“人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利(良い状態にあること)と幸福である”
これは『ACのための12のステップ』のSTEP4「自己憐憫」に記載されている一文である。
同じSTEP4の課題である「過剰に発達した責任感」にも通じる。
読んだらそりゃそうだよね、と思うけど、これがなかなか難しい。少なくとも私にとっては、とても難しいことだったように思う。
弱さという鎧
私は自分を自分で否定することで、つまり積極的に「弱さ」を纏うことで、自分を守っていたんだと思う。
「自分は価値がない最低の人間だ」と自分が自分に言い聞かせることで、もし他人からそう言われても傷つかないように予防線を張っていた。
「ほら、やっぱり。知ってたよ。」と、他人の言葉が与える冷たい痛みを軽減するために、これ以上痛まないように、言い聞かせていたんだと思う。
実際には、面と向かってそんなひどいことを言われる機会などほとんどない。
他人は自分のことに興味があるわけじゃない…うーん違うな、興味がないというか、ほとんどの他人は私がそうであるように、自分のことだけで精いっぱいなんだ。
それに他人が見ている自分というのはいつも虚像で、私自身とイコールじゃない。
その虚像は、その人自身を投影している、他人のなかの産物に過ぎない。
罪悪感とか病的な囚われとか、そういうネガティブなもので容易に歪み、実像とはかけ離れていく。
だから、誹謗中傷というのは、他人が「自分ではない誰か」のことを悪く言っているのと、そんなに変わりがない。
つまり、あんまり気にする必要がない。
指摘している内容が「あてはまるなー」と思ったら感謝して素直に受け止めて改善すればいいし、「ちがうんだよなー」と思ったら聞き流せばいい。
反論する必要もない。その人のなかの私という虚像のイメージをいくら良くしようとしたところで、それは私が影響できる範囲を超えた現象であり、叶わない。私には「変えられないもの」だ。
「どう思われるか」という変えられないものを変えなくていい、ということ。
変えられるのは今ココからの自分の在り方と行動だけ。そして変えるかどうかはいつもいつでもその人自身に選択権があり、その意思は誰にも奪えない。
私が私を好きだと思うのは自由だし、最低だと思うのも自由。
「“他人からどう思われるか”が変えられないものであるがゆえに軽い」と気づいた今、私は自分を否定して弱さで武装する必要がなくなった。
私自身、アルコール依存症も今までの人生も全部ひっくるめて、その時を全力で生きてきたと思う。
間違いもたくさんあったし、他人を傷つけてきたけれど、それでもそれは私は私なりに全力で向き合い生きた結果だと思う。
だから私は私自身を否定しなくなった。そして、やっと好きだと思えるようになった。
「弱さ」という鎧は必要なくなった。
ACにしても、私は立ち位置の捉え方を誤っていたように思う。
機能不全家庭の「被害者」という弱さ、つまり正義を理由に、親という他人をボコボコにするというのは、加害者的というか嗜虐的な側面がある。
「自己否定」というかたちで自分に向けていた牙を「自己憐憫」という牙に変えて他人に突き立てる。
それは、回復しているようでいて、回復とは程遠い姿だったと思う。
確かに私は親の不健全な療育のおかげで苦しんだ。それも事実。
でもそれは親も親なりに(病んでいたとしても)全力でやったことだった。それも事実。
幼少期の私はつらかったということに向き合い、本当の意味で消化し受け容れて、親に対して憎しみや恨みを抱くことをようやく手放すことができた。
「親の被害者」としての人生から、「わたし」の人生に目を向けたからだ。
アルコール依存症になったのは、この世のお酒があるからいけなかったのか?
いや、自分がお酒を飲まなくては立っていられないほど病んでいたからだ。お酒を世の中から消すことはできない。
病んだのは、親がACを自覚せず過干渉(世話焼き)という虐待(加害)を加えたからか?
いや、それは確かに私の病的な振る舞いを構成する主要な要素だったが、今の私は「私の人生を生きる」という選択肢を選ぶことができる。ずっとその被害者というポジションを手放さなかったのは、自分の人生に目を向けるのが怖かった私が望んで選択したことであり、選択した理由は私にとってメリットがあったからだった。
全てを誰かや何かのせいにしてそれをいつまでも繰り返し責めていても、自分自身は一歩も前に進まない。
自分の課題をみないために他人の課題をみる
他人の課題に目を向けていれば、自分の課題に目を向けないで済む。
芸能人のスキャンダルなどに飛びついてはあれやこれやと正論をまくしたてる人がいるが、まさに自分の課題から目を逸らしている典型的な状態だ。
何を隠そう、私も恥ずかしながら、その類いのひとりであった。
気にくわない世の中、組織、人間に嚙みついて正論を言い、自分の課題をみないようにしてきたひとりである。穴があったら入りたい。
他人のここがよくない、あれが悪いと指摘するのは、実に気楽だ。
他人の人生は他人のもの。自分には責任がないので、好き放題いえる。
そして、指摘しているときはその人よりも上に立ったように錯覚できる。
「間違った人間に説教をしてやっている」という場面設定に陶酔して、マウントが取れる。
自分が少しマシな存在になったように思えて、自分の人生に対する不安や恐れが軽減される。
自分を見る勇気がなければないほど、その勇気の無さすら覆い隠すために、他人に上から目線で干渉する。
それはただの有難迷惑でしかなく、相手は私を認めるどころか逆に呆れたことだろう。
他人のためを思ってやっているという大義名分とは裏腹に、他人の役に立つこともほぼない。
親切と過干渉は紙一重
求められてもいないのにアドバイスするとき、私は「自分の課題をみないために他人の課題を見ている」状態だ。
前述した私がやってしまった有難迷惑の多くは、そんな状態で行われたことだった。
私にできることはせいぜい、相手が相談してきたら「私の場合はこうだったから、少なくとも私はこう考えているよ」と伝えるくらいのものだ。
たいていは、その人自身がその人のタイミングで気づくべき時に気づく。私にできる事はほとんどないと言っていい。
その人がプライドが高い人で、自尊心が邪魔をしてなかなか他人に助けを求められなかったとしても、生きる意思が、内なる良心が、いつか困難を契機にその殻を破る、そして、そのとき頼るべき人を頼る。
その人自身に内在する力を信じているので「見守る」ということができる。
子どもを見ているとよくそう思う。
この世に産まれて少ししか経っていないということは、経験が絶対的に浅いということで、なにをやるにも危なっかしいし、たどたどしい。
より確実に目的が達成できるよう「こうすればいいんだよ」と横から手を出したくなる。
しかし、それをせずにじっと見守っていると、子どもは試行錯誤しながら自分でできるようになっていく。
どうしてもできなくて助けが欲しいときは「できないから教えて」と周りに救難信号を発信する。
そういう力があるのだ。そもそも備わっているのだ。それを根本的に信じなくてはならない。
自分の意思で助けを借りるのと、勝手に横から手を出されるのとは、全然違う。
前者では、自らの意思で助けを得る選択をしている。自分で選んだ道筋だから、得られた結果や納得できる。達成したという実感を享受できる。
後者では、工程が奪われて結果が贈呈されるので、自分で選んだ、自分でたどり着いたという自己効力感がない。
「あなたなら自分で気づき、自分でたどり着くと信じている」というメッセージ。それこそが愛情である。
親切でアドバイスしてやっている、と悦に入っているときは、自分の課題をみないために他人の課題をみているとき。本当の意味でハイヤーパワーを信じられていないとき。
他人のことは他人に任せよう。
頼られたなら、そのときはじめて可能な範囲でこたえればよいだけ。
自分の人生の福利と幸福に集中しよう。
それが何よりも他人のためになる。