられるかなど、選べない。

それと同じように、他人にどう思われるか、どう見られるか、ということは、私にはどうにもできないことだ、とわかった。

 

そもそも、他人の心の中にいる「私」は、私じゃない。

その人から見た架空のイメージとしての「私」であり、イコールじゃない。

厄介なことに、そのイメージは発想者により必ず歪む。

被写体をとらえるレンズのようで、そのレンズは発想者の心の傷や想いを一緒に投影する。

むしろ映しているのはその人自身と言える。

 

 

だから、他人が何か「私」を主語に「私」についてあることないこと言っていたとしても、実はそれはその人のその人自身についての感想であって、私は何も言われていないのと一緒ということだ。

つまり独り言だ。

独り言に相槌を打つ必要はない。それと同じように、他人が私についてアレコレ言っていたとしても、応じる必要も反論する必要もない。

「あなたの中でそうなんだね」で基本的には終わる。

もちろんその感想のなかには、私にはない視点からの気づきをもたらしてくれることもある。

そのときは「それは気づかなかった、教えてくれてありがとう」である。

要するに、他人の評価というのはその程度のものなので、そんなに重苦しく考えるものではない、ということ。

私が「違うなぁ」と思えば違うし、「そうだなぁ」と思えばそう。

 

他人から何か攻撃的なことを言われたり、馬鹿にするような言葉を言われたとして、その言葉やその人に腹が立つのは、自分が「そうだなぁ」と内心思って認めているからだ。

 

幼い子供が「やーい、ばーか」と言ってきても、あなたは怒らないでしょう?

それは相手が子供であなたのことをちっとも知らないで言っていると思えているから。

「そんなこと言うけど、私はバカじゃないよ」とあなたの心が堂々と答えている。

 

じゃあなぜ大人に「おまえはバカだ」と言われると腹が立つかというと、「私はバカだ」と認めているから。

それは、発言した他人が振りかざす権威、つまり社会的地位などから「自分よりも正しい見方をしている」と思い込んでいるため。

そんなことはありえない。

あなたのことを一番よく知っている一番のサポーターは、あなたなんだから。

どっかの偉い人よりも、育ての親よりも、あなたはあなたのエキスパートである自信と自覚を持っていい。あなたが「そうじゃない」と思えば、「そうじゃない」が正解だ。

そうじゃないのに勘違いして見当違いな発言をしているのは、他人のほうだ。

だから「フフフ、勘違いしちゃって」と思って聞き流しておればよい。

 

偏見やレッテル張りも同じように無視でいい

同じような理由で、私は依存症についても、全く気にならなくなった。

依存症のイメージがその人のなかでどうでも、私にはどうしようもない。

「私は当事者としてはこう思っているし、学説としてはこういう病態ですよ」と、私なりの解釈と事実と思しき知識はできるだけ伝わるように工夫して伝えるかもしれないが、それが他人のなかでどう消化されるか、どう伝わるかは、他人の問題。

ましてや社会に、私の解釈や知識が浸透するかどうかなど、とうに範疇を越えている。

メディアのイメージ戦略やプロパガンダをそのまま信じている時点で、物事をそんなに深く考えていない。本当に賢ければ、自分の目で現場現物を見る。自分の耳で当事者に話を聞きにくる。

偏見を持つのは偏見を持ちたいからで、その人自身が問題を抱えていることの表出のひとつ。

他人を下に見る必要がその人の内部にあるから、無意識的に飛びつく。あらためて調べないし、見方に偏りがあるのではないかという疑義が生じない。要は実態などどうでもよく、その人にとっては自分より下の存在を調達できればいい。ただそれだけの理由。

だから、せめてもの慰みに、その勝手なイメージを抱いていればいいよ、と思う。

私が額に汗して説得する必要は全くない。

耳を傾けて無駄なエネルギーを浪費する必要もない。

本人が本人のためにやりたくてやっていて、私という人間をしっかり見て言っているわけでは無いのだから。いわばオナニーだ。一人で好きなだけしといてもらえばいい。

その勝手なイメージが多数派だろうが、かまわない。多数決で多数だからといって正しいわけじゃない。いつも正しいかどうかは自分のなかの良心でしか判断できない。

どう思われようが、私がやることに変わりはなく、私の人生に変わりはない。

 

結論