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【AC】「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない

私は、身長170cm・体重92kg・体脂肪率19% だ。

数字でみて、あなたはどう思うだろうか。

太っている、と思うひともいるだろうし、デカい、と思うひともいるだろう。

私の身体を数値的に表した事実から、人が想像するものは異なる。

その違いは、いったいどこからくるのだろうか?

 

ひとは見たいものしか見ない

太っている、と思った人は、体重をみたのかもしれない。

「いかに低い体重を実現するか」を重視している人にとって、92kgは「重い」と感じるので、そこから連想されるのは「太った身体」というイメージなのかもしれない。

または、体脂肪率をみたのかもしれない。

「10%未満でないと痩せているとは言えない」などと思っている人にとって、男性で19%というのは「痩せている」と表現するには許せない数字なのかもしれない。

デカい、と思った人はどうだろうか。

おそらく瘦せ型の身体を鍛えていて、筋肉をデカくしてパワフルな身体になりたい、と思っているのかもしれない。なかなか体重を増量できない人にとって、食べて動いて筋肉の重量をあげることは大変なことだから、羨ましさを感じるかもしれない。

 

ここまで読んでみると、見え方の基準には必ず、自分の願望や価値観が隠れている。

「こうでありたい」「こうであるべき」という自分の感覚で、数字という情報から、知らず知らずのうちに好きなようにひろってきて勝手に判断している。

つまり、他人のことをあれやこれやと言うとき、ひとは自分のことを見て話しているのである。

 

だから他人の評価は「サンプルその①としての価値」はあるかもしれないが「絶対的に正しい価値」ではない。

客観的だからといって、すべてが正しいかと言えば、それは違う。

客観的にみる、といっても、人それぞれに客観的な見方は異なるからだ。

先に申し上げた通り、人は自分の見たいように物事をみているので、必ず自分の願望が入る。客観的と言いつつ、常に一部主観的であることから逃れることはできない。

つまり、完璧な客観性など存在しない。

たとえば空を見てAさんが「青いね」と言っていてBさんが「そうだね、青いね」と言っていたとしても、全く同じ「青色」に見えているかどうか、正確にはわからない。微妙に彩度や濃淡は違って見えていてもおかしくない。しかしその同一性は検証しようがない。

だから、私とは違う個体が同じ事象をどのように見るのか?という一応の参考にはなるけれど「他人が見て言っているのだから(客観なのだから)主観よりも真実に近い」というのはおかしい考え方で、他人の視点というのは常に「自分が見る世界と同じ程度の価値をもつ、似ているけれど少し違う別の世界観」というだけなのである。

 

だから、私は「太っている」と言われようが、「デカいね」と言われようが、「意見を述べてくれてありがとう。そうか、あなたのなかではそうなんだね」としか思わない。

そうでしかなく、それでよい。

 

アイ・フィール・プリティ!

『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング (字幕版)』

という映画がある。

私はとてもこの作品が好きだ。

 

 

【あらすじ】

自分の容姿にコンプレックスがあり、仕事も恋も積極的になれないレネー(エイミー・シューマー)。ある日、自分を変えようと通いはじめたジムでハプニングに見舞われ、頭を打って気を失ってしまう。そして目覚めると、絶世の美女に変身していたのだ(とただの勘違い)!見た目はそのまま、超絶ポジティブな性格に生まれ変わったことでレネーは自信に満ち溢れ、仕事も恋愛もすべてが絶好調になるが…!?

 

主人公は、客観的には何にも外見が変わっていない。

自分自身を「魅力的だ」と思うか「ブスだ」と思うかは自分で選べる、生き方は選べる、というメッセ―ジをコミカルに描いている。

この映画のスト―リー展開を観るたびに、女性だけでなく、人は皆そうなんじゃないかと思う。

 

結局のところ「自分がどう思うか」がすべてを決める

私はトレーニングをしている。

なぜトレーニングをしているかというと、楽しいからだ。

先週よりも1回多くMAX重量を扱えたとか、少しずつ筋繊維が太く大きくなっている変化を感じるとか。

この栄養を摂ってこの運動をすると〇週後こういう変化がある、という理論上の身体的変化を、仮設通りに自分の身体で再現できたときとか。

いわゆる「楽しい遊び」としてやっていて、前の自分と比べた変化が面白いから、やっている。

他人よりも優れた身体になるため、つまり比較の為ではない。今更異性にモテたいわけでもない。痩せたと他人に言われたいからでもない。

自分が「目指す良い体に少し近づいたな」と思えたなら、それは楽しい。

 

人生やメンタルでも同じことがいえると思う。

他人と比べても、キリがない。

もって生まれたポテンシャルも文化も、何もかも初期設定が違う者同士、異なる価値観を包摂しながら社会を構築して生きていかなくてはならない、この浮世だ。

他人と比べること自体が、ナンセンスなのである。

能力を競うこの世のあらゆる競争はすべて「遊び」であって、それで勝っても負けてもその人そのものの価値に何の傷もつけない。

オリンピックに出ようが、世界一になろうが、それはたまたまそういう結果が一つの比較で生まれただけであり、その人の価値がどうこうするものではない。

「競争」を「遊び」として楽しむ範囲において人生は健全だが、それに囚われると、途端に不健全になっていく。

他人に一部の能力で劣る自分を「生きている価値が無い」とまで思い詰め蔑み粗末に扱ったり、一部の能力で優れているからといって増長して他人よりも自分のほうが価値があると思い込んで傲慢になったりする。

それは自分で自分の存在価値を認識しづらいから、「競争」という場で優劣をつけることで「自分の立ち位置」を確かめないと不安なのだ。低いのか高いのか、どちらでもいいから自分のポジションを決めたくて、人は卑屈になったり不遜になったりしている。実にばかばかしい。

仕事にハマる人、特に大きな組織に属しているワーカーホリックはだいたいこれ。

不安を抱えているから、ポジション取りに必死になる。

成績で横並びに優劣をつけられ、その競争のなかで褒めてもらうことを生きがいにしている。

それを人生のなかのサブゲーム的な位置づけで遊びとして楽しむなら別にいいのだが、「人間としての価値を決めるゲーム」だと思っていることが多いのが、このタイプの辛いところで、負けたら死ぬしかない、死んでも仕方ないと思っている。

パワーゲームで人を殺し、人に殺される。それがワーカーホリックの世界だ。

とんでもない!遊びで殺されてたまるか!!

しんどかったらゲームから降りてもいいし、楽しくなかったら別のゲームに移行していいのだ。

だって、ただの遊びなんだから。

 

しかし、今この社会を構築しているいわゆるエリートと呼ばれる人々が、だいたいこんな調子で病んでいる。なので、本当に人が死ぬ羽目になっている。それがこの日本社会である。

出世のためにポジション取りに忙しい人々が本当に必要な仕事をしないせいで、人が今どんどん死んでいる。コロナショックはウイルスによる自然災害というより、行政官僚制のなかで腐っていった人間による人災だ。

相当終わっていると思う。

 

まとめ:少なくとも忘れないでほしいこと

それは、

「あなたの幸せは、あなたが定義するものだ」ということだ。

 

誰かのお仕着せの「幸せはこれだよ」というのを真に受けて、信じないこと。

 

大企業で安定した暮らしをするのが幸せらしいから、いい学校に行っていい会社に就職する。

結婚したほうが幸せらしいから、結婚する。

子どもは2人以上いたほうがいいらしいから、子供をもうひとり産む。

 

そういう他人の幸せをなぞったところで、あなたは幸せにならない。

「他人からどう見えるか」というのは 実は「あなたの幸せ」には全く関係ない。

「他人からどう見えるか」ということばかり追いかけていると、自分がどう思い、どう考え、何を幸せと感じるのか、何もわからなくなってしまうよ?

私みたいに。

 

今ここから、他人は自分のするすべてのことや今の自分すべてを肯定してくれると仮定して考えてみよう。

あなたは、何がしたいのか? あなたが心の底から楽しいと思うことは何なのか?

他人を関係なしに思い描いたとき、あなたはどんなふうになりたいのか?

それこそがあなたの幸せである。

 

 

【仕事】Gと仕事は似ている(※虫が苦手な人は見ないでください)

仕事がもうどうでもよくなってきた。

仕事のことをあれこれ愚痴ってきたけれど「もう、いいや」と思えてきた。

今も会議中だけどもう全然聞く気にならない。

それに対してイライラしてきたけど、もうイライラすらしない。

なお、Gとはゴキブリである。苦手なら速攻ブラウザバックしてほしい。

 

資本主義社会は好きじゃない

仕事は、生活するお金を得るために必要だからやっているけれど、本来したいわけがない。

お金が必要だからしぶしぶやっている。

できることなら、好きな本や映画を観て、他人に関わらずのんびり過ごしたい。

でもそんなことは不可能だ。

なぜなら、この世は資本主義社会だからだ。

何かメリットを生み出し、経済価値に還元しなくてはならない。

本当は、感謝されて、その感謝と敬意がお金として支払われるのが健康的だ。

だけど現実はそうではない。

本当は要らないものを必要そうに見せかけたり、業界を独占して提供するサービスの値段を吊り上げたりする。

なぜか?お金に対する恐れと不安から、よりたくさんのお金をより安定的に得ることを追い求めるからだ。

そのために、経済活動を突き詰めれば突き詰めるほど、本質を見失う。

要は、手段が目的になってしまうのだ。

本当に必要なものは何もしなくても売れるので、必要のないものをいかに騙して買わせるかというパワーゲーム・マネーゲームが目的になる。

本当は人と人とを繋ぐ一つの価値観でしかなかったのに、経済的価値は、人々の命と生活をお互いに縛り合う呪縛と化している。

だから楽しくないし疲れる。

人の役に立ちたいという誠実な願いを持つ人間が踏み台にされ「他人より優れていたい」「他人をコントロールしたい」という私利私欲に忠実な人間がのさばる腐りきった世の中。

それが今の世の中。

 

もうそんなもんだと思うしかない

仕事も、嫌すぎたら辞めりゃあいいし、結局どの仕事したって経済活動である以上、同じような人間の嫌らしさや醜さを見ざるを得ない。

それは、転職を経験してよくわかった。

規模の差でも、会社の差でもなかった。

この社会全体がもう醜く歪んでいるからだった。

最近そのことがよくわかった。

 

最終的には、この不快感を「人生の代謝物」として受け入れるしかないんだな、と悟った。

誰でもうんこすると思う。仕事はうんこだ。

どうしても生きていれば汚物を処理しないといけないみたいに。

仕事という呪縛も「変えられないもの」だと知った。

実際、今いる会社の規模がでかいことや、様々な組織が代々いろいろやってきたことの積み重ねで、今の私や私の家族が、社会生物として生きるうえで助けられている。

ゴキブリやハエがバクテリアと一緒に糞尿を分解してくれるから、地球の生命の循環が途切れないわけで、会社や経済的な繋がりは、まさにそんな感じだ。

「ぐえ~…気持ちわりい!」といくら嫌ったところでゴキブリやハエを絶滅させることは不可能だし、そんなことをしたら逆に困ることになる。また別の問題を抱えるだけ。

つまり私が、会社や仕事を「過度に恐れず」「過度に寄りかからず」うまく共生していけたらいいだけなんだよな。

いくら嫌っても仕方がないし、彼らは彼らの生き方を変えることはできない。

そしてもちろん、私は彼らの在り方を変えることはできない。

 

ゴキブリも仕事も 必要な世界の一部

ちなみに私はゴキブリを尊敬している。その不屈の生命力と身体能力の高さには、遭遇するたびに度肝を抜かれる。

でもゴキブリを嫌いな人は、見たくない、触りたくない、この世から抹殺されてほしい、という感じだと思う。私は仕事がそんな感じ。

でも仕事はなくならないし、生きていくためにどうしても付き合っていかなくてはならないものだ。

 

だから、もうしかたない。

嫌いでも割り切って適当に付き合っていくしかない。

そう思ったら、あまりイライラしなくなった。

 

バウンダリー(境界線)を引いて、侵略されたらしっかりアサーティブにコミュニケーションをとる。

ゴキブリに例えるなら、台所に現れてしまったら、目撃した個体をしっかり殺して、私の家の領域を守るために追い出す。

しかし、相手の在り方には干渉せず、違いがあっても、私が嫌いでも、存在を否定せずに、世界の一部として包摂する。

ゴキブリに例えるなら、世界の果てまでゴキブリを駆逐するようなことはせず、自分の家以外で目撃しても温かく見守る。

そんなふうに、お互いの価値観が違っても、境界線を守りながら存在を尊重する関係の在り方を、法人に対してもゴキブリに対しても適用していくのが、一番自然なんだよな、と思う。

私は少し大人になった。