上司が最近とても焦っています。
おそらく上からプレッシャーをかけられているのでしょう。中間管理職ってなりたくないなーって思います。割に合わないですよね、ストレス度合いと給料のバランスから考えて。
まあとにかくあれこれと口を出し、成果が出そうだと感じたことを片っ端から思い付きで指示を出そうとしていらっしゃいます。
成果が出ていなければ、当然焦るのはわかります。
でも、焦ってあれこれ手を付けても、物事というのは結局は結実しないものです。
なぜか?
結論から申し上げますと、「自分の都合しか考えていないから」です。
繋がるべき相手が見えていない。自分のなかの不安や恐れと、独り相撲を取っているようなものです。
今回は、そんなふうに「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」状況について考えてみたいと思います。
なぜ焦るのか?
他人から「あれをしなさい」「これができていない」「他の人はできているのに」などと言われると、なぜ焦るのでしょうか。
それは、他人のなかの自分の評価が下がってしまう、そのことに恐れを抱いているからです。
悪く思われてしまうのではないか。
バカにされてしまうのではないか。
嫌われて悲しい思いをしたり、不利益を被るのではないか。
恐れは、不安を呼びます。
不安になって、その悪い未来について考えます。
あたかも、今行動しなければ、その悪い未来が現実になるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなる。
そんな感じじゃないでしょうか。
では、いったん落ち着いて考えてみましょう。
自分を他人がどうとらえるか、その印象って、操作可能なものだと思いますか?
私は、これはコントロールできない、自分の範疇を超えたところだと思っています。
他人がどう思うかは、他人次第です。他人に決める権利があることです。
私たちには、どうすることもできない手の届かないところにある問題。
なので、まずは、それをどうにかしようとすることはとても不確実なことだということ。
あれこれ焦って取り繕っても、コントロールできないことだ、と認識すると、それなら焦っても仕方ないよな、って思いませんか。
なぜ評価されたいのか?
もう一段深く考えてみましょう。
なぜ、焦って自分を追い詰めてまで、その人のなかの自分の評価を高く保ちたいのでしょうか。
特別に尊敬している大事な人だから?
評価を下げられて出世できなくなったら嫌だから?
なめられて馬鹿にされたくないから?
本当に付き合いを深めるべき本質を理解している人というのは、実は世の中にはそんなにいません。
本質を理解している人は、他人を見下したり、成果というひとつのものさしで他人を測ろうとしたりしません。一人の人間として、あなたの価値観を尊重し、自分の価値観も尊重する。あなたの尊厳を傷つけようとはしない人です。
だから、今たまたま成果に繋がっていなくとも、あなたが自分が可能な範囲で心を込めて丁寧な仕事をしているのなら、何も取り繕う必要もありません。ちゃんとわかってくれます。
つまり、表面的な結果や数字だけを見てあれやこれやと他人を勝手にジャッジする人は、本質を理解していない人です。道端の石と同じ、付き合いを深める必要のない、あなたの人生にそこまで関係しない人、ということになります。
道端の石に「お前はダメなやつだ」と言われたところで、あなたは気にするでしょうか。
「ああ、オレは本当にダメなやつだ」と思うでしょうか。
私はそんな人たちにどう思われるかより、愛する家族や尊敬すべき人たちとの交流に時間と頭を使いたい、と感じます。心を込めて、そういう人たちに接するために人生を費やしたいと思います。
目の前にいる他人のなかの評価を高く保ちたい、という欲求は、自分を他人に認めてもらいたい=他人から認められないと自分の価値が無いように感じて不安だから安心したい、という願望の現れです。
なぜ他人からの承認が必要なのか?
他人に認められないと自分の価値が無いように感じる、というのは、なぜでしょうか。
それは自分に自信がないからです。
では自信とは何でしょうか。
それは何かを「他人と比べて」自分のほうができる、と信じることです。
自信とは、相対的な価値観です。
他人がもし誰もいなかったとして、あなたが好きなことをやるとき、そこには比較対象が存在しないので、あなたは誰かより優れているとか劣っているとか、そんな些末なことを気にせず思うまま楽しく好きなように熱中して取り組むでしょう。
他人と比較するから、自信という価値観にとらわれる、ということです。
ひとは、誰もが違います。同じ人はひとりもいない。
得意なことも苦手なことも、考え方も、価値観も、やり方も違います。
もっと言ってしまえば、与えられた才能や環境など、自分にはどうにもならないことも、それぞれ全然違います。
昨今では「能力主義」が正義とされていて、そうした違いを言い訳ととらえる人が多くなりましたよね。
「やればできるのにやらないのは、お前が怠けているからだ」
「平等にチャンスを与えられているのだから、つかめないお前が悪い」
「成果が出ないのは、お前の頑張りが足りないからだ」
一度はこんなことを言われた経験があるのではないでしょうか。
でも、実際そんなに人間は万能でもないし、強くもありません。
人類は、誰もがひとりだけでは何もおぼつかないので、家族を構成し、社会を構築して、この世を生き延びてきた種族です。
やってもできないことはあるし、チャンスは平等ではないし、頑張っても報われないことだってたくさんありますよね。
それはあなたが悪いわけではない。何かのめぐりあわせでこの世にあなたとして生まれて、今できるorできないがある。それだけの話です。
だから、他人と比べてもしかたがないし、意味がないのです。
楽しむ分にはいいですけどね。ゲームとして。
優劣はゲームでしかない。本来自分と他人は前提が違い過ぎて比べられないからです。
そんな不確かなゲームに委ねなくてはならないほど、あなたは無価値ではない。
他人より優れていようと劣っていようと、あなたが考える、あなたがやりたいこと。それが実行に移されて、世界と繋がること。
それにこそ価値があり、それであなたが楽しい・嬉しい・好きと感じることが、もっとも意味のあることです。
「下手なら、なお結構。」とは、大阪万博の「太陽の塔」でおなじみの芸術家:岡本太郎さんの言葉です。
「ダメならダメなりに、ダメでもいいと思って、全力でその瞬間にすべてをかけろ。」
そのように岡本太郎さんはおっしゃいます。私もそう思います。
自分には自信がない、と他人の目を気にして、本当にやりたいことを自由にできない。
なんて悲しいことでしょう。
自分にはどうしようもない、比べる意味もない。
そんな概念でブレーキをかけ、自分が本当にしたいことをしない。
なんともったいない。
なぜ生きているのか?
自分が本当にしたいことを我慢して、他人の目に怯えて、やれと言われたことを焦りながらやって。
それが、あなたが生きたい人生でしょうか。
そのおかげで家があるから、お金が稼げるから、他人に嫌われないから、幸せ?
本当に?
本当にそうでしょうか?
あなたはそれで本当に幸せといえるでしょうか。
もう一度全く同じ人生をやれと言われて、喜んで生きたいと思うでしょうか。
私は小さい頃、自由に生きていたら、クラスメートから「異質な存在」と判断され、いじめられました。両親からは「なんで他の子と同じようにできないの?」と悲しげに叱責されて、つらかったのを覚えています。
それから他人に気に入られよう、両親に認められよう、と思って、やりたくない勉強も、やりたくない人付き合いも、一生懸命努力してやってきました。
自分が本当にしたいことがわからなくなるくらい、気持ちにふたをして。
そして、アルコール依存症になり、うつになり、自殺しようと思うまで追い詰められました。
私としては、そんなふうに生きるのはお勧めしません。
私はそのままもっと自由に生きていてもよかった。
両親が求める「優秀な息子」でなくてよかった。
みんなに好かれる「普通の人」でなくてよかった。
それらに囚われる人生は、私が生きたい人生ではなかった。
「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」
それは、こんな小さい頃の私を見ているようです。
だから私は、そんな人に、小さい頃の私に語りかけるように、こう伝えたい。
あなたは、他人より優れていなくてもいい。
あなたは、誰からも好かれなくても全然悪くない。
あなたが心からやりたいと思うことのなかに、本当の価値がある。
他人の目なんか気にするな。ただ、やりたいことを精一杯がんばってやればいい。
そのために、あなたはこの世にいるのだから。