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【AC】他人を頼れないあなたの「自己責任論」には感謝に対する「恐れ」が隠れている

「ひとりで生きてるような顔しちゃってさ」

2年前義母にそう言われたとき、私は「はぁ?」と青筋を立てた。

 

義母に対して感じた蔑み

第1子の産後、手伝いのために義母が私たち夫婦の家に来て、生後間もない長女の子育てを手伝ってくれていたのだが、私は当時とにかく義母が気に食わなかった。

何で気に食わなかったのか?

それは彼女を心の底ではバカにしていたからだ。

ろくな企業に就職した経験も、ましてや成功した経験もない。子育て中に夫婦生活に耐えかねて3人目の子どもである妻が当時まだ小学生にもかかわらず蒸発して逃げた。今まで最も時間を費やしてきたであろう料理すら、大しておいしくない。

それら全てにおいて、私のほうが現時点で上である、という自信があった。

自分は基本的に能力がなかったけれど、それを努力で埋めて何とか生きてきた自負があった。

だから、冒頭の言葉を言われたとき「それはてめぇがしょぼくて、その上頑張りが全く足りてねぇからだろ?自分の無能さを棚に上げて偉そうに何言ってんだボケ」と思った。

そんな無能なやつに助けなんて借りなくてもやれるのに。

こんなやつに助けを借りないと子供を育てていけないなんて。

だから感じたのは感謝ではなく屈辱だった。

とてつもなく心根が腐った娘婿。

それが私だった。

 

当時、私は独りで生きてきたつもりだった。

親は精神的支えとしては頼りにならなかった。それどころか、過干渉で侵食してきて逆に人生を邪魔をしてくる存在だった。

クソ田舎でいじめられて辛い思いをした。大しておもしろくもない小さい世界で生きているくそみたいな田舎者に囲まれて暮らしていたのに、何とか抜け出して努力して努力して努力して努力して、なんとか形にしたのだ、と思ってきた。

決して環境は恵まれていないという自覚があった。

そのなかで自分の努力で這い上がってきたと思っていた。

それなのに、特に頑張りもしていない下等なやつが、独りで生きているような顔をしている、と私を下にみるのは許せなかった。

そりゃてめーが無能なのに努力しねーのが悪いんだろうが。ふざけんな。俺は頼れる人間なんていなかったし、独りで生きてこなきゃいけなかったんだよ。お前みたいにしんどかったら逃げたりするような、クズじゃないから大変だったんだよ。ぬるま湯のなかで他人に迷惑をかけて生きてきたくせに偉そうに。用が済んだら大して役に立ってねーんだからさっさと巣に帰れよ。

と思っていた。

だいぶやばいな、書いてて引くわマジ。

つまり、私は共同体に対する感謝なんぞは全くなくて、むしろ憎しみと恨みがあった。

他人はすべて敵だった。自分を否定してきた敵だと思っていた。

 

ちなみに、私の両親もそのようなルサンチマンを抱えていたように思う。

だから子供に「社会的成功」を求めた。あの、私たちを虐げてきたあいつらを見返そう、という競争に勝ち抜く生き直しを子供に求めたと言える。

我が子が親元を離れても独りで強く生きていけるように。

そんなきれいな言葉の裏には、社会に対する憎しみと恐れが隠れている。

自分たちが優秀であること、それを裏付ける実証的結果を子供の社会的な成功に求めるという「人生の押し付け」が、機能不全家庭では行われる。

 

感謝は、屈辱であり隷属宣言?

私は「感謝」は「隷属」の宣言だと同じだと思って恐れていた。簡単に感謝することなどできなかった。

親との関係がそうだったからだろう。

「親を頼る」というのは、親の過干渉の支配下に甘んじる状況を許容することを意味したからだ。

屈辱的だった。感謝するときは負けたと思ってた。

成功は自分のおかげ、失敗は自分の努力不足。

そうやって自己責任論に終始していれば、「親に飼われているという屈辱」は少なくとも避けられる。

だからより、他人に感謝したり頼ったりすることを忌避していったといえる。

 

そうやって凝り固まっていく「自分は自分でコントロールできる」という思い込み。

それは恐れから来ている。

権威ある存在に対する恐れ。コントロールされる恐れ。

親のように、社会にそうされてきたように、「お前の想いなんて知るか、私たちが思うように動け」と強制されるのではないか。

安心感が無い環境で生きてきたことが、他人に伸ばす手を引っ込めさせる。

 

「無力」という弱さを認める

コントロールに対する恐れ。その劣等感から立脚される自己責任論。

それは「弱さ」そのものだ。

今この日本の社会で成功している人って、実はそういう弱い人が多いんじゃないだろうか。

そしてその弱さに自覚がないからこそ更なる社会的成功を求める。

自己肯定するような大義名分を周囲にも求めるので、認知の歪みをそのまま社会構造に反映させて、システム的に他人にも強いる。

それが日本の貧弱な現代社会の在り方ではないか。

自己責任論はつまり「なんでお前は俺のように強く生きられないの?」という意味なのだが、自己責任論はある種の「弱さ」からくる弱者の処世術だとは気づいていないから、そんな言葉が口から出る。

特に1960年代(2021年現在で50代)の世代などは特に濃い。日本の高度成長期の下克上的歴史的背景のなかで生きてきたので、共同体(関係性や恩)を切り捨てて全部自分でやってきたという自負がある。だから無意識に同じ苦しみを味わうのが当然だと思いこみやすい。

だから論理的に効率的に、共同体の機能的向上や快適さの追求を下の世代が訴えると、「甘え」だと思い批判的な態度を取りがちだ。

たとえば、今あるプラットフォームに乗っかって何かしようとすることを不自然に嫌う。

一から何か作れよ、そしててめーの力見せろよ、とヤンキーが根性焼きを迫るようなパワハラをかましてくる。それは結局ただのマウンティングだけど、本人たちは良かれと思っている。タチが悪い。

この動画がとても勉強になった。

 

持たざる者として辛酸をなめてきた人々。社会を恨み構造改革してメガコンペティションのなかに人々をぶち込むという「自分が信じる正義」の実現を目指した人々。それがグローバリストの背景だと思うし、今偉い立場にいる人たちのメンタリティの基礎だと思う。

このメンタリティは「自分の人生をコントロールできる」という驕りの上に成り立っていて、結局は12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力」を認めていない。

だから、認知の歪みを生じる。

自由競争のなかで、助けを借りず、生き抜く・勝ち抜く・自己成功することは「良いことだ」と思っているわけだが、そうではない。

なぜなら、人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできないからだ。

たまたま日本に産まれて、たまたま食うに困らない家に生まれて、たまたま学費が払える家に生まれて、たまたま他の人たちが立ち上げてくれた会社があったから就職先があって。

私はいろいろなものに支えられて今の状況を生きている。

それと同じように、今成功している人もまた、様々な共同体に無意識に所属していて、その「自分を超えた大きな力」に支えられて立っている、か弱い存在なのだ。

どんなに偉い人も、どんなにすごい人も、どんなに魅力がある人も、そうだ。

人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできない。

それを謙虚に認めたとき、景色は変わる。

この世にあるものは憎き敵ではなく、親愛なる友だったということだ。自分が敵だと思うから敵に仕立て上げていて、遠回りではあるが本当は全てのこの世のものが私を助けるものだったということに気づく。

 

無力を認めるステップ1を阻む「恐れ」を乗り越える

今までの文章を読んで冒頭の義母のセリフを読んでみると「ムカつくけどまあそうだよね」と思わないだろうか。私は思う。

当時、私には驕りがあった。だれにも頼らず独りで生きてきたという驕り。初期のステータスが大して恵まれてはいなかったのに、努力・自分の力で何とか生きてきたという驕り。

それは、恐れから目を背けるためだった。

恐ろしい他人を頼らなくては生きていけないような無力な自分を抱えて生きていかないといけないなんて、叫びだしたいほど怖い。

つまりそれほどの孤独のなかで生きてきたということで、それは意外と多くの人が抱えている心の穴なのではないだろうか。

頼れない。頼らないのではない、恐ろしくて頼れないのだ。

それは弱さに他ならない。でも弱さが悪いなんて言わない。みんな弱いのだ。私やあなただけが弱いわけでは無い。

弱い。それは変えられない。それでも頼れる勇気がある。それは強くあろうとする心。

勇気が持てないのもしかたない。心臓をえぐり取って差し出すようなことを、そうそうできるものではない。少なくとも私たちアダルトチルドレンにとって、依存症当事者にとっては、他人を頼るというのはそういう行為だったのだと受け容れよう。

何故、他人を頼ることができる人は、それができるのかといえば、安心感があるからだ。

頼ることを否定されなかった経験。皆に支えられて生きていて、それを交換条件に取引されるような環境ではなかった幸運。それらに恵まれているから、我々より勇気が比較的必要ないだけ。

つまり、その経験を私たちも積めばいい。そうすれば勇気が出せる。

それができるのが、自助グループという場所だ。

自分が思うことを話し、自分がしたいから協力する。

そういう共同体だからこそ、他人の好意を素直に受け取ることができる。

その経験を積み重ねて、勇気を出す練習をする。

それが、自助グループという守られた共同体で行える「尊いやり直し」だ。

 

今、社会で成功しているように見える・社会的成功に固執する人にこそ、12ステップ・プログラムと自助グループは、必要不可欠な処方だと思う。

だけど、それはあと20年後くらいの話だろう。

グローバリズムが終焉を迎えて、私たちが信じてきた自己責任論でどうにも首が回らなくなったとき。

私たちのなかで、最も尊いテックとして12ステップ・プログラムが注目され、自助グループという共同体の意味を知るのだと思う。

今はまだまだ残念だけど社会の壊れ方が足りないんだろう、これでも。充分やべーけど。

もっともっとどうしようもない地獄になって社会全体が「底付き」することが必要だ。

私はそのときのために、できる準備をしていきたい。

【AC】子供の頃の自分を癒すワーク(インナーチャイルドワーク)

インナーチャイルドワークというものがある。

方法は以下の通り。

 

1、落ち着ける静かな環境で椅子に座り、数回深呼吸しリラックスします。

2、自分の目の前に、こちらを向いて立っている56歳の小さな子供(自分の子供の頃の姿)をイメージします。

子供の頃の自分をリアルに思い出せなくても、なんとなくイメージすれば大丈夫です。

できれば何か嫌なことがあったのか、寂しそうにしているところをイメージします。

3、その子の気持ちを察してあげます。

あなたの目の前に立っているその子は、何か話をしていますか?

その子が何か話してきたら、しっかりと聞いてあげます。

何も言わなかったとしても、その子の気持ちを優しく受け入れてあげてください。

4、その子が癒されるように、その子がかけてほしいと思っているであろう言葉をかけてあげます。

例えば

〇〇ちゃん、あなたはそのままで価値があるよ

〇〇くん、あなたは~ても~てもそのままで価値があるよ

〇〇ちゃん、お母さんは、あなたのことが大好きよ

〇〇くん、あなたはお母さんにとって大切な存在だよ

こうした言葉をかけながら、小さな子供の自分を膝の上に乗せて抱きしめ、優しく背中や頭を撫でてあげます。実際に撫でる仕草をします。

5、もう一度、4と同じように言葉をかけます。

そして、あなたの言葉を聞いて、その子が嬉しそうな顔をしているところ(癒されているところ)をイメージします。

6、その子が喜んだり安心したりしているのを感じます。

喜んでいるその子供をゆっくりと自分の胸の中にいれ(その子と自分が一体となる感じ)、あたたかさや安心感、喜びの感覚が自分の体に広がっていくのを感じます。

ゆっくりと目を開けて終了です。

このワークは、15分から10分位でおこないます。

ワークのコツは、その子に何が起きたのか、何が原因だったのかを頭で分析しないようにすることです。

ただ自然にイメージがあらわれるに任せます。

自分の心の中で自然と起こる出来事を静かに観察するような気持ちで、リラックスした状態で行いましょう。

 

初期のインナーチャイルドの様子

ほんとこっちがいくら話しかけてもガン無視だった。

全然こっちを信用してくれずに土いじりして下向いてるイメージしか浮かばない。マジ心閉ざしとるなと思ったよ。

近寄ると離れるし、手を差し伸べるとペシってやられるし。

もう手の施しようがない‥だめだこりゃって思って愕然とした。

対話できてるっていう教えてくれた人、本当にすごいなと思った。私のインナーチャイルド、もう全身から負のオーラ出して全力でこっち拒否ってたもん。

幼稚園の制服を着ているから、幼稚園に行かなきゃ行けないけど、行きたくないんだろう、と思った。

 

「行きたくなかったら行かなくていいんだよ?あんなとこくだらねーんだから」

「別にさ、いい子にしなくていいんだよ」

というと、やっと顔を若干上げるんだけど、まだこちらの真意を探っている感じ。

 

当時の私は、本当は何がやりたかったのだろう?

 

「みんな嫌いだから行きたくない」

「全然楽しくない」

「そうかそうか、何ならしたい?」

「お話ししたい」

「もっとちゃんと聞いてよ。僕の話は、誰もいつも聞いてくれない」

「そっかそっか、それはつれーな」

 

「話したいこといつも途中で否定しないで」

「なんで最後まで聞いてくれないの?」

「僕が考えてることはダメなことなの?」

「いやいや、ダメじゃないよ。少なくとも俺はちゃんと聞くよ」

やっと立ち上がってこちらを睨みつけながら泣いている握り拳を握っている。枝を握っている。

「そう言って、いつも聞いてくれなかった。どいつもこいつも騙しやがって。信用できるもんか。そうやって聞くフリをしていつも答えは決まってる。それは聞いてないのと同じなんだよ!」

「わかるわ、それつらかったよね。それは話す気もなくなるよね」

「なくなるよ。もう諦めてたのに今更何しにきたんだよ。

「君の話を今度こそちゃんと聞きにきたんだよ」

「信じられるわけねーだろ、しね。ふざけんなよ」

「まぁ信じてもらえるまでいつまででも待つさ。話してくれてありがとうね」

キョトンとしている。

「めんどくさいって怒らないの?離れていかないね。不思議。あんたは俺に『なんでいい子にできないの』って怒らないのはなんで?」

「別に、いい子でなくてもいいからだよ。俺は模範解答じゃなくて、君の話を聞きたいと思ってここにいるからだよ」

「ふーーん、ま、今までのやつとはちょっと違うみたいだね。あんたは。」

「そう思ってもらえたら嬉しいけど、まぁ無理に話さなくてもいいさ、気が向いたら。いつでもそばにいるからさ。一心同体なんだし」

「そうなんだ、変なの」

ちょっと笑ってくれた。

 

最近のインナーチャイルドの様子

「本当は自分のなかでぐるぐる考えるのが好きなんだ。景色とか匂いとかいろんなことを感じて、頭のなかで空想するの楽しいんだ。

でも他の人といると、他の人が邪魔してくるんだ。

集中したいのにできなくてイライラしちゃうんだ。

だからひとりでぼーっとしてるのを怒られるのはすごく悲しかった。」

「めっちゃわかるわー。あるよねーそれ。」

「いやいやwおじさんはちゃんと大人なんだからそんなこと言ってちゃダメなんじゃないの?」

「んなことないよ、大人だって、1人になりたい時くらいあるんだよ。君のママや周りの大人はダメって言ったかもしれないけど、ダメじゃない、当たり前のことなんだよ」

「そうなの?お母さんは嘘つきだね」

「うん、あいつの言うことはマジで信じなくていいよ」

「ウケる!じゃあ感じたいものを感じて自分の過ごしたいように過ごしていいんだ?」

「うん、そうそう」

「それだったら、生きていくのも嫌じゃないかもしれないなー。おじさんありがとう」

「よかったよかった」

 

幼少期の私は本当に偉いと思う

私は本当によくここまで生き延びてきたと思う。

マジで暗黒でしかなかったのに、よく自殺しないで今まで我慢してきたよ。偉いよマジ。

だって、ほんときつかったもん。

例えば、近所のガキがサッカーしようて毎日くるのが死ぬほど嫌で、なんでお前らと玉蹴り遊びしなきゃならんのだ、俺はファミコンがしたいんだ、と常々思っていた。正直にそのことを言ったら誘われなくなった。(当たり前)

俺はそれで全く構わなかったし、面倒な誘いをしてくるうるせー奴らが消えてせいせいしていた。

しかし親が許してくれなかった。「友達になんてことを言うんだ、今から一緒に遊んできなさい」と外に叩き出された。

家にこっそり帰ろうとしたけど見張られていたので、渋々遊びに加えてもらおうとした。断られた。(そりゃそうだよなw)

そこで私は近所のガキにブチギレた。「こっちだってやりたくねーんだよ、でも家に帰れねーんだよ!付き合えクソ野郎!!」と泣きながら胸ぐらを掴んで入れてもらった記憶がある。相手も迷惑だったことだろう。

幼稚園もそう。一人で色水を作ったり、ナイフで極限まで木を削ったり、そういうことができればよく、わざわざ幼稚園というウジャウジャと人間がいる場所に通う意味がわからなかった。遊んでいるのにスペースが狭くなるし、他の遊びをしている連中に邪魔されるし、何だかちょっかいかけてくるような奴がいるし、地獄でしかなかった。早く帰りたかったし、一ミリも楽しくなかった。何でこんなことをしないといけないのか、最後まで謎のまま卒園した。

 

友達って何?って感じだった。

親が友達と遊んでいるところなんてほとんど見なかったし、本当に友達なのかなという距離感だった。

お互いにマウントを取り合ったりして、結局一人が寂しいから補完的に目的もなく群れているだけなんじゃね?っていうイメージだった。繋がりなどないもない。信頼関係も何もない。そんなのは私は欲しくなかった。

友達という概念そのものが歪んでいたと思う。

 

何だか、もうとにかく生きるのが面倒だった。

他の人間と絡まなくてはならないし、思ったことをいうと嫌われて不利益を被るし、こいつらより上じゃないと親が曇った表情をするし。

いっそのことこいつらが全員いなければいいのに‥と何度思ったことか。

それなのに、殺したりもせずなんとか上手く頑張ってきたと思わんか?マジでこんな無理して依存症になったり鬱になったり強迫性障害になったりしながら、人間をなんとか続けてきたことに心から敬意を表したいと思う、自分に。

 

もう我慢しないで自分を生きる

もうね、嫌われるときは嫌われるんよ。好かれる時は好かれるし。嫌われないために生きてるわけじゃないからね、こちとら。知らんし。

あーもう知らん。笑 って感じよ。

他人なんてものすごく色々な考え方で生きているしびっくりするくらい違うんよ。そして特に考え無しに生きている人間が結構多い。ふわふわとした「空気」とやらで平気で人間を攻撃したり信じたりする。

そんなボウフラみたいなのに嫌われたって、どーってことないと思わん?

もうね、いちいち気にしとってもしゃーないんよ。

私もつい最近まではねー、結構信じとった。

世の中にはすんげーイエスキリストやマザーテレサみたいな人徳者がゴロゴロおって、俺は矮小で浅学菲才な凡人なんだと。

でもそうそうおらんよ、そんなんは。結構みんな地味にすごい。そして地味にしょぼい。だいたい同じくらい。どんぐりの背比べ。

尊敬してるから見解を知りたくて色々質問したら迷惑そうに「なんでも答えがあるって思わないようにしましょうね」とかあしらわれてさ、「ああ、そんな風にしか異業種の新人の話を聞けないレベルの器の小ささなんだな‥」とガッカリしたり。

我こそは依存症者を導くぜ!みたいにオラついてる人も実際は共依存真っ只中だったり、依存症からの回復というフィールドでパワーゲーム繰り広げていたり。

効率的に世の中を良くするために手と手を取り合おう、っていうこと自体そんなにフラットにできる人いない。

みんな自分の功績にしたいという名誉欲があったり、自分がしてきた苦労をしないで楽してシステム化するようなのを妨害しようとしたり。その辺の有象無象と同じ穴の狢。

自分たちが持っている視点が正しいと思っている。

それってほんと私の親と同じ。そりゃ今までの自分に自負があるだろうし、自分の方がわかってる、やったことあるって思い込みやすいんだけど、その先入観を超えられないから、人の話のありがたみがわからないんだよね。

そして、そういうふうに見くびるから見くびられる。

因果応報。残念でした。

 

だからさー、特別に私の親がクソだったわけでもなく、だいたい人間てそんなもんだったんだなーということなんだよね。

特別親だけを恨む必要も要因もなかった。

最近は結構親のことは、憎くもないし気にもならなくなってきたのは、結構おどろき。

巨人に見えた両親は、よくいる小さい一個の人間だった。

小さい頃の私は欠陥品ではなく、尊重され大事にされるべき一個の人間だった。

ただそれだけのことに気づくのに、35年かかったのは、早いのか遅いのか。笑

でも、私の人生に最も良いタイミングだったのだろう。

 

インナーチャイルドワークを通じて実感したのは、親を特別視して恨まなくてもいいんだな、他人を必要以上に怖がらなくてもいいんだな、ということ。

そして、そのままの自分って割と悪くなかったんだな、というかめっちゃ偉いしすげーやつじゃん!という根本的な事実。

みんなも、一人一人がそうだと思う。

そして何より自分のために生きてほしいと思う。

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ3

3、今までの生き方を支えてきた意志の力への信仰をやめ、他人の評価を恐れることなく、あるがままの自分の心と体を受け容れようと決心した。

あるがままの自分でいたら、どんどん自分を甘やかして、どんどんナマケモノになって、誰にも相手にされなくなるのではないか、という恐怖が襲ってくるかもしれません。しかし、だまされたと思って、とりあえず「今のままの自分でいい」とすべてを認めてみてください。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P210より引用

 

 

前回の振り返りと今回のステップの位置づけ

前回のステップで、私は2つのことを認めた。

①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。

②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。

意志の力を信じてひたすら自分に鞭打って生きてきた生き方は、それはもう見事に破綻して、実際にアルコール依存症という形で表面化した。不健康そのものだ。

なまじ中途半端に他人よりできたことが災いして、間違った「意志の力への信仰」を強化するという皮肉。他人の評価はコントロールできる、今評価が低いのはコントロールが甘いからだ、という驕り。それが自分にも他人にも厳しい態度を生んだ。世界をどんどん他ならぬ私が狭くしていった。

だから、このやり方はもうやめなくてはならない。やめざるを得ない。

というか、やめる以外の選択肢はない。そうだろう?だって失敗したんだから。

「それをもういい加減認めようぜ」というのがステップ3だ。

 

時はきた

「でもだってほかにどうすりゃいいんだよ?!」って不安になると思う。

なんというか、今まで必死に拝んできたお地蔵さんが砂でできていてバッサリ崩れ去った感じだ。私はこれから何を道しるべに生きていけばいいんだろう?的な。

今までの人生に対する後悔も半端ではない。

何という無駄。なんという徒労。意味のない、間違ったことを一生懸命してきたなんて…。その事実をとてもじゃないけど受け止められない。後悔が重すぎる。

そう思ってもしかたないし、むしろ当然だと思う。

だって、もう本当に、私たちは健気に一生懸命にやってきたんだから。

認められよう、褒められよう、ここにいていいって言ってもらいたい。

そんな悲痛な叫びをぐっとこらえながらただひたすらに努力してきた。その切実さ、内に秘めた怒りはとてもよくわかる。私も同じだったから。

でももう、それは失敗に終わってしまった。いよいよ「失敗だった」「間違いだった」という事実を受け容れるときが来た。

 

実は、薄々わかっていただろう?

こんな事いつまで続けるのだろう。報われない努力をいつまで。

本当に私はそんなにダメなのか?結果が伴わなくちゃ生きていることすら許されないのか?

愛するってそんなギブアンドテイクか?そんなに渇いたやり取りなのか?それで私は本当に癒されるのか?

そんな思いが心のどこかにあったのではないか。

 

努力不足なんかじゃない

なぜそんなに自分をダメだと思うのかといえば、親に愛されていない事実を誤魔化すために自分に矛先を向けているからだ。

「親はもちろん自分をありのまま愛している」ということを肯定するには、親の望む「いい子」になって認められ褒められる必要があった、というのがすでに矛盾していて歪んでいる。

本当は、親がどんな私でも他との比較を抜きにして、ちゃんと見てちゃんと話を聞いてちゃんと正直に話をしてくれれば、何の問題もなかった。

そういう心の交流をしてもらえないということは、つまり愛されていないわけだが、幼い私はそれを認めてしまったら壊れるので、他に理由を探したのだ。つまり自分の能力に責任転嫁したのだ。なぜなら親を愛しているから。健気すぎて泣けてくる。

「私は親を愛している。だから親が私を愛していないはずがない。親が私を愛していないように見えるのは、私が至らないから。両親が私を愛していないわけがない、だとしたら私に原因があるに決まっている」

 

そんな哀しいことってある?と思う。

親には正直人を愛する余裕がなかったと思う。自分を愛していなかったから。

自分を愛していない親は、自分の寂しさや憎しみ、つまり抱えているパーソナルな問題を見ない振りをするために、子供に関わる(過干渉だったりネグレクトだったりする)。

そのとき親は自分しか見えていない。もちろん子供そのものは全然見えていない。

そういう両親のもとで、子供はとてつもない孤独を感じる。見てもらえない、愛されていない事実が肌身に染みる。

だから親が求める模範的な「いい子」になろうとする。あるいは、問題を起こしてそれでも見捨てないかどうか試す。

しかし、今思えば、無理な要求だったのだ。

彼らはまだ人間として未熟なのに子を授かってしまった。そもそも彼らができないことを、私たちアダルトチルドレンは期待していたと言える。

期待することはもちろん悪くない、というか当然のことで、親はそれに全力で応えるのが役割なので、全ては親が親として必要最低限の能力を欠いていたせいだ。

 

悪くない

そう。ここまで読んでもらえたらわかると思う。

私たちが必要以上に承認欲求に振り回される、諸悪の根源は、親の能力不足だ。

あなたが悪いんじゃない。

そう、あなたが悪いんじゃないんだ。

だから、あなたは「今のままの自分」でいいんだ。

他人との対比は関係ない。する必要がない。

比べたとして、そもそも他人は私たちが思うより、大したことない。恐るるに足らない。

他人のほうが自分よりめっちゃすごいと思ってきた。特に先生と呼ばれる偉い人やお金持ちや社会的ステータスがある人は、人間として上質なのだ、と。

それは、思い込みだ。

どんぐりの背比べ。似たり寄ったりだ。人間ひとりの力なんて大差ない。

自信満々そうに見える人も、実は内心怯えていることを悟られないように虚勢を張っているだけだったりする。他人にやたらとマウントを取ろうとする人も私たちと同族である。病んでいる。

本当に自信がある人は、親が成績や実績なんかじゃなくちゃんとありのままの姿を認めてきてくれるまともな親で、健全な家庭育ちだからだったりする。

つまり、親ガチャでちょっとその人たちのほうがラッキーだっただけだ。私たちは親ガチャが残念だっただけ。彼らとの人間的な質の差は特にない。

 

人が創りあげるものは何でも、完璧ではない。だいたい何か足りないところがある。

自分一人の貧弱な能力では足りない何かを埋め合わせるために、どこか足りない者同士の私たちは、身を寄せ合い力を合わせて何とかかんとか今を生きている。世の中ってのはだいたいそんなもんだ。

しかし段々と社会が高度化しシステム化して、人が人でなくても良い社会になってきた。言い換えると、私たちはいくらでも替えがきくような冷たいシステムの歯車として生きているから、どんどんさみしくなっている。

人が創った不完全な社会だから当たり前なんだけど、物質的な豊かさと引き換えに、自ら不安で不幸になるような仕組みに乗っかって、今まさに情緒不安定になっている。

コーヒー飲んだら仕事がはかどるからっていってガボガボ毎日飲んで、カフェイン依存の症状として不眠やイライラに苦しんでいる、みたいなもんだ。

 

「勘違い」から一歩抜け出そう

今、いわゆる「勝ち組」として社会で華やかに活躍しているふうな人を羨む必要はない。

彼らはまだ騙されている。私たちが騙されてきたのと同じトリックに騙されているけれど、気づいていない。

そもそも社会に認められることって実は価値が無い。だって社会がクソだから。

自殺者をこんだけ増加させて、金儲けと出世のために仲間が苦しんでても「知らねーよ」って顔ですっとぼける人間が、国を動かす立場に立てるんだぜ?

それが今の社会のヒエラルキーの正体。

最も権力のある立場に立つ条件は、徹底的にクズになるということだ。

私利私欲を追求して他人が死ぬのを何とも思わないような、KING OF クズになること、それがこの今の社会で最も認められるということ。

嫌でしょ?

私は嫌だね。お金もらえても願い下げ。だってそれはもはや、人間じゃないもの。

だから、勝ち組って言われている人たちは、クズの優等生ってこと。自分たちのクズっぷりが認められて「私はとても幸せで他人よりすごいんだわ!」って言ってる感じ。やばいよね、それってもう悪趣味すぎじゃない?

まあでも「蓼食う虫も好き好き」ということわざがある通り、人間やめちゃってもいいからお金や権力がほしい、と人もいる。そういうのは、悪魔か獣か人外の類だと思って、放っておこう。

まさに冒頭から申し上げている、意志の力への信仰の狂信者もいる。私たちと同じだけど、コントロールに取りつかれていることにまだ気づかないまま狂信者。ガチャ的なラッキーも積み重なってしまったがゆえに、狂った宗教から抜け出せなくなっちゃった人たち。かわいそうに。同情せざるを得ない。

社会的に認められる、競争社会で勝つ、というのは「価値観の一つ」であって、場合によっては「大いなる勘違い」でもある。

価値観が一つではないように、社会で認められるというのは「認められているなら優れている」と錯覚しているだけであって、実際は何の指標にもならない。

なぜなら、人は不完全で、不完全な人間がつくった物差しなど正しいわけがないから。

 

では何を道しるべに生きるのか?

「良心」だ。

自分は、こんな善い自分でありたい。

この人を尊敬しているから、こんなことをしてあげたい。

そういう自分の心の奥深くから湧き上がる尊い気持ちに従って行動すれば、それだけでいい。

それが最も私が私らしく生きる法則であり、この世の誰にも否定する権利が無い人生になる。

そもそも正しい人生なんてない。間違っている人生もない。それを他人が決めるなんておこがましい。

法律も、ただ人間が勝手に決めただけだ。ルールを設けてみんなが生きやすくしようね、という取り決めで、絶対的に正しいわけじゃない。

自分の心に問いかけよう。

それこそが真実だ。それしか真実はない。誰も教えてくれない。

人生の答えは、あなたのなかにしか、存在しない。

 

 

【依存症】私がブログを書く理由は

私は今日、なぜこのブログを続けているのかな、とふと思ったので書いてみる。

 

変化の記録

特に誰に依頼されたわけでもない。特別読者が多いわけでもない。私などあまたいる浅学菲才な凡人だ。

そんな人間が書くものが、読者にとってどれほどの価値があるかわからない。そんなにたいしたことを書いてないなと思う。文章も無茶苦茶だしね。

でも、私が「依存症者」として至らない思考の数々を記録に残し、その恥を全世界に晒す意味は、私にとってけっこうあるんじゃないかと思う。

私の考えは常に変化している。

だから、ブログを始めた当初の記事は、書いていることがなんとなしにイキっていて過激でしつこくて、なんか相当イタイ内容だったりする。やめて、ブラウザバックして確認しないで。

だけど、それも確実に私だし、そういう一貫性のなさみたいなものが私そのものだなぁと思う。

正しいことばっかり書いてあっても、つまんないじゃない?

みんな日々変わる。それが当たり前なんだから、一貫性がなくったっていいじゃない。

そんなふうにもともと超頭固い人間だった私が、悩みながら自己受容ができるようになっていく過程。それが生々しく開示されているのがこのブログ。

すなわち、毎日毎日せっせと恥の上塗りをしているのだ。とんでもないドMだ。

でも案外、私と同じような悩みを持つ人に最高に寄り添えるんじゃないかなぁ。恥を晒しっぱなしにしているのはそういうわけ。

え?恥ずかしすぎて読み返せないからそのままにしてるんじゃないよ、ほんとだよ。ほんとほんと。

 

灰色を振り返る

私は物心ついたときから、とにかくめっちゃ生きているのがつまんなかった。

マジかよ、これあと何十年もあんの?地獄じゃん、と思っていた。

他の子達はとても楽しそうだけど、私が混じると微妙な空気が生まれてみんな楽しそうじゃなくなる。とても不思議だった。

私は一人の方がとても楽だったから、幼稚園にはじまり酒を飲めない時代の教育機関において楽しいと思った記憶はあまりない。大学は酒が飲めたから楽しかった。そのあと地獄が待ってたけど。

学校に行くとみんな楽しそうにしていて、毎日飽きもせず他人と遊んでいた。本当に不思議だった。

「なぜこんなに挨拶だけで疲れるのに遊べる体力があるのか?私に体力がないのか?いや、水泳では一番泳げるし、走るのも速い。どうやら身体能力の違いではない。」

「なぜこんなクソつまらない授業を聞いて御山の大将を決めるような小規模でダサいお遊びの部活をやって『毎日楽しくてたまんないぜ』みたいなフリができるのだろう?演技力半端なくない?なぜこんなにつまらないのに生きていけるんだろう?楽しいフリじゃないとしたら、一体全体何が面白いのだろう?彼らが感じている面白みは、何のどこにあるのだろう?」

そんなことを思いながら灰色の気分で周りを観察する日々だったなぁと思う。小中高とそんな感じだった。

 

スポーツや勉強で他人に勝てることは最初は楽しかったけど、上には上がいるわけで、いつも勝てるわけじゃない。

勝ち負けにとらわれても結局苦しいだけなんだなと思ってから、競うことにあまり興味がなくなった。

相手に馬鹿にされない程度に強くて勝てていれば、生存戦略としては必要十分。それ以上の意味はないなと思った。

親が喜ぶし、周りも「すごい」と言って賞賛するから、これが「良きこと」なのだと信じたいと思った。

社会に認められることこそが正しいこと。

そういう既製品の価値観をじわりじわりと深層心理に塗り込んでいった。

心の中で疑わないわけではなかった。

「本当にこれがやりたいことなのか?」「本当にこれが意味のあることなのか?」「皆が良いと言うから良いと信じるのは危険なんじゃないか?」

そう思ったけど、その方が楽だったし、親から見てもらえる効果的な方法を手放せなかった。安心できた。その偽りの安心を維持できるならと目を瞑った。

私は私の気持ちをみるのをやめて、周りの物差しを信じようと努力してしまった。

 

成長すればするほど違和感はどんどん膨らんでいく。

社会的にもてはやされる事柄に興味が持てないのだ。結構焦った。

女性と何人関係を持てたかを自慢したりする同性たち。価値観が合わない。自分の娘が「一発やれたらいい」みたいな腐った男に好きにされたら、親として一体どう思うのか?そんなことも想像できないのだろうか?大切な家に侵入してくるゴキブリのような存在になっているとは思わないのだろうか?

他人を間接的に殺してでも金をたくさん稼いでいる人間が上等だと言う先輩の社会人。冗談だろう?なんで人の命より金が重いんだ。カイジの利根川かよ。世の中を良くするための仕事じゃないのか?武力以外で効率的にたくさん人殺しするために(高級取りになるために)私は我慢に我慢を重ねて大学までクソつまらない勉強をしてきたと言うのか?ひょっとして今までの高等教育というやつは、みなインテリヤ◯ザになるための英才教育だったのか?

一生懸命合わせようとしてきたけど、瓦解した。

もうだめだ、私は社会不適合者なんだ、と思った。

結婚も仕事も何も魅力的じゃない。だけど、どうせ今までと同じようにやらなきゃいけない。だってそれが正しいことだから。そうでない人間は生きていてはいけないような言われ方をする。恥さらしだとゴミのように扱われる。

それは嫌だけど、この世界もいい加減うんざりしてきた。

どうしよう?

このクソつまらない世界に付き合うのと、もういっその事終わりにするのと、どっちが楽なんだろう。

 

そんなとき酒に出会った。

簡単に私を現実ではないところに連れて行ってくれる酒。

このゴミ溜めのような世界を輝かせてくれる酒。

酒によって私は解決の鍵を手にしたと思った。

酒に酔っていれば、この灰色の世界も色を取り戻す。

なるほどな、世の中の人は、この桃源郷にありつくために楽しくないのに楽しいフリをし、土の中で夏を待つ蝉のように、成人になるのを待っていたのか!

なるほど納得だ。これで私は安心だ。よっしゃ時代が来た。酒さえあればこの地獄をなんとかあと数十年しのぐことができる。

そう思っていた当時の阿呆すぎる自分を殴りたい。

 

尾崎放哉と父の思い出

そのあとは他の記事で語っている通りの凋落ぶりで、尾崎放哉のような急転直下の崖のふちでなんとか踏みとどまった。

そして今もまだかろうじて生きている。

あのまま酒で全てを失って孤独死していたら、放哉とはあの世でめっちゃ仲良しになったことだろう。同郷だし話も弾む気がする。鳥取をボロクソに言って盛り上がれそう。

「咳をしても一人」「肉がやせてくる太い骨である」「こんなよい月を一人で見て寝る」

私が思春期の頃、父が尾崎放哉で個展をやった。

父の筆で書かれたこれらの句をみたときのなんとも言えない郷愁。このときの記憶はいつまでも色あせない。

汗がにじむ夏の日に、蝉の声がうるさい。父の書斎に行ってみる。父は休憩中で不在。床には展覧会に出す前、苦しみ抜いている父のたくさんの練習書きが散乱している。

命の最後のひと絞りを渾身の力で絞り出す。放哉の魂の叫びが聞こえる。定型に縛られず、決まりにとらわれず、自由律俳句を叫ぶ放哉が見える。こんなに弱々しい言葉なのに、圧倒されるようなエネルギーがある。

慣れ親しんだ何もなさ。何もないことへの静かな怒り。その郷愁に震えた。

全てを失って孤独になり今際の際になった瞬間でこそ、このような言葉が生まれるのなら、その瞬間のために何十年も生きるのかもしれない。とても美しい。

そういうようなことを、幼いながらに感じ取った。生きることの最後の希望として胸の奥深くに刻み込まれた。

 

輝くものを見つけたい。自分の中に見つけたい。

尾崎放哉に、それを書く父に感じたような輝きを私も生み出せる人でありたい。

私は、芸術家としての父を尊敬していたし、今でも大きい存在だと思っているんだな、と思う。

色も輝きもなかった私の幼年期〜青年期。

その何もなさがあったから、眼を凝らしてよく見るようになった。他人と違ったから、より深く意味を考えるようになった。簡単には納得しない厄介で可愛げのある人格が育った。

自分に正直に生きるようにして、灰色の時代は寂寥感ばかりではなくなった。「信じなくては」「正しいのだから合わせなくては」と思っていたルールや社会というものの脆弱性を知ったから。実は虚構だし正しいわけでもなかった。私の心が発した警告は間違ってなかった。

今灰色を生きている人へ。そういう世界が音を立てて崩れながら色を取り戻す。あなたにもそういう感動的な瞬間がきっとくる。私なんぞに来たんだから、きっとくる。

でもその事実は、今の私から語るものではなくて、未熟でもがいていて、イキっているけど怯えていて、もうどうしようもなくだめで恥ずかしい、当時の私しか語り得ない。

当時の私の青さが奥行きとなる。私が変化しても、別の段階にいる悩める人の仲間として「かつての私」「未来の私」つまり「あなた」と今の私を、繋いでくれる。

 

あの日にみた放哉は、かっこ悪くてみっともないからこそ、そのままだからこそ、美しかった。

だから私はこんな恥ずかしいブログを書いているのだと思う。

【依存症】仕事依存症(ワーカーホリック)はゲーム依存症

最近、社会学者の宮台真司さんの話が面白すぎて、ずっと聴いている。宮台さんの話に感化されてうすうす思っていたことが確信に変わる。それが実に快感。腹落ちすることばかり。分かりみの嵐というべきか。

そんな確信に変わった事柄をつらつらと書いてみる。

 

ヴェーバー予想の実現

まず、宮台真司さんが言う「ヴェーバー予想の実現」から紐解かなくてはならない。

ドイツの政治学者・社会学者・経済学者であるマックス・ヴェーバーによって、今の社会システムが限界を迎えることは喝破されていた。

複雑な社会システムを運営するためには計算可能性が必要。

なぜなら計算可能性が無くては投資可能性が無いから、資本主義が回らないから。

そして計算可能性を担保するためには行政官僚制が必要。

行政官僚制とは、ヒエラルキー構造を持った組織運営で、属人的にならないようにシステムにとって取り換え可能な存在として人間を部品化することに他ならない。

行政官僚制でしか回らない社会は、他の組織の形態と比して、業務の正確性と継続性や、曖昧性と恣意性を排除するなどの側面が認められうる。

しかし他方、行政官僚制は形式合理性の論理にしたがって組織を閉鎖化し、単一支配的な傾向を生み出す。

つまり合理性を求めれば求めるほど人間性はノイズになるので、人としての性格がどんどん削られていき合理性と組織の奴隷になるしかなくなる。

この経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性を、ウェーバーは「鉄の檻」と比喩した。

行政官僚制のなかでは人事(権力)と予算(金)が人を支配するので、上の意向を尊重し周りをキョロ見し自分のポジション取りしか考えない損得勘定だけで動く「損得マシーン」が自然と増える。

同時に、行政官僚制は文書による事務処理を原則としているので、人々は自分で考えるのをやめ既存のもっともらしい言葉・概念の持つシステムや体系にそのまま乗っかるようになる。

プログラムのように言葉によって自動的に動くだけで、自分の感情にも他人の感情にも鈍くなり「感情が劣化」する。

なので、人々の「言葉の自動機械」化が進む。わかりやすく言えば、主語がでかい人。

中国に行ったこともないのに「中国は〜だ」と語ったり、性というカテゴリで安易に分けて反応するミソジニーやミサンドリーのこと。

しかし、この行政官僚制に基づく社会システムに乗らなければお金が稼げないし生きていけないので、結局人々はシステムの支配から抜けられない。法に閉じ込められた人々を指して「法の奴隷」と呼ぶ。

この「損得マシーン」「言葉の自動機械」「法の奴隷」が3つそろうと「人はどんどんクズになる」と宮台氏は言う。ヴェーバーは「没人格」と表現していて、つまり結局人はシステムに頼れば頼るほど、人間をやめていくということだ。

「鉄の檻」つまり宮台氏のいう「クソ社会」では、どんどんクズが生まれていき、結局頼みの綱だった民主主義や民主制は育たなくなる。「鉄の檻」の破綻は、その存在そのものが持つ性質上、成立した瞬間から運命づけられているということ。

ここまでのことを予見したウェーバーは絶望して神経症になってしまうわけだが、「ウェーバー予想の実現」は、自称「先進国」日本において、先進国らしく世界に先駆けていよいよ完了しそうだ、ということ(社会システム崩壊のトップバッター)。

今の社会の阿鼻叫喚の正体は、システムそのものに最初からプログラムされていた。当然の帰結だったのだということ。

行政官僚制は何も政治経済だけではなく、ありとあらゆるところに蔓延っている。だってそれが資本主義経済社会の在り方そのものだから。

つまり経済活動である「仕事」などは、例外なく「鉄の檻」の内側の出来事でしかない。

すなわち働く人々は組織的であればあるほどクズ化(法の奴隷×言葉の自動機械×損得マシーン)していくのが、むしろ当たり前なのだ。

だから、私が日ごろ同僚や上司の良心の欠如を嘆き「なんでなんだろう?」と頭を抱えていたのは、とても滑稽な話だったのだ。だって当たり前のことなんだから。

「もしかしてこの世の中のほうが間違っているのではないか?」とうすうす感じてきた感覚は、まさにビンゴだった。

この日本社会(日本に限らず資本主義社会全部だけど)がクソ社会なんだから、正常な思考能力を持っている人ほど生きづらくて絶望するのは、当たり前だったということ。

だから依存症になるほど悩むというのは、むしろ上等な人間だという証明でもある!

私は依存症者であることを誇りに思うと同時に、自分の人間性を確認出来てとても安心した。

 

クズにより世界規模で繰り広げられるMMORPG=仕事

結局大企業にいるいわゆるエリートサラリーマンや行政・政府に所属するエリート官僚や政治家が何をしているかというと「ゲーム」だ。

泥船であるこの社会のなかで、限られた椅子を奪い合う椅子取りゲームをしている。

分かりやすく言うと「出世しようゲーム」「成果出そうゲーム」「勝ち組になろうゲーム」だ。これは男性だけではなく近年女性も参戦している。性差はない。

(言語ゲーム理論について話した記事でも似たようなこと書いたなあ。)

地位・名声・名誉・権力。これらをいかに集められるかというミッションを掲げ、貨幣価値を共通言語として「MMORPGMassively Multiplayer Online Role-Playing Game、マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)」つまり「大規模多人数同時参加型オンラインRPG」をやっている。

このゲームにおいて、プレーヤーの人道的・良心的な価値観は、どんどん剥ぎ取られていく。当然だ。だってクズ化がレベルアップだから。

法の奴隷で、自分で何も考えなくて、損得勘定だけで動くもはや人の形をした「人間をやめたもの」にならなきゃ、このゲームでは勝ち残れないから。

学歴や資格などはたとえば「課金アイテム」と位置付けられる。

不平等の極みだが、経済的に恵まれていなければテストを受けるチャンスすらもらえない。ガチャをまわす金がないのと同じ。もともと初期値で割り振られた所持金が低いからアイテムが手に入れられないプレーヤーが一定数いる感じ。

一定数のゲームランク上位にいるクズたちが強くてニューゲームして、「課金アイテム」を独占し、よりボロ勝ちするために自分たちに有利なようにガチャ自体の設定を好き勝手いじっている。

上位ゲーマーたちは下位のゲーマーは負けてんだからログアウトすればいい(死ねばいい)と本気で思っている。「下手で弱いヤツはやめちゃえよ」と課金アイテム使いまくってふんぞり返ってるイメージ。

だからこの社会では、お金がある人がよりお金持ちになるための法制度を行政府をコントロールして成立させるのが当たり前。

そうやって現に日本は、グローバリズムによってどんどん国の財産であるヒト・モノ・カネを、なますに切り刻まれている。そして、これから激安で海外にたたき売りする予定だ。

日系大企業で働いていて思う。

社員は本当に、社会や消費者のことなど考えていない。クズこそ出世するクソシステムだとしみじみ実感する日々である。

御上のご機嫌を損ねず、周りに合わせておいて要所で騙して出し抜く。限られた椅子をいかに自分のモノにするかしか考えていないプレーヤーばかり。

 

エリートサラリーマンの面白いところは、総じてこのクソみたいなゲームに依存していることだ。

仕事そのものは決して悪いものではないのと同じように、ゲーム依存症の当事者からも「ゲームそのものは悪くない」という話をよく聞く。共通している。

ゲームにも良さはある。

ITスキルの向上であったり、ゲーム好き同士の利害を超えた繋がり(仲間・居場所)であったり。資本主義に寄らない社会的価値を生み出すプラットホームとしての価値を持っている。

同様に仕事も社会とそこに住む人々を豊かにするためにするのであれば、これほど自己実現できるものはない。

仕事を通じて心を通わせる瞬間はあるし、仕事という共通言語のなかで育まれる共同体はときとして損得勘定を上回る。

 

ゲーム依存症と仕事依存症

つまり、ゲーム(仕事)それ自体は悪くない。

ゲームに依存して人としての道を踏み外すことが問題だということ。

ゲーム依存症では、ゲーム以外に楽しみを見出せなくなったり、実生活をおろそかにしてしまうなど、仮想空間に入れ込むあまり不健全になっていくことで自分だけでなく他人にも悪影響を及ぼすことが問題だとされる。

仕事に依存するワーカーホリックも全く同じ。

仕事依存症だと仕事以外に達成感を味わえるものがない。その結果、夫婦生活や親子の関係を犠牲にしてまで椅子取りゲームに夢中になる。それにより機能不全家族という不健全性を自分にも他人にももたらす。これがどれだけ有害かに無自覚で、このクソ社会にとっては問題にならないことが問題の本質なのだが、ほとんどの人がわからないまま病んでいく。

そしてゲーム依存症や摂食障害と同じように、うまく付き合いながら生きていくしかないのが、残念ながら今の時代だ。

資本主義経済社会で生きていく以上、お金は血液みたいなものなので、仕事をせずに生きていくことなどなかなかできない。

この世で生きる限り経済活動を余儀なくされる。

食べ物を食べなくては生きていけないように。ゲームによる繋がりが必ずしも悪ではないのと同じように。

要は、依存症に陥らないためには『「鉄の檻」の外側をもつこと』『損得に寄らないで関わり助けあえる「仲間」をもつこと』が重要だ。

宮台氏がいう社会という荒野を仲間と生きろというスローガンは、まさにこのことだと理解している。

ゲーム依存症でいえば、自助グループ。

仕事依存症でいえば、仕事以外に意味を見出せる繋がり。

家族でもなんでもいいから資本主義経済社会とは一線を画した共同体を持つことで、人はなんとか「鉄の檻」の外側に自ら己の居場所を創り出す。それでいて初めてクズでなくなることができる。クズ社会から一歩抜け出すことができる。

 

つまり世に言う「勝ち組」というのは、ただのジャンキーなんだということを覚えておきたい。一昔前に言われたネトゲ廃人というのに似ている。

仕事というゲームにどっぷりハマって、何が良きことで何を感じているかを考えることを放棄した人たち。

「俺のほうがすごい」

「俺のほうが偉い」

「私のほうが優秀だ」

と周りをキョロキョロ伺いながらゲームで勝つために何もかも犠牲にして人間をやめたクズ。

それが、今の社会で認められている人だ。

だから、むしろ社会から認められないほうがいい。

そのほうが誇らしいことなのだ。社会からボッコボコに叩かれるほうが「ああ、俺ってやっぱ間違ってないわ」と安心するというもの。

社会から否定されることこそ「まともな人間である」という証明だと思う。

だって社会は、いずれ滅びるクソ社会だから。そんなもんに認められちゃったら「おめでとうございます!あなたもいずれ滅びる方向に向かってる一味だよ」とクズに笑いかけられている状況なわけ。

むしろ背筋が凍る話だと思わないか。

 

まとめ:仕事がゲーム化しているからゲーム依存症と親和性を持つのは当たり前

仕事がゲーム化している以上、仕事依存症はゲーム依存症である。

そして、今日本社会ではありとあらゆる人が没人格化、つまりクズ化しつつあるので、クソ社会の沈みゆく泥船のシステムのなかで生き残りをかけてバトルロイヤルをやっている。

例えるならば、サービス終わりかけのリアル『フォートナイト』なのかな。

MMOPRG要素を追加した「フォートナイト改」のなかで、一生懸命課金して毎日毎日必死こいて他人と殺し合いしてるんだけど、もうサービス終了がすでに決まっていてそろそろなのに気づいていない感じ。

ゲーム以外に何も関係性を育ててこなかったゲーマーの末路は想像に難くないよね。

だからアホみたいに仕事依存症になってないで、経済的価値観では測れない、己の人間性に共鳴する経験や繋がりに投資すべきなんだよ。

「金になるか、ならないか」で考えると心がどんどん貧しくなっていくのはつまりそういうこと。

経済的価値はゲームのなかの通貨の話で、ドラクエの「ゴールド」はいくら集めても現実世界では何の恵みも与えてくれないでしょ?

アルコール依存症の私がお酒をやめてから言うから間違いないけど、リアルにもたくさん依存していたこと以外に面白いことはあるし、それはお金なんていうクズの価値の物差しでは測れない価値なわけ。

いろいろ話が飛んだけど、依存症ってこのクソ社会が生んだ社会的な病で、むしろ踏み絵的位置づけだと最近思うんだよね。

こんな人が人でなくなるようなシステムに順応できる狂人が健常者で、システムが嫌すぎて他に何かドラッグ使わなきゃとてもじゃないけどやってらんねーよ…っていう人間をまだやめてない連中が依存症者なのよね。

たとえば「覚せい剤やめますか?人間やめますか?」なんて腸ねん転起こすくらい笑える高度なギャグ。「おまえらみたいなガチガチの行政官僚制のなかで椅子取りゲームやってる、生粋のジャンキー(マトリの方々)にそんなこと言われたくねーよw」って話なわけ。

だから依存症の人たちは胸を張ってほしい。あなた方こそ人間の希望だし、まだ人間だという証拠だと思う。

恥でもなんでもない。むしろ名誉だよこれ。だって社会がクソだしクズが評価される世の中なんだもん。そりゃ依存したくもなるって。

そんなことを思うわけです。