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【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ2

1、私は、◯◯することへの執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。

あなたの力には限界があり、到底何もかも思い通りにはできません。がんばってもがんばっても、他人はおろか、自分さえも思い通りにはできないのです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P209より引用

 

 

 

2つの問題

「私は、人に認められること=承認欲求への執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。」

 

問題は2つ。

①他人の評価を気にし過ぎたこと。

②自分の意志の力を信じすぎたこと。

 

①について考えてみよう。

なぜ気にし過ぎたのか?

そのままではダメだと思った。

どうダメなのか?

受け容れてもらえない、生きていけないからダメだと思った。

それはなぜか?

元もとの自分は取るに足らない存在だから。

ほんとうに?

「評価されなければ愛されない」「評価されなくてはココにいてはいけない」という強迫観念から、努力を重ねてきたという事実。

私そのものの価値を認めてくれる親。親に愛されていると信じたいと思った。

愛されているのは、よくできるときの自分だった。

私は愛されているはずなのだから、つじつまを合わせるために、私は親から見てよくできる人間でなくてはいけない。そう思い込んだ。

今、期待通りにできないのは、私の頑張りが足りないからだ。

だって私は愛されるはずだから、よくできるはずだから。

そうやって努力してきた。

 

意志の力

その行動は、私を②の「自分の意志の力の信仰」に導いた。

自分の意志の力で何とか出来る、と信じてきた。

それがそもそもの間違いだったと認めるときが来た。

私の意志の力は万能ではなかった。

他人より優れるということは、意志の力でコントロールできるようなものではなかった。

何とかできると思うから、極端に自責したり、極端に己を恥じたりする。

どうにもならないことを何とか出来るはずと思っているから、いつまでも自分の努力が足りないことになる。

雪だるま式に大きくなる強迫観念。

他人が認められているとき、発狂しそうなほどの黒い嫉妬と醜い憎しみに駆られる。

自分を痛めつけるような努力に身を投じる。そして疲弊する。

そして私は酒を頼ったのだと思う。

 

意志の力は、わりと強いほうだと思う。

結構粘り強いし、簡単には諦めない。悪く言えば一生根に持つほど執念深いタイプ。

だから今まで何とかなってしまったのだろう。

そしてますます信仰を深めたのだ。

やればできるはず。だから今できないのは自分の怠慢だ、と。

 

しかしこの世にはすごいひとはいっぱいいるし、負けることなど日常茶飯事なのだ。

それをいちいちあれやこれや比較していたら、勝ち続けることなど不可能だ。

そんなに他人はしょぼくない。それぞれに良さがあるし、磨いてきた技術がある。経験してきたことも違う。

それなのに、意志の力さえあれば勝てると思うこと自体が、不自然だった。

それを認めるときが来た。

 

私は何がしたいのだろう。

自分そのものとして社会に認められたい、と思ってきた。

なぜなら私は、社会に馴染めなかったから。

幼少期。のびのびとそのままでいた時期に仲間外れにされて哀しかった。

受け容れてほしい。

そう思ってきた自分がいる。

それを、承認欲求というかたちで今まで満たそうとしてきたのではないかしら。

人に認められて、すごいね!ありがとう!と言われて、私はここにいていいと思いたい。確かめたい。

でもひとりでは特別なものは何も生み出せない。

ここにいてはいけないことになる。それは嫌だ。

だから、他人にこびへつらった。他人に望まれることをして、褒めてもらおうとした。

卑屈な笑顔の下にある私の本性はそれだ。

コントロール。

 

失敗に終わったことを認める

不安と強迫観念に気づかぬために、他人の評価をコントロールしようとした。

意志の力を信じてますます努力した。

 

でも、その生き方は幸せではなかった。

結果、今、破綻している。

一流企業に転職しようと、国家資格を取ろうと、依存症から回復しようと、いつも他人と比べてしまう。他人の目に怯えた自分がいる。

結局、己の手では何も創造することができない。個として価値を生み出せない自分を、嫌いになりそうになる。

この生き方は、どこまでいっても渇いている。

いつまでも満たされない。

つかの間の賞賛で喉を潤しても、もっと高くもっと多くと、依存していく。永遠に欲しがる。

そして、何もかもが認められるためだけの道具になり、人生がつまらなくなる。

今、まさに。だからつまらないのだ。何をしても。他人に褒められないと意味がないと思っているから。

 

人に認められても、つまらない人生を生きたいか?

私はその問いにNoと答える人間だと思う。

本来、楽しむために産まれてきたのに。なぜ他人に認められる、なんて不毛なコントロールできないことのために生きなくてはいけないのか。

そんな徒労をもう終わりにする時が、今ようやく来た。

そのために私は、今までのやり方が失敗だったと潔く認める必要がある、ということだ。

 

①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。

②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。

ということを。

 

私は何かを生み出せなくても、胸を張って生きていていい。

私はたとえ他人に認められていなくても、無価値ではない。

他人に評価されない考えだとしても、私が感じて考えたことや生み出したものには価値がある。

 

承認欲求に振り回されてきた人生。

その生き方をやめたい。

私が今までやってきた生き方が、より苦しみを生み出していたことを理解した。

 

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」③同僚

私は今でこそ必要最低限の仕事だけできたら後は明日にして帰ることができるのだが、昔は体力が尽きるまでやってしまうタイプだった。

以前勤めていた会社はブラックで、いくらでも仕事ができた。

私は寝袋を持ち込んで会社に泊まりこんでは、とにかく仕事か飲酒か睡眠か、というような不健全な生活をしていた。

そんななか、同じブラック企業に勤めていた同僚のなかに、毎日定時に帰る人がいた。

私はいつもその人を見ると何故かイライラした。

トラック運転手であるその人(Sさん)は、営業兼現場監督をしている私とは就業体系が違うので、定時で帰るのは当たり前と言えば当たり前だった。

それを差し引いても、「仕事より家族」と言い切って仕事も満足に終わっていないのに(と私からは見えた)早々に切り上げる背中がなぜか苦々しく見える日々だった。
とにかくSさんのことが面白くなかった。

私は夜となく昼となく働いているのに、評価されない。給料は同じか、私が低い状態だった。

もっとも、それは私がアルコール依存症真っ只中で、定期的に遅刻や体調不良を繰り返していて評価できない人材だったからだが。

結果に貪欲でないSさんに、仕事中心の私はイライラした。

「年上で先輩で俺より給料もらってんだからもっと働けよ、もっと苦しめよ」

「俺のほうがやっているのに俺がキレられて、何でのらりくらりとやっているようなあんなのが許されるんだ」

「俺はこんなに苦しんでいるのに、なんであんなに楽そうなやつが生きていけるんだ。不公平だ」

「ダッサ。何が家族だよ、仕事やらない理由にならねーよ。できない言い訳すんなよ」

そんなことばかり思って、奥歯をギリギリ言わせていた。

 

今なら思う。

これは、私が「苦しい」「つらい」と言えなかっただけ。

Sさんに対する思いとして、彼を鏡にして、「私自身の歪み」が、感情となって表出していただけのこと。

 

昨夜のお前が見てたのは俺じゃない

会わない数年の間にお前の頭の中にこしらえた「俺」

お前の頭ん中の「俺」 お前の頭ん中の物語

その物語こそがお前自身を映してる

今のお前を映しているよ

出典:『バガボンド』第25巻 樹上ニテ想フ より

 

 

 

人はそれぞれ違うのだから、生き方の違いはあっていい。

大切にするものの違いもあるだろうし、限られた人生だから時間の使い方も、違いはあって当然だろう。

最近、自分の判断で仕事に割く時間のウエイトを決めて人生をドライブし始めた。会社の指示だったとしても、筋が通らなければ論理的に反駁して是正を依頼する。

同僚や上司の反感を買うこともある。

「ちあきはオトナじゃない、物分かりが良くない」と下に見られることも多々ある。

それは、まるで前職にいたときの「かつての私」そのものである。

仕事をしたくないのに、しなければならない。

それが本当は嫌だったのに、嫌だと思うことすら自分に許せなかった。

だから私は望んで「人生において仕事に最も傾注することが正しい」という信仰を頼った。

「私は正しいことをしている」という束の間の安心感を得るために。

本当はやりたくないことを我慢してやっているから、やらない人を受け入れられない。

自分の力で変えたくなるし、従わせたくなる。

なぜなら、自分が本当はやりたくないことに気づいてしまうからだ。

気づいてしまったら、もうそれ以上がんばることができなくなってしまうからだ。

それはまずい、と感じているからだ。

なぜか?

頑張れなければ、認められなければ、生きていけないと思い込んでいるから。

その生存を脅かされるのではという恐怖が、不安と怒りになって、私自身に向かっているだけ。

全ては、その人の内なる神とのやりとりなのだ。結局は、自分の問題でしかない。

他の人が影響しているようで、実は自分の中に真実があり、それを否認するときに心は泡立ち、気持ちは揺れる。波が立つ。

ただそれだけのことだった。

 

自分がこれでいいのか。

不安になることも、他人と比べてしまうことも、しかたがない。

そして、それらは全て己の心という水面に映る問題に過ぎないのだから、結局は気にして精神をすり減らしても、しょうがないこと。

今、私を下にみて安心したい現同僚の彼ら。

彼らにも、いつか彼らの本心が見つかるといいな、と祈らずにはいられない。

この歌を泣きながら聴いていた日々の痛みが、今、私に爽やかな優しさをくれる。

 

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

私は、昔から人生を早く終わりにしたかった。

自分の楽しいことが、いまいち何かよくわからなかった。いつもイライラしていた。

かたや「人生を終わりたくない。楽しいからいきていたい。」そういう妻。

いったい妻と私では何が違うのだろうか?

 

楽しさの追求

妻は基本的に「どうせ生きてるんだから楽しもう」とするタイプだ。

彼女は、親が好きなように生きる姿を見て、好きなように楽しめる方に、他人がどうあろうと行動するしかないことを学んだのかもしれない。

 

彼女の父は、兄と姉と妻の学資保険を全て溶かして起業した挙句失敗し、母はその身勝手な行動に失望して失踪した。

電気のついていない、崩壊した暗い家に一人で帰る小学生時代だったという。

バイトをしなくては学費が払えない中学時代は、遊びたくても遊べなかったそうだ。

 

私は長く疑問だった。

親さえしっかりしていれば、背負う必要がなかった悲しみや苦労を、彼女はなぜ許せるのだろうか?

私は憎い人々を忘れられない。負けた相手をいつか打ち負かして「オレがお前より上だ」と叩きつけない限り夜も安らかに眠れないような人間だ。

なぜ、負けたり理不尽な仕打ちをされたときに、恨みや憎しみに支配されないのか?

 

思い至ったのは、彼女は真の意味で、己の無力さや弱さを知っていて、心から受け容れているからかもしれない、と思った。

 

確かに私が依存症になったときも、そうだった。

私自身、依存症になるなんて夢にも思ってなかった。

でも、これ以上ないくらい完璧に、アルコール依存症になった。

自分では予想もつかないことが起きるし、自分というのは、想像よりするより、あまりにも弱く脆い。私自身、病気を通じて己の無力さを思い知った。

 

妻は私が依存症であるという事実を聞いたとき「ちあきにあるのだから、誰にでもあるものなのかもしれない。」と思ったという。

「私もなっていたらやめられないかもしれない。」

「たとえば骨折しているのに松葉づえを取り上げられたらそれはつらいだろう。それと同じように酒に頼ってきたのに、酒を取り上げられたら苦しいだろう。私なら辞められないかもしれない。」

そう考えたという。

 

誰に、何が起きても、どう期待や予想を裏切っても、不思議じゃない。

 

今の自分には理解できないような果てしなく愚かな行いに見えても、自分ももしかしたら、万が一…いや億が一、同じ立場になったとして、そういう行動をしてしまうかもしれない。

全く同じ立場じゃない限りわからないから、自分もそうなるかもしれない。

 

だから、責めないのか。仕方ないのかもしれない、と思えるのか。

 

たとえば、仮に責めても結果は変わらない。

だから、確かに、理解できない失敗や行為を責めても、結論としては仕方がないのだ。

結局は、自分でしかない。

あらゆる事象は、「自分がより良く生きる材料」として活用するしかない。

つまり、感じてきた痛みは、学ぶ姿勢がある限り人生の「+要素」に昇華できる好ましい事象だと言える。つまり、苦しみも痛みも含めて、何もかもが無駄ではない。

 

人は誰しも欠陥だらけ

悪いところなど、見つけようと思えばいくらでも見つかる。

正直自分も他人も、悪いところなら挙げればキリがない。

いいところを見つけて学ぶほうが、よっぽど実りがある。

建設的だし、自分にとっても他人にとってもハッピーな方向性。

だから、間違い探しにエネルギーを使わない。

どうせ使うなら、受け容れて学び、楽しむ方にエネルギーを使う。

この「楽しむことに全力全開」というのが、私が妻を見ていて尊敬するところだ。

 

今のところ、何一ついいところが見当たらなければ、そっと距離を取ればいいだけのこと。

また時期が来たら見つかるかもしれない。

今はまだ私にはわからないだけかもしれない。

今は相手に余裕がなくて、本来ある良さがマスクされているのかもしれない。

自分のことが他人にはなかなか理解してもらえないように、私も他人を簡単に見切れるほど優れているわけでもないし、眼が効くわけではないのだから。

そういう、息の長い向き合い方をしていきたい。

簡単にカテゴライズしない。ジャッジしない。諦めて切り捨てない。

それは、自分が反対の立場ならそうしてほしいし、他人がそうあるほうが幸せだからだ。

 

『いいとこあるかもしれない』で終わらせておけるのは、他人は他人と割り切っているからである。

つまり、自他の境界線(バウンダリー)が完全に区切れていることに他ならない。

自分を脅かす脅威に思えて、早く理解したことにして自分のなかの落ち着けどころを決めてしまおうと不安に焦りたくない。

その人の必ずあるであろう良いところが、私にとって面白いか面白くないか、を感じとろうとする感性と関わる姿勢を大事にしたい。

不安や恐れがあるのは、今までパワーゲームでコントロールされたり条件付きの愛情を受けてきたりしたせいで、ランキングが存在価値に直結すると思っているから。

存在価値を脅かされることはとても怖い。

社会的な死、精神的な死を意味するから。

怖くて当たり前。怖いのはあなたのせいじゃない。あなたが弱いのではない。

怖さを隠さなくていい。それは弱さじゃなく、原因と結果の産物であり、昔必要だった愛すべきライフスキルである。

そして、今もう役目を終えて、手放していいスキルでもある。

新しく、相手を見るときには、マネできるいいところを探そうと思う。

人との出会いや関わりは、その面白みを見つけられる楽しいことだと位置づけていきたい。

そうすれば、私は人との関わりを、唯一安寧に近い一人の時間を邪魔する煩わしいイベントとして忌避しなくてよくなる。

世界がもっと生きやすくなる。

そうなってくれれば、もはや嗜癖に頼る必要がなくなる。

自分の世界の見方を変える。これが、依存症者にとって、ACにとってのパラダイムシフトなのだと思う。

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

・負けた悔しさを切り離せず悩みから抜けられない人

・勝負になると、すぐ勝ち負けに拘ってしまう人

いませんか?

私は、そういうタイプです。

 

12ステッププログラムを学び、平安の祈りを読むたびにいつも思います。

「変えられるものと変えられないものを理解している人」

それは、12ステップを極めし者であり、最も楽しい生き方なのではないか、と。

しかしこれがなかなか難しい。

他人との関わりに心を乱さない落ち着きと賢さは、どのように身につければよいのでしょうか?

私にとって永い間テーマで在り続けたこの問いに、ひとつの解を見出しました。

 

「妻の場合は、どうなんだろう?」と思って聞いてみた。

妻は勝負事が好きです。そして負けず嫌いです。

私にはこの感覚がわかりませんでした。

なんで勝たなきゃ楽しくないのに、負けることが嫌いなのに、勝負が好きなのだろう?

私は勝てる勝負しかしません。なぜなら負けるのが嫌いだから。

勝つから楽しいんであって、負けるなんて屈辱の極み、苦痛でしかない、と思ってきました。

 

妻は、負けるのは悔しいが、『負けるが勝ち(価値)』なんだという考え方だと言いました。

なぜなら、負けるということは、より優れている要素を取り込むチャンスだからだ、というのです。

今の自分が精一杯やったのに負けてしまうような実力のある相手なら、何か自分よりすぐれたポイントがあり、得るものがあるはず。

そのような存在がいることは、自分より優れた秘訣を学べるチャンス。

確かにそこにある改善点が顕在化する瞬間であり、負けることはありがたいことなのだ、と思えるそうです。

流川楓かよ( ^ω^)・・・

出典:『スラムダンク』第29巻より

 

前の自分より少しでも良くなれるというのは、希望そのものです。

「結局、自分だから」と口癖のように妻は言います。

自分より上がいる、それを見ることができる。

その時点で、吸収すればするほど、自分が「今より良くなる」ことは確実です。

他人は変えられないけど、自分なら変えられる。だから、勝負の本質は、実は勝ち負けじゃない。

自分が良くなれるなら、負けは「負け」じゃないということです。

『試合に負けて、勝負に勝つ』

死力を尽くしたうえで「負ける」ということは、さらに上を目指せるという証明でもある。

だから負けを認められるし、強くなれる。

相手との勝ち負けの刹那的な結果に目を曇らせないことが肝要です。それが重要なんじゃない。

自分を改良することに貪欲な在り方「諦めない」ということこそが、真の意味で負けないためには重要です。

勝者であり強者である、とは、こういうことなのではないでしょうか。

 

妻がこの考えに至った背景とは?

妻は末っ子です。上に兄・姉がいます。

基本的に、常に負けまくってきたと言います。

「どうぜ勝てないなら、負けを楽しむしかない。」

そう思った彼女が幼いころから編み出した考え方が、上記のような「負ける」ことへの可能性とワクワクを見出す思考方法に繋がっています。

他者との比較よりも、自己成長に主眼を置いた価値観を体得したのです。

負けたくなくても負ける。それも、何度も負ける。

自分の価値が損なわれる恐れのない、ある意味「負けてもアイデンティティを失わない」競争関係を早くから与えられ、たくさん経験して慣れている。

それが末っ子の強さの秘訣のひとつであると、私は感じました。

 

尊敬する人は?と問われれば、私はマザーテレサや宮本武蔵を挙げます。

皆さんは誰を挙げますか?

 

妻は、「自分より少しでも一つでも優れたものを持つ人は、みな師であり、尊敬の対象だ」と言いました。

正直、その発想はありませんでした。

基本的にほとんどすべての人に「すげーな」と思うそうです。

相手を尊敬している。

だから接する相手も心を開く。

だからいつも気の置けない仲間に囲まれる。

そういうことか、と思いました。

 

私は、すぐに至らない点を見つけて、相手を下に見る、器の小さいところがあります。

それはなぜか?

「たいしたことがない相手だ」と思わなければ、自信のない私は不安に押し潰されそうになるからです。

だから、いつも独りなんです。

それを突き付けられた気がしました。全部、自分の在り方が招いたことだったのだと。

 

自分にないものを持っている人は、脅威ではなく宝なのだと思います。

よりよく生きるための、より高い場所にいくための。

だから皆が味方で、皆のおかげだと感謝できて、今があるのは皆のおかげと、本気で謙遜する心を持ち、あらゆる全てに感謝できる。だから、世界が素晴らしいと思える。

そうなればもはや、世の中は敵だらけの嫌な場所ではなくなる。

私はと言えば、この世は阿鼻叫喚の世界だと思って今まで生きてきましたから、この発想は目からうろこどころではありませんでした。

 

まとめ:「感謝」というのは、義務でも自己欺瞞でもアピールでもなく、自然に湧き上がるものだった

私は、「全ての人に感謝」とか、全く意味がわからん、と思ってきました。

私は、親が感謝してほしそうにしていろいろな要らないものを押し付けてくる環境で「感謝しなきゃいけない」という圧力に不満が言えない時期を長く過ごしてきました。

感謝してしまったら、不満や自分の意見を持つことを許してもらえない、わかってもらえない、受け取ってもらえない、という恐れをもって生きてきました。

つまり、私にとって今まで「感謝」というのは自分以外の誰かのオーダーに対する無条件降伏に似ていて、今までのつらい経験からくる反射からすると「忌避すべき感情」として認識されていました。

 

感謝している人は、本気で感謝しているんだな、と思うと、不思議な感覚です。

「ありがとうありがとうばっか言って頭わいてんのか?」と白い目でみてきた私でしたが、彼らは本気で思っていたのか。「感謝してる私は上等な人間」っていうアピールじゃなかったんだな、と思うと、自分の認知の歪みはとんでもないな、と思います。

特に勝負において「人生を楽しむ」「幸せに過ごす」その方法とは、

①自分の改良を主眼に置いて、相手に負けることを逆に楽しむこと。

②一つでも優れた点があれば相手を尊敬し認め、学べる機会と相手の存在に感謝すること。

その2つでできているのだと、私は発見しました。

【AC】STEP12:「この世に無駄なことは一つもない」に納得した話

Having had a spiritual awakening as the result of these steps, we tried to carry this message to others who still suffer, and to practice these principles in all our affairs.

これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを他の人たちに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。

Copyright © 2018 by Adult Children of Alcoholics World Service Organization, Inc. All rights reserved.

 

最近、私はどこに向かっていけばいいのだろうか?と悩むことが多くなっていた。

他人には他人の価値観がある。

届かなくて当たり前で、届くかどうかコントロールしようとしてはいけない。

「他人のためにという起点ではダメだ、だから自分のためであることを忘れないように、物事に取り組まないと」

そう思えば思うほど、それは本当に私が向かいたい方向なのか?と首を傾げることが増えた。

 

自分のためばかりでは、利己主義である。

己のことばかりで生きている人生は虚しい。

己の欲を満たすためだけに、他人を蹴落としたり陥れたり、他人を警戒したり、そんなことは疲れるからしたくない。

そこまでして満たしたいほど、私の欲は深くはない。

 

かといって、「他人のために」というばかりでは、ただの共依存である。

共依存的な関わりは、双方病んでいく。

他人の為と言いながら自分の為であり、他人の為にただただ浪費され搾取される存在として自己犠牲を厭わないのは、美しいように見えて、自分を供物にして愛してほしいだけの、自分を卑下する生き方だ。自分に対しても、他人に対しても、失礼である。

 

つまり、どちらのためでも、よくない。

どちらかが正しいのではない。極に振っては、よくない。

中庸、バランスが大切である、という考えに行きついた。

自分以外の誰かに、自分と同じ程度の愛を運ぶことが、さらに自分と世界を美しくする法則なんじゃないかと思う。

第一に自分のためであり、他人のためになると己が信じ抜ける行動をすること。

それが最も虚無から遠い行い、生き様の具体的な姿ではないだろうか。

 

私は、虚無がすこぶる嫌いだ。

身体的には虐待らしい虐待もなく、雨風を凌げる家があり、飢えることもなく、教育を受けさせてもらえた私は、「恵まれている」と評価されることがほとんどで、ややもすると「温室育ち」などと揶揄されてきた。

しかし実際に生きてきた当人としては、生きている実感もないまま社会的正義に説き伏せられて言われたことをこなすばかりで、幸せかと問われれば、幸せとは言い難かった。

 

何をしても、どこにいても、誰といても、虚しい。

喜びや高揚感は何も感じない。

感じるのは不安と焦燥と怒り。

ちゃんとやらなくては。

上手にしなくては。

早くやらなくては。

人より優れた結果を出さなくては。

馬鹿にされないよう賢く立ち回らなくては。

何故こんなに大変なんだ、何故大変なのにつまらないんだ?

早く終わってしまえ、こんな徒労の日々…。

 

そんな思いで充満してすこぶる不愉快なわりに、芯には何もない世界。

果たして、そこで命を保証されていて、人は幸せだろうか?

他人から「幸せじゃん」「良い御両親だね」「恵まれてる」と言われるたび、絶望した。

これが幸せ?これが幸せとやらの上限なのか?

それならば、さながらこの世は地獄だ。これよりもっと下があるのか…。いや、むしろここから下しかないのか。

最悪だ。生きていくことというのは、何と辛い作業なのだろう。

みんな、何のためにこんな虚しい世界で生きるんだ?

何がしたくて、みんなこんな地獄を耐えて生きていきたいと思えるのだろう?

もしかしてそれだけの何かがあるのに俺がまだ知らないだけ?

とにかく理解しがたかった。

いま振り返れば、彼らは私の当時の生活水準だけを自分のそれと比較して話をしていたから、ズレていたのだと思う。

外から見た幸せと、その人の幸せは、必ずしも一致しない。

貧しくとも幸せが詰まった家庭があれば、豪華絢爛でも幸せが空っぽの家庭もある。

 

結果を出して優れた人物として人に認められる、ということは嬉しい。

しかし、この承認欲求というのは、インスタントな娯楽で目的ではない。人生においては副次的なお楽しみ要素である。

人生の価値は自分でしか測れない。

結局、承認欲求を満たすための行動というのは、他人の物差しで評価してもらって、己の価値を別の角度から確認するという作業に過ぎない。

他人の価値観の物差しでいくら幸せだと証明してもらおうとも、自分の価値観の物差しでなくては、本当のところは測れない。

自分の物差しを信じていないから、他人の物差しのほうが正確に測れるような気がしているけれど、それは自分の物差し(価値観)を蔑ろにしていることに他ならない。

最も正確な物差しは、主人公が私であるこの物語においては、私の物差しである。

完璧主義、成果主義、評価主義、承認欲求の囚われから抜け切れていないとその副次的なお楽しみ要素を人生の本質ととらえてしまい、目的を見誤る。

そして、振り返ってみると、自分にはコントロールできないもの(他人の価値観)をコントロールしようとして、徒労に終わっただけだったと気づく。最も見るべきものを見ずに右往左往して結局この場から少しも動いていなかったことに、人生が終わる間際に悟る。

そうして、結果的に人生が虚しいものに終わる。

 

では、何を道しるべにすべきなのだろうか?

信じる。自分の想いや願いが繋がることを。

今このとき、私が生きているうちに理解されなくとも、私が真剣に考えて良かれと思い、相手を尊重した上で差し出した愛は、いつか誰かに届くことを信じる。

この「信じる」ことこそが、結局最も私という世界で確かなことなのだ。

いつか誰かに届くなら、いくら現世で拒絶されていようと必ず届くわけで、やればやるだけ私は満たされていく。

経験した悲しみや苦しみの記憶は、繰り返さぬように同じように苦しんでいる他人に話し伝えることで、喜びや優しさに反転する。

負けた分だけ、苦しんだ分だけ、大切な人に届けられるギフトが増える。それは自分にとってのギフトにもなる。なんと素晴らしいことだろうか。私が虚しさと戦いながら這いずるように過ごした日々は、無駄ではなかったということになる。

だから「この世には無駄など一つもない」という言葉があるのだ。

喜びだけでなく、悲しみや苦しみや憎しみすら、ひとつひとつが愛すべき繋がりであり、己が血肉となって今がある。それは素直に謙虚に届けたい人に開示する限り、宝物として輝く。

 

まず第一に、自分の価値観を信じ、己の尊厳と己の信念を、最も大切なものと位置付けること。

その前提の元に、常に相手も私と同じ尊い存在として認識し、違いを尊重し在り方を考慮し続けること。

自分の目を覆いたくなるような悲しみや弱さや惨めな経験を受け容れて伝えることにより、他人に安心と勇気を届けたいと願い、行動し続けること。

 

これこそが、私が在りたい姿だったのだ、とわかった。

ここにきて、私はひとつ答えを得た。

 

これがステップ12の意味なのかな、と思う。

12ステッププログラムのステップ12を踏むということは、よくネットにあふれている回復者(自称)のように、教える立場に立つことで他の当事者に対してマウントを取ることではない。己の回復度合いをひけらかして承認欲求を満たすことでもない。

そんなつまらないことのために、12ステッププログラムがあるはずがない。

常に己の生活に12ステッププログラムの考え方を内包して、当事者であり続け、当事者としての自分を素直に謙虚に見つめ続ける土台がある人が、自分が今まで得てきた経験知という果実を仲間に惜しみなく与え、己の目を覆いたくなるような経験を率直に吐露することで自分も仲間も与えられ、救われるさまをステップ12は描いているのだと思う。