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【依存症】ゲーム依存症「ゲームそのものやハマる子供が悪いワケじゃない」

最近、ゲーム依存の相談が多い。

私は課金ゲームやスマホゲームはあまりハマれなかったので、その手のゲームには疎いのだが、「CERO:Z」のゲームで人を殺しまくるのにはハマったことがあるから、ゲーム依存当事者の自覚があり、気持ちの一部を分かるつもりでいる。

「CERO」とは、ゲームソフトの年齢別レーティング制度を運用・実施する機関としてコンピュータエンターテインメントレーティング機構(略称CERO)である。

 

ゲームには種類がある

そのCEROが定める「年齢別レーティング制度」において、市販されているゲームは以下の分類で表記されている。

 

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

基本的には、下記のような刺激の強い描写があるかどうか、で年齢制限を判定している。

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

相談してくださる私より年配の相談者の皆様は、このCEROのような年齢制限を知らないことも多々ある。

「とにかくゲームはよくない!」と十把ひとからげに思い込んでいらっしゃる方もいるので、まずはこのようにゲームのなかにも種類があることを説明する。

 

私のゲーム依存遍歴

私は大学時代、とにかく殺したり盗んだりする刺激の強いゲームが好きだった。

CERO:B(12歳以上対象)の『戦国BASARA』シリーズ・『三国無双』『戦国無双』いわゆる無双シリーズ、

CERO:C(15歳以上対象)のホラーゲーム『サイレントヒル』シリーズ。

CERO:Z(18歳以上のみ対象)にあたる『グランド・セフト・オート』シリーズ、『ウォッチドッグス』。

などなど。

一時期などは、大学の講義など全てそっちのけで、酒を飲みながら部屋を真っ暗にしてずーっとやっていた。食べ物と酒を補充するためにコンビニに行くくらいしかしなかった。結果、単位をほとんど落とし必修科目すら落としかけて、留年の危機を味わった。卒業が危ぶまれたが、なんとか卒業できた。まさに奇跡である。

とにかく現実が好きじゃなかった。

仮想の街、仮想の物語、仮想の人物と過ごす世界にどっぷりハマって戻ってこれない、いや、これないんじゃないな。

私は意識的に、現実になんか戻ってきたくなかった。

当時。エチルアルコールで曖昧になった意識のなかで、別の人生を生きているような幻想的なゲーム中の時間。それが、最も私が安心できる時間だったように思う。

捨てきれない義務感でなんとか卒業し就職したものの、その後アルコール依存症や精神疾患に悩まされることになるのだが、それはまた別の話。

つまり、ゲームの刺激が強いからハマる、という脳のドパミン神経系の医学的な考えも分かるのだが、本当の問題の根本は「こんな現実くそくらえだ」「生きているのがつらくて少しでもいいから忘れたい、逃げたい」と本人に感じさせる『生きづらさ』だ。

いくら無理やりゲームをやることはやめさせられたとしても、その『生きづらさ』に寄り添わない限り、必ず別の形で表出してくるだろう。

 

ゲーム依存は子供たちの悲鳴の現れ

親は、自分の子育てのしかたのせいで我が子を辛い気持ちにさせている、などと思いたくない。

ゲーム依存になっているのは自分たちにも問題があるかも…と認めることは、愛情をもって育てていることを否定されるような気がして、恐ろしさを感じるだろう。

その痛みと恐れは、とてもわかる。

私も親になり、子供が自分のせいで苦しんでいるなんて言われたら、認めたくない。いかに「自分がこの子のために尽くしてきたか」「どれだけこの子を愛しているか」を唾を飛ばして必死に弁明するかもしれない。

誰も悪くないと思う。

分からないなりに、必死にやってきたのだ。

子どものことを必死に考えて、良い人生を歩めるように、自分と同じ失敗をしないために、と思うがゆえ、というのが、親たちの生の姿だと思う。

だからこそ、私たちは親として、本当は「自分のため」にやっていることを「子どものため」とすり替えて押し付けない勇気と真の愛情をもって、子供と向き合う必要がある。

 

なぜ、我が子はゲームをするのか?

我が子は、面白くてやっているのか?それとも面白いとは感じていないのか?

そもそも何が面白いと感じるゲームなのか?

一緒にやったことがあるか?一緒でなくても、ひとりで試しにやったことはあるか?やったことがないなら、どんなところが面白いのか、興味をもって子供に尋ねたことはあるか?

 

そうしたことをしていないのに「ゲームのやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言っているとしたら、立場を置き換えて考えてみるとわかりやすい。

 

あなたがとても好きなもの、寝ても覚めてもそのことを考えるような趣味があるとする。

それを知りもせず、やったこともなく、共に語り合ったこともないのに、「そんなもののやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言われたら、どうだろうか。

「こういう脳によくないというデータがある」「そんなにハマるのは病気だ」と言われたら、どうだろうか。

私なら、心を閉ざす。

この人には私のことは分からない。だから、こっそりやろう。よく知りもしないくせにえらそうに面倒なことを言うから、もう黙っていよう。

そうやってどんどん、双方の心の距離は離れていくだろう。

 

たとえば「これから仲良く付き合いたいな」と思っている人がいるとして、まずはその人が興味を持っている物事のことを真剣に聞くだろう。真剣に調べるだろう。話題が合うように、努力するだろう。

その労力こそ、すなわち「愛情」である。

 

それを、我が子に注いでいるだろうか?

 

まだ幼い子どもだから、親である私たちの言うことを聞くのが、当たり前だろうか。

とんでもない。彼らは、私たちと対等な一人の人間である。

親である私たちの言うことは常に正しくて、彼らの考えることは稚拙でとるに足らない考えだろうか。

とんでもない。私たちも間違う。彼らは彼らなりに考えている。その考えを尊重しないのは、彼らの人格を尊重しないのと同じことだ。

 

必ずしも、親だけではなく。

先生も、塾の講師も、クラブのコーチも、近所のおじさんおばさんも。

子どもを取り巻くこの社会の大人たちが、尊重してくれない。話を真剣に聞いてくれない。正面から真剣に向き合ってくれない。

その辛さに「もういやだ!!限界だよ!!」と悲鳴を上げているのが、聞こえてくるのではないだろうか。

 

まとめ:ゲーム依存症は、子ども個人の病ではなく、社会の病

その土地の自然(人工物ではない土や水や動植物たち)に触れることがなくなり、自然と遊ぶという最も重要な営みを子供から奪ってきた社会。

子どもたちを、自然から不自然に隔離している都市。過剰に干渉し正しさで管理する社会が、子供たちの精神と肉体を蝕み、WHOが示すような自殺率の高さや幸福度の低さを招いているなぁ…と思う。

ゲーム依存は、そうして居場所を奪われ苦しんできた子供達が、この現代社会でなんとか見つけた避難シェルターのようなものではないだろうか。

つまり、ゲームに依存する子供側の問題というよりは、私たちに問題の本質があるのではないだろうか。

彼らの居場所を奪ってきた正しさへの囚われ・リスク偏重主義的な社会構造。それを是とする私たち社会人の貧相な価値観。これら社会的な背景・生育環境に問題の本質がある、と私は考えている。

「やめさせるためにどうすればいいか?」とか「ゲームやスマホが脳にいかに有害か?」とか。私たちは誰しもHOWに頭が偏りがちで、本質的な課題を見て見ぬフリをしやすい弱さを持っている。その弱さを、隠さず認めることが、まず第一歩だと私は思う。

子供の行動を制約する正しさや、コントロールするための方法論ばかりを考えて、子供に強要する前に、私たちのほうにこそ議論すべき課題は山積しているのではないか。

相談を受けていると、そのように思うことがある。