月別アーカイブ: 2022年5月

【仕事】「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

上司が最近とても焦っています。

おそらく上からプレッシャーをかけられているのでしょう。中間管理職ってなりたくないなーって思います。割に合わないですよね、ストレス度合いと給料のバランスから考えて。

まあとにかくあれこれと口を出し、成果が出そうだと感じたことを片っ端から思い付きで指示を出そうとしていらっしゃいます。

成果が出ていなければ、当然焦るのはわかります。

でも、焦ってあれこれ手を付けても、物事というのは結局は結実しないものです。

なぜか?

結論から申し上げますと、「自分の都合しか考えていないから」です。

繋がるべき相手が見えていない。自分のなかの不安や恐れと、独り相撲を取っているようなものです。

今回は、そんなふうに「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」状況について考えてみたいと思います。

 

なぜ焦るのか?

他人から「あれをしなさい」「これができていない」「他の人はできているのに」などと言われると、なぜ焦るのでしょうか。

それは、他人のなかの自分の評価が下がってしまう、そのことに恐れを抱いているからです。

悪く思われてしまうのではないか。

バカにされてしまうのではないか。

嫌われて悲しい思いをしたり、不利益を被るのではないか。

恐れは、不安を呼びます。

不安になって、その悪い未来について考えます。

あたかも、今行動しなければ、その悪い未来が現実になるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなる。

そんな感じじゃないでしょうか。

 

では、いったん落ち着いて考えてみましょう。

自分を他人がどうとらえるか、その印象って、操作可能なものだと思いますか?

私は、これはコントロールできない、自分の範疇を超えたところだと思っています。

他人がどう思うかは、他人次第です。他人に決める権利があることです。

私たちには、どうすることもできない手の届かないところにある問題。

なので、まずは、それをどうにかしようとすることはとても不確実なことだということ。

あれこれ焦って取り繕っても、コントロールできないことだ、と認識すると、それなら焦っても仕方ないよな、って思いませんか。

 

なぜ評価されたいのか?

もう一段深く考えてみましょう。

なぜ、焦って自分を追い詰めてまで、その人のなかの自分の評価を高く保ちたいのでしょうか。

特別に尊敬している大事な人だから?

評価を下げられて出世できなくなったら嫌だから?

なめられて馬鹿にされたくないから?

 

本当に付き合いを深めるべき本質を理解している人というのは、実は世の中にはそんなにいません。

本質を理解している人は、他人を見下したり、成果というひとつのものさしで他人を測ろうとしたりしません。一人の人間として、あなたの価値観を尊重し、自分の価値観も尊重する。あなたの尊厳を傷つけようとはしない人です。

だから、今たまたま成果に繋がっていなくとも、あなたが自分が可能な範囲で心を込めて丁寧な仕事をしているのなら、何も取り繕う必要もありません。ちゃんとわかってくれます。

つまり、表面的な結果や数字だけを見てあれやこれやと他人を勝手にジャッジする人は、本質を理解していない人です。道端の石と同じ、付き合いを深める必要のない、あなたの人生にそこまで関係しない人、ということになります。

道端の石に「お前はダメなやつだ」と言われたところで、あなたは気にするでしょうか。

「ああ、オレは本当にダメなやつだ」と思うでしょうか。

私はそんな人たちにどう思われるかより、愛する家族や尊敬すべき人たちとの交流に時間と頭を使いたい、と感じます。心を込めて、そういう人たちに接するために人生を費やしたいと思います。

 

目の前にいる他人のなかの評価を高く保ちたい、という欲求は、自分を他人に認めてもらいたい=他人から認められないと自分の価値が無いように感じて不安だから安心したい、という願望の現れです。

 

なぜ他人からの承認が必要なのか?

他人に認められないと自分の価値が無いように感じる、というのは、なぜでしょうか。

それは自分に自信がないからです。

では自信とは何でしょうか。

それは何かを「他人と比べて」自分のほうができる、と信じることです。

自信とは、相対的な価値観です。

他人がもし誰もいなかったとして、あなたが好きなことをやるとき、そこには比較対象が存在しないので、あなたは誰かより優れているとか劣っているとか、そんな些末なことを気にせず思うまま楽しく好きなように熱中して取り組むでしょう。

他人と比較するから、自信という価値観にとらわれる、ということです。

 

ひとは、誰もが違います。同じ人はひとりもいない。

得意なことも苦手なことも、考え方も、価値観も、やり方も違います。

もっと言ってしまえば、与えられた才能や環境など、自分にはどうにもならないことも、それぞれ全然違います。

昨今では「能力主義」が正義とされていて、そうした違いを言い訳ととらえる人が多くなりましたよね。

「やればできるのにやらないのは、お前が怠けているからだ」

「平等にチャンスを与えられているのだから、つかめないお前が悪い」

「成果が出ないのは、お前の頑張りが足りないからだ」

一度はこんなことを言われた経験があるのではないでしょうか。

でも、実際そんなに人間は万能でもないし、強くもありません。

人類は、誰もがひとりだけでは何もおぼつかないので、家族を構成し、社会を構築して、この世を生き延びてきた種族です。

やってもできないことはあるし、チャンスは平等ではないし、頑張っても報われないことだってたくさんありますよね。

それはあなたが悪いわけではない。何かのめぐりあわせでこの世にあなたとして生まれて、今できるorできないがある。それだけの話です。

 

だから、他人と比べてもしかたがないし、意味がないのです。

楽しむ分にはいいですけどね。ゲームとして。

優劣はゲームでしかない。本来自分と他人は前提が違い過ぎて比べられないからです。

そんな不確かなゲームに委ねなくてはならないほど、あなたは無価値ではない。

他人より優れていようと劣っていようと、あなたが考える、あなたがやりたいこと。それが実行に移されて、世界と繋がること。

それにこそ価値があり、それであなたが楽しい・嬉しい・好きと感じることが、もっとも意味のあることです。

「下手なら、なお結構。」とは、大阪万博の「太陽の塔」でおなじみの芸術家:岡本太郎さんの言葉です。

「ダメならダメなりに、ダメでもいいと思って、全力でその瞬間にすべてをかけろ。」

そのように岡本太郎さんはおっしゃいます。私もそう思います。

 

自分には自信がない、と他人の目を気にして、本当にやりたいことを自由にできない。

なんて悲しいことでしょう。

自分にはどうしようもない、比べる意味もない。

そんな概念でブレーキをかけ、自分が本当にしたいことをしない。

なんともったいない。

 

なぜ生きているのか?

自分が本当にしたいことを我慢して、他人の目に怯えて、やれと言われたことを焦りながらやって。

それが、あなたが生きたい人生でしょうか。

そのおかげで家があるから、お金が稼げるから、他人に嫌われないから、幸せ?

本当に?

本当にそうでしょうか?

あなたはそれで本当に幸せといえるでしょうか。

もう一度全く同じ人生をやれと言われて、喜んで生きたいと思うでしょうか。

 

私は小さい頃、自由に生きていたら、クラスメートから「異質な存在」と判断され、いじめられました。両親からは「なんで他の子と同じようにできないの?」と悲しげに叱責されて、つらかったのを覚えています。

それから他人に気に入られよう、両親に認められよう、と思って、やりたくない勉強も、やりたくない人付き合いも、一生懸命努力してやってきました。

自分が本当にしたいことがわからなくなるくらい、気持ちにふたをして。

そして、アルコール依存症になり、うつになり、自殺しようと思うまで追い詰められました。

 

私としては、そんなふうに生きるのはお勧めしません。

私はそのままもっと自由に生きていてもよかった。

両親が求める「優秀な息子」でなくてよかった。

みんなに好かれる「普通の人」でなくてよかった。

それらに囚われる人生は、私が生きたい人生ではなかった。

 

「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

それは、こんな小さい頃の私を見ているようです。

だから私は、そんな人に、小さい頃の私に語りかけるように、こう伝えたい。

 

あなたは、他人より優れていなくてもいい。

あなたは、誰からも好かれなくても全然悪くない。

あなたが心からやりたいと思うことのなかに、本当の価値がある。

他人の目なんか気にするな。ただ、やりたいことを精一杯がんばってやればいい。

そのために、あなたはこの世にいるのだから。

【雑談】人生と仕事とか、哲学とか

随分間が空いてしましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

何か意味のあること・メリットがあることを記事にして…とか堅苦しく考えず、あとで手直しして分類すりゃいいや、ということで、とりあえず話してみます。

 

四国にいたのですが、4月から東北に転勤になりました。

異動するってのはそれだけで結構ストレスがかかるものですね。

四国では仕事そのものはめちゃくそ上手くいっていて、行動・成果ともに支店のエース級だということで支店表彰を連続で受け、売上100%を達成したのは私だけという状況で、なんというか気分的に左団扇で暮らしておりました。(笑)

しかし、転勤族というのは4年~10年でだいたいその地を離れるので、良くも悪くも同じ環境が長く続くことはありません。

今度の新天地は東北ということで、引っ越し・仕事の引継ぎ・社会福祉士としてお世話になった方々へのご挨拶・・・とあれよあれよという間に3月が終わり4月に突入していった感じです。

しかし、管理会社というのはどこもひどいですね。

今回の四国でお世話になったマンションは、特に管理会社と大家さんの態度がひどかったです。高圧的で「貸してやってる」みたいな態度がとても鼻につきました。ああいう人間にはなりたくないもんだ。

特に法的拘束力もない勝手に決めたルールを押し付けてきたり、退去時にはこちらがわからないと思って高額な退去費用を請求してきたり。私はそういうことは許せないタイプなので、全部調べて撤回させました。退去費用はまだ粘ってるみたいだけど、専門業者のくせに国交省のガイドラインの内容も把握できていないようでは、私からボッタくろうとするなんて100年早いなって感じです。

 

引っ越し業者もひどかった。

いくつもの家財を破損させられました。全額補償してもらいましたが、人のモノだと思って適当に扱うなんて、プロ意識ないのかなって思います。

破損を隠ぺいしようと、なんやかんや理由をつけて厚かましくも自社の製品と交換購入してもらおうとする始末。そんな仕事をして家族に自分は社会のために頑張っていると胸を張れるのでしょうか?

「お父さんは詐欺みたいな仕事で顧客から金をむしり取っているんだよ、そのお金で生活できているんだよ」なんて我が子に言えるのでしょうか。

 

そうそう、私はそんなことを言うのが嫌で、転職を決意したんですよね。

前職は海外から輸入した欠陥品を売りつけるような仕事で、平均利益率50%の超ぼったくりな商売でした。金属の市場相場を知らない顧客を騙して、廃棄予定のモノを安く買いたたいたりね。今も詐欺みたいな仕事してるのかな…同期のみんな。流行りのビジネスには注意したほうがいいですよ、みなさん。

 

ただ、転職してきても、そんなにやることは変わらなかったなぁ。

仕事ってのは、どれも詐欺みたいなもんなんだな、というふうに最近思います。

私は、自分の給料のために、自分の承認欲求を満たすために、つまり、自分の利益のために他人を踏みつけて利用してのし上がろう、みたいなの、全然モチベーションが上がらないタイプです。

営業職というのは基本的にそういうのが好きで短絡的な人が、精神を病まずに仕事が続いている印象ですね。善悪や倫理に照らし合わせることから目を逸らせない、自分の行動の本質を考えるようなタイプには向いてないと思います。

イケイケのデキる営業マン。

その正体は、自分のことしか考えていない、小賢しく思考の薄っぺらい没人格人間なのかもしれません。(全員がそうではないかもしれないけどね。)

 

仕事は、人生のうちのほんの一部です。

そのための学歴も、資格も、それを取得するための学校も、職場も。

全部ほんの一部なんですが、人は社会的地位によりどころを求めがちですよね。

「社会に認められているから存在価値がある。

だからいいところで働かなきゃいけない。

そのためにいい学校を出なきゃいけない。

そのために内申点を下げられないように大人にいい顔をしなくてはいけない。」

小さい頃からそんなふうに敷かれたレールをただ言われるままに進み、好きなことよりやらなければいけない(と他人から言われた)ことを忠実にこなす。そんな「権力に隷属するためのスキル」を伸ばし続けて今に至るのが、いわゆるエリート・高学歴の人々の一般的な成育歴といえます。

 

そんな奴隷養成機関(社会であり学校であり会社)に認められるための人生が本当に優秀で賢い人間の歩みかと問われると、私にはどうも、そうとは思えない。

最近、古典哲学をよく読むようになりました。

エピクテトス。マルクス・アウレリウス。ニーチェ。アラン。ラッセル。ヒルティ。

彼らの人生哲学と幸福論は、私が今まで違和感を感じてきた胸の奥に暖かい陽が差し込むようです。

経済社会化が進んで、世の中は物質的に豊かになりましたが、精神的には貧相になりました。これはおそらく間違いない。

だから満たされなくて何かに依存したり、誰かに依存したり、自殺してしまったりする。

自らが依存症になり、依存症啓発をするようになって、根本にあるのは精神的な貧困なんだと確信するようになっています。

「自分以外の誰か」が人生の評価の中心になってしまって、「自分」というものがどこまでも置き去りになっているから、寂しくて苦しい。

自分の声を無視して他人に認められるために生きているから、だんだん自分のことがわからなくなってしまう。

本質的な問題点はそこなんだなぁ、と思っています。

 

だから、四国にいるときもそうでしたが、すこぶる仕事がつまらない。(笑)

「お金を稼ぐ」というのは、自分が生きていたい人生を生きるためにこの社会ではお金が必要だから必要な分だけ集める、ただそれだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

人物としては尊敬していますが、稲盛和夫や本田宗一郎の本で説かれている仕事哲学を読んでも、いまいちピンとこなかったのは、「仕事」を過剰に美化する思想にアレルギーがあったからかもしれません。

彼らの思想は経済社会にとっては都合がいいですけどね。「仕事」に人生をささげた奴隷が馬車馬のように勝手に働いてくれますからね。

高度経済成長期には、やればやるだけ見返りがあって、それはそれはやりがいがあったことでしょう。喜ばれ、必要とされ、生きていていいんだ、と思えたでしょう。

でもそれは、ある種の依存で在り、今でいう仕事依存症(ワーカーホリック)の問題が、時代背景的には表面化されなかっただけで、依存症の症状であったと私は思っています。

 

マハトマ・ガンディは弟子たちに「盗み」をするなと教えました。

ガンディーがいう「盗み」というのは、「己が生きるのに必要な分以上に財産を蓄えたり、欲しがったり、持っている人をねたんだり、分け与える気持ちを失ったりすること」を指しています。

全てのものは与えられたものであり、その人の財産のように見えても、本質的にはこの世界の所有物で、一時的に借りているだけ。

それをいくら集めて「私にはお金がある、権力がある」といったって、それは本来その人のものではないのだから、いくら集めても虚しくなるのは当然ですよね。

だから仕事でいくら認められようと、いくらたくさん稼ごうと、それを糧にして良心に根差した心の底からやり遂げたい何かのために行動しているのでなければ、生きづらさから逃れるための逃避でしかない。

だから私は仕事で会社に認められても認められなくても私の価値は変わらないと思います。

どれだけ売上がトップであってたくさんお金があっても、それは一時的に私のそばに今は在るだけで、私が他の人より優秀だからだとは思わない。

たまたま私にチャンスがあって、チャンスをつかめる能力を与えられて、私以外のあらゆるものが力を貸してくれたから、今があるだけ。

マイケル・サンデル教授が書いた『実力も運のうち』で「今のエリートが謙虚さを失っている」と主張なさっているのは、そういう本質的なことを現代社会のエリートは忘れている、といっているんですね。理由は、偽りの平等を能力主義が下支えしていて、与えられたものを己のモノと勘違いしているからです。

そういう勘違いがとっても多い。

働いていてそう思います。自分は優秀だから、成果が出ると思っているし、成果をコントロールできると思っている。

できるわけないでしょう。そもそもそれらのチャンスを与えてくれた世界への感謝を忘れているのですから。

なんかそんな感じで、また社会不適合者になりそうです。(笑)