【メンタル】メンタルクリニックに通院していてガッカリするという話

私は、心療内科に通っています。

治療のために行っているはずなのに、いくと気分が落ち込みます。

一体なぜでしょうか?

診察の様子を振り返ってみる

受付をして、すぐに呼ばれます。

簡単に挨拶をして、医師は尋ねます。

「どうですか?最近は」

私は、調子の良し悪しの変遷を伝えます。

「それに関して何か思うところはありますか?」

私は、その質問に対して、2、3点『こういうときが辛い』という話や『これが気にかかっていてストレスになる』というような話をします。

たとえば、『アダルトチルドレンとして機能不全家族の元凶である両親に対し許せない気持ちがある』とか『急な仕事の依頼が入って順番が狂うと、ASD的な特性でとんでもなくイライラするからストレスがかかる』というような話です。

医師は「親も大変だし初心者なんだから許してあげなさい」とか「仕事をしている限りそのような苦悩からは逃れられないのだから、対策をするしかない」などと自身の持論を展開し始めます。

私は、しばしば、この辺りから閉口します。

「そうですね」「おっしゃる通りです」

と言って聞くに徹します。

いえ、正確には「聞き流す」に徹します。

ひとしきり医師は喋りたいだけ喋り、満足すると「あとは、何か気になっていることはありますか?」と言います。

私は「ありません」と答えます。

それで終了です。

私(患者)はどう感じたか?

正直言って

「こいつにいくら喋っても無駄だな…」と感じます

なぜか?

それは『私の話を聴いていない』から。

この医師は、自分が正しいと思っています。だから、自分の持論やメソッドを喋りますが、果たしてそれは今すべきことでしょうか?

あるいは、本当に正しいのでしょうか?

私は、感じていることを話し始めたばかりなのに、入り口で「こうするといいですよ」という話をされて、「なるほど!そうすればよかったんですね!」というでしょうか。

私は、辛さを吐露し始めたばかりなのに、入り口で「そんなことはみんなあることですよ」と言われて「なるほど!みんなあるなら仕方ないですね!」と納得するでしょうか。

するわけねーだろうが、馬鹿か。

んなこたー知ってんだよ。

正しいことなんて知ってんだよ。

それでもできないから辛いんだろーが。

それでもできないから苦しいんだろーが。

話出したらすぐお説教食らうんじゃ、話す気も失せるわ!

すみません、言葉が汚くなりました。

つまりはそう、『ちゃんと最後まで話聞けよ』ってことです。

判断が早すぎる。まだ触りしか話していないじゃありませんか。なぜ、触りだけしか聴いていないのに、あなたのなかの経験や知識の範囲の問題だとタカを括り断定してアドバイスを開始できるんですか?

私はあなたと会ってまだ数回で、話していないこともたくさんあるのに、なぜ知った風に偉そうに話すのを、お金を払って30分も聞かなくてはならないのですか?

おかしいですよね。

なぜ、人はこのような一方的な押し付けをしてしまうのか?

このような一方通行はありがちで、口汚く罵った私も自らを顧みないといけない経験があります。

そのような自己の反省経験から、以下の3つが原因になっているように思います。

①少し聞いて全てを分かったつもりになる

ドラマや映画で、話の冒頭を観ていて「あー、なんかどうせいつもの〇〇な話でしょ?」と思っていたら、ラストにとんでもないドンデン返しがあるようなこと、皆さんにもご経験がないでしょうか?

みにくいアヒルの子は白鳥になるし、シンデレラは王子の花嫁になるし、カエルの王子は人間に戻れるように、物語は最後まで聞かないとどうなるかわかりません。

患者さんが話し始めたとき、それは、竹取物語で言えば、「いいまはむかし、竹取翁と云うものありけり。野山にまじりて竹を取りつつよろずのことに使いけり。名をば…」くらいしかまだ話していないわけです。

それなのに「あー、光る竹の話ね!はいはい!」みたいな対応されたら、どんな温厚な人でもイラっときますよね。

その人が伝えたいことや聞いて欲しいことはまだ言葉になっていないかもしれない。

だから、特に病んでいて自己肯定感を失っている時は特に、言いっ放し聞きっぱなしで感情をそのままジャッジされずに受け止められる場所でしか、自分の本当の気持ちは話すものではありません。

わかったつもりになって話を遮られた時点で、心の扉を静かに閉ざし、二度と開くことはないでしょう。

②自分が見ている世界が常に正しいと思い込む

知識や経験が深く多くなればなるほど、自分はこの疾患についてエキスパートである、知らないことは何もない、と思いがちです。

私は少しアルコール依存症になって生きるか死ぬかを考えたくらいで、知ったような気になっていた自分が恥ずかしいです。

世の中には、薬物依存、ギャンブル依存、セックス依存、ゲーム依存など、様々な依存症があり、それらは別のようでいてとてもよく似ていて、『心の穴を埋めること』が共通して回復への道であると考えられています。

私は他の依存症の経験がないので誤解していたし、この依存症の方がやめにくいとか、あの依存症よりは軽いとか、そんなことを考えていました。それは今考えると、偏った考え方でした。そして、真実には近くなかった。

自分が経験し見聞きした世界だけが全てだとは限りません。

全く違う経験を経て、自分がまだ知らなかったことを知っていたり、違う観点や価値観で物事を捉え解釈している人もいます。

そうした可能性を「自分は経験が豊富だから正しい」と驕っていると、そうではなかったときに、そんな高飛車な人には誰も何も伝えてくれなくなってしまいます。

それは、寂しいことです。分かり合える可能性があったのに、自らゼロにする行為です。

③正論を教える≠回復に繋がる であることを知らない

回復とは、本人に委ねられています。

周囲の人が何をしても、結局のところ、本人が回復したい、回復して幸せに生きていきたい、と思わなくては、薬があろうが面談しようが、効果がありません。

それぐらい、生きるということは本人の自主性に依るところが大きいのです。

それを、正しいことを教えてあげよう、正しい道を示してあげよう、などということは実におこがましいことです。たとえそれが医師であったとしても。

正しいことは比較的わかりやすく、理解するのが容易です。

つまり、そんなことは多くの人が知っていることなので、わざわざ勿体ぶって言われても解決にはなりません。

それは、正論を言いたい人のオナニーなのです。

「おっしゃ!ダメなこいつのためになんでもよく知っているこの私がガツンと良いこと言ったったでぇ(ドヤァ」みたいな。

余計なお世話です。そして良いことではないです。

そのようにそのままの気持ちを吐露しているとき、その人は相手を信頼して意を決して話をしています。その信頼を、精子拭くティッシュに使って「はースッキリした」って丸めてポイするようなもんです。

正論を言って間違いを正すのは、自分が何者かになれた気がして、実に優越感があり気分がいいものですよね。その代償に、言われた人の自己肯定感は深くえぐられ、ひどく損なわれるのです。

だから私は、その人がどうしたいか?何を望んでいるのか?しかないのかな、と思います。

正しいか、間違っているか、はその人がその人生で学びその身に刻むもので、私がジャッジしていいことではないし、されたいとも思わないからです。

この人に回復してほしいな、と思うのなら、なおさら「これこれとはこういうものだ」「こうしなきゃダメだ」なんて言わないようにしたいと思います。

「回復の力」すなわち、自分で自然に回復に向かっていく底力のことを海外では「ハイヤー・パワー」と呼ぶそうですが、まさにそのパワーを信じて、その人に委ねたいなと思います。

知識は求められたときに与えればいい。

来たるべき時が来れば、自ずと伝わり、役立てられるもの。

そう思って、私は私自身の自主性を大事にしたいし、悩める人がいたとしても、その人が決めた方向性を尊重したいと思います。それが、本当に回復を願うということだと思います。

オナニーのちり紙に人の信頼を使うことはしたくありません。

まとめ:この人にはあまり話したくないな、というDrには、無理して話さなくていい

「担当医をかえたいなんて言いづらい」

「先生も私のことを考えてくれているんだから」

と、主治医に話しにくいにもかかわらず、我慢して通院のたびにメンタルをボコボコにされている人はいませんか?

そういうときは、嫌だって言っていいんです。

Drと患者も人間ですから、合う合わないがあります。自分に合った先生に出会うまでDrショッピング、私はいいと思います。

この人には安心して話せる、という先生を見つけましょう。

その先生に本心を話せばいいのです。話しても正論で返すようなDrや、面接の9割自分の話をするようなDrは、ハズレだと思って、他を当たっていいと、私は思います。

色々な先生を見てきました。

先生は全員聖人君子というわけではないし、全員金儲けばかり考えているわけではありません。

つまり、今の先生が合わないからといって、Dr全員に幻滅しないでほしいな、とは思っているのです。

医療も福祉も、同じようにみなさんを良くしようと頑張っていることだけは、確かなことのように思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする