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【発達障害】「友達」をつくるって、具体的にはどうすればいいの?(神経発達症)

私は友達をつくるのがとんでもなく下手だ。

よくわからない。

どこからが友達で、どこまでが知り合いなのか。

何をきっかけに人々は友達になり、どうなったら親友と呼び合えるのか。

今日はそんな不器用な私の「友達」にまつわる話。

 

後輩にもタメ口で話せない

私は後輩にも基本的に敬語だ。

年下だろうが、経験が浅かろうが、関係が希薄なのにいきなりタメ口で話されるのが、私は好きではない。

だから、自分がされて嫌なことはしない。

しかし、違和感があるらしく、ずっと敬語を使っていたら後輩から「後輩なんでタメ口でいいっすよ」「そんなに気を遣わないでくださいよ」と言われる。

そう言われたら、たどたどしくはあるがタメ口でしゃべるようにしている。

でも、気を抜くとすぐに敬語に戻るので、個人的にはずっと敬語のほうが楽なのにな、と思っている。

 

なぜわざわざ、年下だから・後輩だから、と語尾を変えるのだろうか。

微妙な距離感がつかめない。

どのような通過儀礼を経て「タメ口でもよい」という認可が下りるのだろうか。

私にとって、それは中学高校時代からずっと謎に満ちた不可思議なことだった。

全く法則がわからず、とてもまごついた。今もまごついている。

 

親しくなったつもりが相手にギョッとされる

かといって、私のほうが親しくなった・理解しあえたと思い突っ込んだ話をすると、相手にギョッとされる。

私にとって話題が合うと感じたり、思考回路が似ていると感じたりする人は少ない。

だから、そういう「合う人」に出会うととても期待してしまう。

今まで話せなかった理解されない人生観や、世の中の不条理、人生の悲哀など、どんどん話したくなってしまって、相手がどうなのかも知りたくなってしまう。

そうやって『がっついて』しまうため、相手はいきなり大人しかった中年のおじさんが鼻息を荒くして近寄ってくるので恐れおののいてしまう。確かに怖い。

私はそのたびに「あ、また間違えた」と思って一気にトーンダウンする。

恥ずかしいし、哀しい気持ちになり、落ち込む。

もうしばらく人と話すのはいいかな、と思ったりする。実際1週間くらいはできるだけ誰にも会わないようにして、ひとりでぼんやりしている。

 

私は、いわゆる『コミュ障』と呼ばれる人だろうな、と思っている。自覚はある。

人との距離感は、とてもはかるのが難しく、毎回「違和感が無いように接する」というミッションを達成することがつらく、とてつもなく疲れる。一つ一つの会話が『魔界村』みたいな難易度である。何回も死ぬ。

だから私は人に会うのがあまり好きではない。無駄に疲れるから頻繁にはしたくない。

そう思って生きてきた。

こんな調子で、よく今まで生きてこられたと思う。

 

共有できる範囲が多いほど「仲良し」=「友達」

最近になってわかってきたことがある。

友達や仲良しに、明確なラインなどないのである。

神経発達症がスペクトラム状であるように、友人関係もグラデーションのようで一様に定義できるようなものではないらしい。

 

たとえば、ノウハウとして「仲良くなりたければ、共通の話題を探しなさい」というものがある。

具体的には、営業マンが取引先の人と仲良くなりたいときの方法としてビジネス書に書いてある。なるほど…世の人間は私利私欲のためにこうやって他人に近づいていくのか、と嫌悪感をにじませながらその手のハウツー本を三桁は不承不承眺めてきた。

この法則はある意味当たっている。

なぜなら、仲良くなるという現象は、『二人の間に共有できる「共通言語」をできるだけ広く深い範囲でシェアすること』により発生する。

例えば、出身地、出身校、好きな人物、好きな食べ物、好きな映画、好きな音楽、好きな場所、好きな休日の過ごし方、などなど「同じ」を探す。探して好きな気持ちに共感する。

自分と相手に「好ましい重なる興味の範囲」があるという認識が共有される。

つまり、相手と自分はシンクロして、一部分を共有する間柄となる。

このようにして「共通言語」としての「好き」が増えていけばいくほど、相手は自分とシンクロし、自分自身に近しい存在になっていく。

人間は、自分自身のことが一番好きで嫌い、つまり関心が高いので、自分の分身であるその人のことを気にするようになる。関心が向いていく。何をするのか気になり、一緒に時間を過ごしたくなる。

そうやって境界線があいまいになり、融合していくことを「仲良くなる」と人は表現する。

シェアしている「共有範囲」が大きければ大きいほど「親密度」は高くなる。

相手を一定の親密度を満たすと感じるようになったとき、その人にとって相手は友達になる。その一定の親密度の閾値はひとそれぞれである。そして要する期間もひとそれぞれ。

そうだと思えばそう、という世界だ。

 

特別な相手には期待しすぎてしまう

その親密度が相互にほぼ極限まで高まると、人は恋人になったり夫婦になったり親友になったり、他の人とは一線を画した関係を結ぼうとする。

シェアされた「共有範囲」は広く深く、お互いをよく知っているように思う。

しかし、それはあくまで共有されている部分が他人と比べて相対的に広く深いというだけにすぎない。

他人のすべてを把握することはできない。

自分の内面すら常に変化するし、把握していない部分があるのに、どうして他人のすべてを掌握することができようか。

できるわけがない。

つまり、全てを認識して理解するなど、お互いに人間である以上不可能なのである。

 

しかし不都合なことに、「共有範囲」つまり似ている部分が多いと、自分と相手は通じ合っていて言わなくても「同じ」なのだからわかるだろうと思い込んでしまうことがある。

期待しすぎてしまう。同じことを共有して認知を強化してきたから、自分の延長線上に相手もいると期待してしまう。

しかし、他人とは別の宇宙。似ているようで違う。同じようで同じではない。

基本的に分かったような気がしているだけ。勘違いである。

完全に分かり合うことは部分的であっても本来不可能。

それを親しくなればなるほど忘れてしまうし期待してしまう。それはしかたのないことだ。

 

多様性の尊重と受容って 実際は意外にドライ

実は優しい人ほど、他人に期待しすぎない。

それは、相手も自分も異なる人間だということを大前提として認めて受け容れているから。

相手が、自分の予測とは違う動きをしたり、思いもしない側面をみたりすることは必ずある。このすれ違いは、100%いつか訪れる。

そのときにひどく失望するか、「ああそういうこともあるか」とすんなり受け容れるか。

私は今まで結構、失望してきたタイプだ。

自分と同じはずの相手が予想外の反応や動きをしたことにひどく動揺して、相手を怒ったり自分の思考が至らなかったことを責めたりした。

自分の一部になったはずの相手に裏切られた気がしたし、すでに自分の一部に取り込んだはずの部分がゴッソリ欠けるような喪失感。地面が抜けるような恐怖を感じた。

相手との境界線があいまいになり、相手の領域を侵食しているのだ。

自他の境界線(バウンダリー)を適切に引けていない、お互いに領域を侵略しあっている状態を「共依存」という。

まさに「相手を理解しているつもり」「自分を分かってくれているはず」という思い込みは、共依存状態に感じる感覚だ。

「他人に期待する」という行為は、もしかすると相手の領域を勝手に想像して、「自分と同じなんだからこうに違いない」と勘違いして侵略することかもしれない。そう思って一歩引いて自分を眺めてみると、相手がどれだけ想像の斜め上を行っていても、意外と腹も立たないし、悲しみも感じない。今までのように不安や焦りに突き動かされることもない。

なぜなら、それらは元々コントロールできない、自分には触れることができない問題だったのだと心から納得できるからである。

私は相手に対して無力だったのだ、そもそも相手の行動をとやかくいうような、そんな権利はなかったのだということを認識し、執着を手放せる。相手のするように任せることを自然なこととして受け入れる心が宿る。

そうなれば、無理に相手と「合わせない」「強要しない」。自分が無理に従うこともないし、相手を無理に従わせることもない。

それぞれが生きたいように生きる人生を尊重し、離れることがあったとしてもそれを静かに受け容れることができる。

それは、相手を最大限に信頼しているし、尊重している姿だと私は思う。

はたから見ると、その人がどうなっていようがどうでもよい、というような投げやりでドライな態度に見えるかもしれない。

しかし私は、この在り方こそが、最もその人のことを愛していて優しい接し方だと、最近は思うようになった。

 

相手の自由意志を尊重しながら「共有範囲」を増やす=友達をつくる

ここで話題はタイトルに還ってくる。

今までの話を経て、私は友達をつくるという作業がどういうことなのか、だいたいわかってきた。

つまり、相手の自由意志を尊重しながら「共有範囲」を増やすことが、友達をつくることだ。

相手のすべては分からない。また、自分をすべてわかってもらうことも不可能だ。

1対1の関係で、全てを満たそうとするから、依存的になるし限界がある。

「友達」というのは、特定のひとりでなくてもよいのだ。

つまみ食いのようなものだ。

ある分野ではA君と、ある分野ではBさんと。「共有範囲」は1対Nの関係性のなかでその質量(クオリアに近い)を増やしていけば、それだけ「友人関係」というリソースは増大する。

だから、友達をつくるというのは、私と相手の間に固有の関係性があるかないか、ということでは本質的には語れないということだ。

私からみて「友達をつくる」という行為は、固有の関係性に閉じて限定されてはいけない。「共有範囲」をいかに1体Nの関係で多く多様なクオリアを保持するか、が重要。

分かりやすく言うと、様々な人と率直に会話を重ねて、お互いにシェアできる「好き」を多くの質と量、見つけ育てていくのが、「友達をつくる」という一連の作業の具体的な方法なのだということ。

友人に恵まれ豊かな人生を送っている人は、このトライ&エラーをとんでもない回数行ってきたことに気づく。

最初から好かれる正確だったわけでもないし、生まれた時から友達を一定数契約して確保しているのでもない。

潜在的な能力でもないし、性格が悪いから友達が少ないのでもない。

ただ単に、まだ「好き」の「共有範囲」を見つけられていないのだ。その相手に巡り合っていないだけだ。

だからどんどん新しくあった人と会話をして、相手の好きなものを聞こう。自分の好きなものを話そう。そうすれば、共通の好きなことが見つかる。その瞬間から、もうすでに私たちの「友達」は増えているのだ。

好きが重ならないこともある。その場合は、もっと他の人がその人の好きとめぐりあって、「共有範囲」を構成する。だから心配はいらない。その人と合わないのにいつまでも話を合わせる必要はないんだ。

最もよくない恥ずべきことは、相手を「かわいそう」だと勘違いして「共有範囲」をもっているふりをすることだ。それは相手にとって最も屈辱的で、相手を不幸せにする。

相手を尊重しているからこそ、小賢しく合わせたり従ったりしない。

自分を尊重しているからこそ、自分の好きを強制したり、逆に恥じたり隠したりしない。

そうでありさえすれば。

その基本姿勢さえ常に崩さず、爽やかに生きていさえすれば。

そして会話の母数を増やしていきさえすれば、確率論的に誰でも必ず友達はつくれる。そして増えていく。

今、合意できる範囲が他人の平均からずれていて【友達】がいなくても。

それは私が悪いせいじゃない。

私はダメなわけじゃない。

私は少し他の人とは違うだけだ。少数派であるだけ。

分母を増やせば確実に【友達】が形成される確率は増えていく。

出会えば出会うほど、共有できる価値観のクオリアは増える。

 

これはここ最近で一番うれしい希望。清々しい発見だな、と思っている。

【AC】「上から目線だね」と言われるのはなぜ?

私はよくひとから「上から目線だね」と言われることがある

私は、よく顔に出る。態度にも出る。

そういう意味ではとても素直な性格をしていると思うけれど、他人からは「性格がねじ曲がっている」と言われる。

確かに言われるままを信じないという意味では、人々の言う「素直さ」はないのかもしれない。でも、私にとっては「他人の言うことは信用ならない」という信念に真っすぐなのであって、そういう意味ではある種の一途さがあるとは思わないか。

まあ思わないから「ありえないくらいにひん曲がっている」とまで表現されるんだろう。

 

ごく最近になって、そんな私が他人に対して「上から目線だな」と思うことがあった。

それは、あるイベントで私が開催しているものに参加してくれた人のこんな一言に対しておもったことだった。

「まあ、私としてはこのイベントに参加する意味があるとは思えなくなってきたんですけれど、みなさんの成長をここで見守っていきたいと考えているのです」

なかなかの高みから我々を見下ろしているご意見を頂戴した。

「そうですか」としか言いようがなかった。

私は「上から目線だな」と思う側の立場になって、ある法則を発見した。

 

上からだと思う=「君は下から見上げるのが当然」と思ってるから

それは、発言者に対して、聞き手が「お前は私より下だ」という前提の認識を持っているということだ。

「上から目線だ」と感じるのは、本来下にいるはずの人に下からではなく上から目線を送られたことに対して、自分の認識とは異なる相手の予想外の態度に対する違和感・怒りの感情が発生しているからである。

分かりやすく喩えるなら、自分は上司で相手は部下だと思っていたり、自分は先輩で相手は後輩だと認識している状態なのに、いきなりため口で説教を垂れてこられたような感覚である。

つまり「上から目線だな」と思うということは、言ってきた相手を自分より下に見ているということを意味している。

それこそ、上から目線ではないだろうか。

私は当該の発言をしてきた人を、今まで自分が悩んできたけれど解決に近づいている問題に今もなお悩んでいて、問題の本質に気づいていないのに、分かったつもりになっている、と思って下に見ていたように思う。

それが事実だったとしても、私はその人よりも問題の認識レベルが上にあるという傲慢な思い込みを自分のなかに発見して、少しショックだった。

 

本来人には上も下もないのに、上下関係をつくるのは、常に自分の「思い込み」だ。

そしてその思い込みは、己のなかの不安や恐れから生成されている。

「私は分かっている」「私は成長している」

そう思いたい。自信がないから他人と比べて安心したくなる。本当にそうであればそれは全く気にする必要が無いのだが。

不安や恐れは必要な感情である。

ネガティブな気持ちがあるおかげで、私たちは己を省みたり来るべきリスクを予想して備えることができる。それが行き過ぎると、強迫性障害や全般性不安障害になるが、全くなくても双極性障害の躁状態のようなもので、バランスを欠く。

大切なのは、誤魔化さないことである。

不安や恐れがある、ということを認める。認めて、傍らに置いておくことができる。

それが最も自然な状態だということ。

感情に反応する人ではなく、感情を認めて自ら行動する人であるということ。

不安や恐れが自分のなかに「ある」と謙虚に認識しているか否か、だが、この違いはとても大きい。そしてとても難しい。

 

Timing is everything; don’t jump the gun

とらわれないようにするには「この人との間に上下関係はなく、対等な関係なのだ」と自分の認識を正すことだ。

先の私の思い込みを例にとって言えば。

その人が「このイベントには意味がない」と思うことは、その人の権利であり自由だ。好きなようにそう思っていればよく、今後参加するかしないかも、私がどうこう言うものではない。必要だと思えば参加するのだろうし、不必要だと思えば離れていくのだろうし、意味がないと言いながらも足しげく通ってくるかもしれない。それは私にとってはどうでもよいことだ。

その人の人生は、その人が決めるからだ。そうでしかありえない。

私は私で、意味があるイベントにしたいという願いを形にするためにできる事をするだろうし、意味がある時間と空間を作り上げるためだったら、意見を求めたりもするだろう。

そうやってできたものをどう評価するかは、一切合切他人の領分なのであって、私は私が提供できる最良のものを準備するところまでしか、できることはないのである。

チャンスをどう受け取るかは他人の準備ができているかどうかにもかかっている。

啐啄同時というのか、わかるべきときはわたしにもあなたにも「与えられる」ものであって、遅いも早いもないのである。その人にとってベストなタイミングがある。

私が未だに知らないことは星の数ほどあり、私より頭がよく詳しい人は数えきれない。

そういう無数の英知から、私は日々学んで少しずつ「なりたい自分」になっていく。

そのような牛歩の歩みは人間であればだれでもそうで、特別なことは何もない、こと人生という営みにおいては。

だから、上から目線だと言われたときには「ああ、この人にとっては、私には至らない点があるんだな、それはどういう部分なのだろう」と思って耳を傾けてみる。

それが私にとってもそう思える内容なら改善のチャンスだし、的外れな思い込みなら「不安だから私を下に置いておきたいだけの人なんだな」と思ってスルーしておけばいい。

上から目線だな、と思って怒りの炎が心のなかでチリリとしたときには「ああ、今自分のなかには相手を下に見ている気持ちと、それを生む不安や恐れがあるんだな」と思って心に耳を澄ませてみる。

不安や恐れが見つかったなら、それを信頼できる人に打ち明けて聞いてもらえばいい。楽になるだろう。そして客観的にその思いが真実か思い込みかどうか、落ち着いて眺めてみることだ。冷静になれたあなたは、たいていが杞憂だと気づくはずだ。

こうやって書いているけれど、言うは易く行うは難し。実に難しい。

まだまだだな。

【共依存】信頼関係の原則のひとつは「アサーティブネス」

英語って大事だなと最近特に身に染みて思う。

日本語というとてもニッチな言語しか習得していないことはとても大きなリスクだった。

それを知らずにここまで生きてきたことを後悔している。

今からでも語学力はつけるべき能力だと思う。

 

最近観て勉強になった動画は すべて英語

 

全部ウイルス感染症に関する動画だが、英語を知らなければ何を言っているのか全く分からない。

親切に日本語字幕をつけてくれてYoutubeにアップされても、すぐに消されてしまうので、英語を勉強していない人は内容を知る由もない。

ここで上記の内容を要約して書いたりするとこのブログが閉鎖に追い込まれることは必至なので、ご勘弁願いたい。

 

分からない医学用語はネットで翻訳したり、聞いたイントネーションから単語を想像して打ち込んで調べたりと、時間がかかる。

とてもめんどうくさい。

だから、みんなあまりやりたくないだろう。

だからやらない。やる価値が無いと思い込めたほうが、不安にもならない。

だから、触らないで遠ざけてみて見ない振りをする。

まるで童話の『狐と葡萄』に出てくる、取れない葡萄を「どうせ酸っぱくてまずい」と言って諦める狐のように。

でも、めんどうくさいことには価値があるのだ。

そうでなければ知ることができない情報があるのなら。

 

実際、これをみるとかなり日本のメディアが報道している情報とはかけ離れている。

ワクチン接種を推奨している理由が、別の角度から見えてくる。

そしてその理由は私たちにとって歓迎できるような内容ではないことも・・・。

 

私たちはお互いに「見えている世界」しか見えない

私たちはつい、今見えている世界が、世界そのものだと思いがちだ。

でも、今見えている世界は、私たちが経験してきたものや今の立場から見えている景色の一つでしかなくて、全く違う人生を生きてきた他の人からは、180度違う世界として見えているかもしれない。

ついつい自分が見えているように、他人にも世界が見えていると思い込んでしまう。

だから分かり合えないと動揺するし、自分の世界観が揺らぐことはとてつもない恐怖なので、相手の世界を否定して自分の世界を守ろうとする。

こうして口論や戦争といった、人と人の醜い争いは勃発する。

 

この争いを生まないために最も重要なものは、想像力だ。

「もしかするとこの人は、私とは違う見え方で世界が見えているのかもしれない」という想像力をもつことだ。

どちらの見え方が正しいのでもない。

歪んでいると思っても、その人にとってはその世界が今まで見てきた親しみのある「世界」なのだ。

いきなりどこの馬の骨とも知らぬ人間から「違う!」と大声で指を指されたらどうだろうか。

自分を守るために「そんなことはない!」と意地になるだろう。誰もがそうだ。

 

自分と違う意見と出会ったとき、それを無理に一緒にしようとしないこと。

それぞれの見方や意見に、同等の価値があると認める謙虚さを持つこと。

論理的な正しさは、絶対的な正しさではないのだ。振りかざして武器に用いてはいけない。それは間違った使い方だ。

お互いの見え方を分かり合うために、より妥当な妥協点を探るために、コミュニケーションをとるために論理はある。相手を論破するだとか、そんな安い目的に使うものではない。

 

論破するのがひろゆき氏を筆頭にさも優れた人間の作法のように語られることには、嫌悪感とともに違和感が大きい。

本当に優れた人間性を持つ人間は、論破しようとはしないからだ。

なぜなら、正しさは一つではないことを知っているし、そんなに単純に世の中ができているわけでは無いことを経験しているから。

自分の頭のなかだけで考えているから、実態からかけ離れていく。しかし論理的には正しいので、だれも何も言わなくなる。結果、独りで頭のなかだけで閉じている。

独りでしゃべって得意になって他人を傷つけ、周りには誰も近寄らない人。

それはもはや、優秀な人とはいえない有様だとは思わないだろうか。

 

アサーティブに話ができる人を信用しよう

学歴とか資格とか、社会的地位とか収入とか、そんなものでは全く他人のことは分からない。

たまたまそういう基準があって、たまたまその基準にマッチする結果が、たまたまその人の手に転がり込んだだけだ。

なぜなら、人はひとりで何もかも成し遂げることができないからだ。

必ずすべては見えないチームの成果である。私たち一人一人がつかむものは、時代も国境も超えた見えないチームの成果だ、と自覚できていない時点で、その人の経験の浅さが知れる。

 

私の経験上、ひとつ指標になると思うのが、「アサーティブネス」だ。

画像引用元:http://www.genkipolitan.com/a/asa/3type.html

 

たとえば、Twitterは「アグレッシブ」同士が常に殴り合っている。24時間営業の異種格闘技のリングのようなものだ。疲れ・寂しさ・悲しみ・怒りが募るに決まっている。常に被害者か加害者としてその心に傷を負っているのだから。できるだけ離れたほうが良い。

そうした傷つけあう関わり方、あるいは無責任で消極的だったり罪悪感で誘導しようとするような「ノンアサーティブ(パッシブ)」な関わり方をする人を信頼しないのは、とても大事だ。

なぜなら彼らは、あなたをサンドバックにするか、あなたに体重を預けて寄りかかろうとしてくるからだ。あなた自身の自由と権利が脅かされかねない。

 

「アサーティブ」な関わりができる人と時間を過ごそう。信頼してお互いに助け合おう。

その限りにおいて、人と人との関わりはとても美しく愛に満ちたものになる。

RADの私がそう思うのだから、おそらく間違いない。

 

 

宮台真司氏は、各論でたまに誤ったことを自信満々に断言してしまったり、注目を集めるために強い言葉を使って人を傷つけたりすることもあるけれど、やはり一流の社会学者だと思っている。

「社会という荒野を仲間と生きる」

というスローガン、私はとても好きだ。

まさにこれだ。

アサーティブに他人と接することができ(他人の世界を尊重することができ)、失敗の痛みと正しさの薄っぺらさを経験した深みのある人間。そんな人間と仲間になって助け合うよりほかに、この社会という荒野を生き抜く術はないのではないかと思う。

幼少期とは、人生のためにその術を試行錯誤できる唯一の練習期間なのだ。

失敗しないように純粋培養しようとしてはいけないし、衝突を保護者が恐れて飼いならしてはいけない。

そういう悪い意味での温室育ちの弊害として、想像力の欠如と正しさの奴隷化を促進しているように思う。

まずは私が見本となれるよう、アサーティブを勉強し、身に着けていきたいと思っている今日この頃である。

どうせ12月に新型コロナウイルスは「流行らされる」ので、まともに仕事にならないだろうから、ちょうどよい。